ひねもすのたり
月嶌ひろり
私は時々、心の状態とはちぐはぐなことを頭の中で考えている。
自分が置かれている現実とはあまり関係がないこと。今はどうでもいいようなこと。
本当はドキドキしているときほど、そうなる。
理由は自分で分かっている。波立ちすぎた心をしずめるためだ。
高校一年の秋、生まれて初めて告白されたとき、私はインディゴカーミン溶液の信号反応のことを考えていた。
水酸化ナトリウムとグルコースを溶かした水にインディゴカーミン液を垂らし、容器の蓋をしめる。水は最初、黄色く染まる。それを振ると、緑になる。しばらく放置していると、赤に変わる。
中学生のとき、理科の先生が「酸化と還元」という現象を説明するために見せてくれた、不思議な実験だった。
「聞いてる?」
「あ、うん」
そうだ、今は生まれて初めて告白されている最中だった。
「俺と付き合うのは嫌?」
「ううん」
「じゃあ、付き合ってくれる?」
「いいよ」
「え、マジで?」
「うん」
相手は同じクラスのユウイチ君という男子だった。
野球部に所属していて、足が速い。
文化祭の係が同じになるまで、彼について知っている情報と言えば、そのくらいだった。文学好きで運動が苦手な私とは正反対のタイプだ。
ところが、文化祭の仕事を一緒にしていくうちに、私の中で、彼の印象がどんどん変わっていった。
最初は、意外ときれいな字を書く人だな、と思った。それから、笑った顔が可愛いところ、話を最後まで聞いてくれるところ、素直にありがとうと言えるところ……。ユウイチ君のことを「いいな」と思うことが増えていった。
けれど、私が好かれているとは思っていなかったから、告白されて、とても驚いたし、嬉しかった。
ユウイチ君が去ってからも、私はまだドキドキしていた。両手で胸を押さえて、呼吸を整えながら、色づきはじめた銀杏の木を見る。
そうだ、インディゴカーミン溶液は、そのまま放置していると黄色に戻るんだっけ。
*
冬、二人で模試を受けに行った帰り道、初めてユウイチ君と手をつないだ。そのとき私は、アポロ11号の月面着陸を思い浮かべていた。
ガガッ。
「ヒューストン、こちら静かの海。イーグルは舞い降りた」
有人宇宙飛行においてソビエト連邦に先を越されたアメリカは、威信を回復しなければならなかった。そのために発動させたのが、人類を月に到達させるアポロ計画。計画をスタートさせた当時の大統領は、ジョン・F・ケネディ。
「今、何を考えてる?」
「えっ」
そうだ、私は今、ユウイチ君と初めて手をつないだところだった。
「美咲って、時々、何を考えてるのか分からないときがあるよなぁ」
まさか人類初の月面着陸について考えていたとは言えない。
「ユウイチ君の手は温かいなって」
それも本当だった。
というより、初めてつないだ男子の手の温かさにドキドキしていたから、私の頭の中でアポロ11号が月に向かったのだ。
「美咲の手は冷たいな」
「冷え性だから」
「じゃあ、冬は大変だ」
「でも、手が冷たい人の方が心は温かいんだよ」
「なんだよ。俺の心が冷たいみたいじゃん」
私をこらっと叱るように、ユウイチ君が手にぎゅっと力を入れた。
手をつないで歩く。それだけのことに告白から二ヶ月もかかった。
先に彼氏ができていた友達のユミは、
「手をつないでほしいときは、横に並んで歩きながら、手をコツンコツンとぶつけるといいよ」
と教えてくれたけれど、かなり身長差のある私とユウイチ君の手は、並んで歩いていても、自然にはぶつからない。
手相を見せてもらったり、ヒールのある靴を履いてみたりして、やっと辿り着いた今日なのだった。
アポロ11号のニール・アームストロング船長は言った。
「この一歩は小さな一歩だが、人類にとって大きな飛躍である」
手をつないで歩いてみて、改めて気づいたことがある。
ユウイチ君は、普段から歩く歩幅を私に合わせてくれている。
彼は手も心も温かい人だ。
大きな満月が、はるか上空から私たちを見守っている。
*
速さを求める公式は、距離/時間。100メートルを12秒フラットで走るランナーの速さは、秒速約8・3m。時速に換算すると、約30km/h(キロメーター・パー・アワー)。ちょっとした自動車のスピードだ。
初めて野球部の試合を見に行ったのは、高校二年の春だった。
ユウイチ君は、その試合のスターティングメンバーではなかったけれど、緊迫した接戦であることは、野球に詳しくない私でも分かった。
九回裏で三対二。
うちの野球部が一点負けている。
ツーアウトを取られてから、ヒットとフォアボールでランナーが二人出た。
逆転のチャンス。
監督がタイムをかけて、審判のところに歩み寄る。
「代走」
というコールの後、ベンチから駆け出してきたのは、ユウイチ君だった。
ユニフォームを泥だらけにした二塁ランナーとタッチして入れ替わると、彼はベース上でスパイクのひもを結び直し、屈伸をした。
「ちゃんとスパイクを履いていれば……」
と以前、ユウイチ君が私に自慢したことがある。
「俺は100メートルを11秒台で走れる」
相手チームの監督もベンチから出てきた。外野手に向かって、おいでおいでをするようなジェスチャーをすると、ライト、センター、レフトを守っている選手たちがじりじりと前に出る。
ユウイチ君は警戒されているのだと思った。
試合再開。
胸がドキドキする。
相手チームのピッチャーが何度も二塁を振り返ってから、渾身のボールを投げ込んだ。
カキーンッ
という金属音が響いた瞬間に、ユウイチ君はもうスタートを切っていた。
速い。
韋駄天のように駆けていた。
スタンドからワーッと歓声が上がる。
私はボールの行方に目をやった。
一塁手と二塁手の間を抜けた鋭いゴロがライト前に転がっている。ダッシュしてきた外野手がそれを拾い上げると、ホームめがけて、倒れ込みながらボールを投げた。
ユウイチ君はすでに三塁ベースを回っている。腕を大きく振りながら、歯を食いしばって駆けている。私が今まで見たことのない必死の表情だった。
矢のような送球が返ってくる。
ユウイチ君が帽子を飛ばして、頭からホームに滑り込んだ。
土煙が舞う。一瞬の沈黙の後、
「アウトーッ」
という審判の声が響き渡った。
ゲームセット。
試合が終わった後、私は近くの公園でユウイチ君を待っていた。そこで落ち合って、一緒に帰ろうと約束していたのだ。
ユウイチ君がやって来た。白い歯を見せて私に笑いかけると、
がばっ
といきなり抱きついてきた。体がきしむほど強く。
私もユウイチ君の背中に手を回した。
その背中が小刻みに震えている。
秒速8・3mの俊足ランナーが、私の腕の中で泣いていた。
少し汗ばんだ彼の背中をさすりながら、私は、
「お疲れさま」
と言った。
それ以外に何を言えばいいのか分からなかった。
夕焼け色に染まった公園に、沈丁花が甘くほのかに香っている。
*
初めてキスをしたのは、それから一週間後の日曜日。
私とユウイチ君は房総半島の海に来ていた。
暖かくなってからは、土日にも野球部の練習や試合の入っている日が多かったから、一緒に出かけるのは本当に久しぶりだった。
茂原という駅に着いて、勝浦行きの電車に乗り換える。御宿という駅で降りて、菜の花に彩られた気持ちの良い道を歩いていくと、海に出た。コバルトブルーのきれいな海だった。
「遠くまで来た甲斐があったね」
お弁当のサンドイッチを食べ終えた後、片付けをしながら、私が言った。
「うん。ここに美咲と来たいと思ってたんだ」
水筒の紅茶を飲みながら、ユウイチ君が言う。
「前は誰と来たの?」
「家族と」
「ふーん」
「な、なんだよ」
「何でもない」
私は最近、時々、ユウイチ君に意地悪をしたくなる。
理由は自分でも分からない。
もしかすると、彼が奥手だからかも知れなかった。初めて手をつなぐまでには二ヶ月かかったけれど、初めてのキスは、付き合って半年経っても、まだしていない。
「キスしてほしいときは……」
と友達のユミは言った。
「彼の目をじっと見て、前髪をかき分けるといいよ」
おでこを見せることで、心を開いているというメッセージになるらしい。けれど、私はそこまで露骨なことはできない。だから、意地悪をしたくなる。
「なぁ、美咲」
「ん?」
急に真面目な顔になって、ユウイチ君が言った。
「キスしてもいい?」
「ダメと言ったら?」
「言っても、する」
視界をふさぐように、ユウイチ君が私の目の前に移動した。そして、私の肩と頭の後ろに手を置くと、髪の毛をそっとなでた。
人生で一度きりの瞬間。
私は彼の目をじっと見て、それから目を閉じる。
波の音、風の音、二人の呼吸する音。
やわらかい唇のふれる感触があって、それから、押しつけるように強く、もう一回。
初めてのキスは、アールグレイのにおいがした。
ユウイチ君に強く抱きしめられたところで、私は目を開けた。
砂浜の向こうに、春の海がたゆたっている。
「美咲は今、何を考えてる?」
「ひねもすのたり」
「何だそれ?」
私はそのとき、与謝蕪村の俳句を思い出していた。
「春の海ひねもすのたりのたりかな」
口に出してしまった。でも、いいや。胸の高鳴りは、どうせユウイチ君に伝わってしまっている。
「美咲って変なやつ」
自分でもそう思う。
ファーストキスの後に抱きしめられながら、与謝蕪村の句を思い出していたことを私はきっと一生覚えているだろう。そう思うと、おかしかった。
「でも、そこが好きだ」
と言って、ユウイチ君が私を抱きしめている腕に優しい力を込めた。
私は再び目を閉じて、彼の胸に体をあずける。
心も頭も一緒に溶けて、このまま春の海になれ。
*
その日の帰り道、駅に戻る途中で、私たちは菜の花畑の前で写真を撮った。行きに撮れば良かったのだけれど、そのときは思いつかなかったのだ。
もう夕闇が迫っている。二人の顔は、きっときれいには写らないだろう。
それでもいい、と思った。
ここで写真を撮ったということが、思い出になれば。
ユウイチ君が腕を伸ばしてスマホのモニタに二人を収める。私は首を傾け、少し屈んでいる彼の肩に頬を寄せた。
カシャ。
私たちの後ろには、暮れなずむ空と黄色い花畑。
菜の花や月は東に日は西に
そんな俳句を思い出していたことも、私はきっと忘れない。
(ひねもすのたり 終)
ひねもすのたり 月嶌ひろり @hirori_ai
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