常磐ノ鬼
桃瀬あのい
第一話
その少女はあまりにも、死に、近かった。
二ノ月も終わりに近づき地上では春を迎える準備が始まろうとしているというのに、この北の地は氷の世界を溶かすまいと努めているようだった。身を切るような冷たい風は雪と共に、春の気配を探しては抹消しようとしばらく北の地を支配している。
幻想的な銀世界に彼――――クリストファー:ルイスはいた。美しい黒一色の髪に、雪の白が絡む。十七年生きてきたクリスが初めて雪に触れたのが、およそ半刻【三十分】前である。
しかし、彼に感慨にひたる余裕は与えられなかった。
「……カイル! しっかりしろ、くそっ……」
左手で強く青年――――カイル:ローランドの左手首を掴み、右手で腰を抱く。カイルに肩をかし力の抜けた彼の体を支えているも体格の劣るクリスには具合が悪く、どうにも思うように足が進まない。
場所が悪かった。山のなかで急斜面なうえ雪が降り積もっており、何度も足をとられる。加えて、そもそもクリスにもカイルを支えながら山を登る力など残っていなかった。
「クリス……無理、するな……」
「うるさいっ……黙ってろよ、馬鹿が……」
普段なら、カイルにそんな言葉を投げかけると二言三言うるさい返しが飛んでくる。今は、カイルのものとは思えない弱々しい笑みが溢れただけだった。クリスはそれが憎くて、歯を食いしばり力強く一歩を踏み出す。
ふたりの通った跡はどちらのものともしれない血で染まっている。
(やっぱり、今回は退却すべきだった)
クリスは恐ろしいほどの後悔に襲われていた。
クリストファー:ルイスが所属する
世界の中心を陣取り、科学技術の発達したSKY-CITY――通称、“S-C”と呼称される、人間だけが生活を営むことを許された地域がある。それを統べる統制機関、SKY-CITY特殊機関――――通称、“S-C機関”に夜妖は属していた。
夜妖が担う役目は、S-C機関の掲げる最大目的『SKY-CITYの安全保障』のもと、人間を脅かす存在であるアルファに特化した戦闘力を駆使し、害なすアルファを駆除することであった。
“ひと”という概念は、“人間”と“アルファ”に二別れする。個体差はあるものの、たいして変わりのない見た目、同じ共通言語という言葉を話す生物でありながら、両者を“人間”と“アルファ”に別つ最大の違いは、アルファに流れるのは
“妖”という概念については、ひと型である“アルファ”に対し、動物型である“デルタ”との二つに別たれる。
このようにアルファが二つの概念を跨いで認識されているのはおかしいと、妖の血が入っている以上アルファを“ひと”という枠から除外し“妖”という概念だけに当てはめるべきだと主張する人間は、S-Cに少なくなかった。
S-Cの地域にはアルファが存在しない。アルファは、S-Cの外である
人間とアルファ、デルタに関して言及すると、S-Cは人間だけが、R-Eは人間とアルファ、デルタが、H-Zは限られたアルファとデルタが生存するという、世界は大きく三つの地域に区分された。
クリストファー:ルイスはS-Cに生まれ、十五のときにS-C機関員養成所を卒業し、正式に夜妖の隊員となった。入隊後二年間は実習期間として小さな任務からこなすという夜妖の方針に従い、それらをこなしてきた。
今回の任務は実習期間最後の任務であった。それゆえ難易度は高く設定され、クリスの同期たちは意気込んでいた。それが悪かった。
クリスはとめた。
高空輸送機がクリスたちをR-Eの北地に送り届ける役目を果たし、再び空高く上昇したあとのことだ。
ここでひとつ問題が起きる。
感知した目標の数が予想をはるか上回っていたのだ。
誰からともなく退却すべきじゃないかという雰囲気になった、最初は。それを破ったのはこの任務の指揮を任された、オーバン:ダフの『怯むな、退却はしないぞ。数は多いが、相手はどうせ下級のアルファだ』という高圧的な言葉だった。
自負心の強い者が次々にオーバンの意見を推し、そうすれば周りも感化され、クリスを除く隊員十数名は退却という選択を捨てた。クリスがいくら熱心に退却すべきだと口を挟んでも、誰も聞く耳をもたなかった。
それでも意見を通そうとするクリスにオーバンは、『そんなに退却したいなら、おまえひとりで逃げればいいんじゃないか?』と、クリスの大嫌いな嫌味たっぷりの笑みを向けたのだった。
(気を抜いたらそのまま崩れ落ちそうだ……)
手の先の感覚がなくなりはじめている。両足で立っているのでさえつらかった。酸素を欲する肺が苦しかった。
不幸中の幸いというべきか、背の高い木々が生い茂るそこは、吹雪く雪のおかげもあってクリスたちの姿を紛れさせてくれている。視界不良ではあるが、覆角膜情報表示器具は正常に機能しており、体温を感知することのないまま中央で青い光がくるくると丸をなぞって駆けていた。
「――――……こちら、C-L。誰か、……応答せよ」
『…………』
「C-L。K-Rと……戦線、離脱中……」
『…………』
クリスが
「みんな、だめだったのか……」
カイルがひとりごとのようにか細い声でつぶやいた。
彼が身につけている小型無線通信機にも当然反応はみられず、血の気の失せた顔色がさらに悪くなったようにみえる。
言葉にださないがクリスは内心、同期が全滅した可能性の高い状況下でこうして隣に言葉を交わす相手がまだ残っていること、それがクリスの唯一の親友とよべる存在であるカイル:ローランドであることに感謝していた。
「わからない…………けど、ぼくたちも」
(このまま山に籠っていても助かる保証なんてない)
事実を改めて認識すると、心がずしりと重くなった。いったい自分たちは、どこに向かって歩みを進めているのかと――――
「おい、いたぞ!」
「――――っ」
上方から声が聞こえた。
瞬間、世界の時が止まったような錯覚がクリスを包む。
(見つかった――――)
手足にぴくりと力が入る。考えるより先に、足が動いた。
「カイル、足だけ動かせっ……」
よろめきながらもぼちぼちと真っ直ぐ登ってきた道……といえるほどのものではない、木と木のあいだの急斜面を斜めに下っていく。勢いのあまりクリスとカイルの体は何度も木にぶつかった。だが痛いだなんて言ってられない。
振り向いて敵の姿を確認する余裕までなかったが、追ってきている気配は感じない。距離がとれたか……。
緊張が少し和らいだクリスが、あっ、と思ったときには遅かった。左足ががくんと崩れ、いやな浮遊感に包まれる。体と内蔵の位置がずれる感覚が心臓を縮めさせた。
全身に強い衝撃がはしる。
クリスが足を滑らせたのは山の斜面から三メートルほど地面が窪んだ、比較的小さな崖のような場所だった。なだらかな斜面だったらよかったのだが不運にもそこは地面を真っ二つに切ったような垂直具合で、落ちた彼らの体は地面に打ちつけられた。
咳がでる。積もった雪はダメージを軽減してくれたようだが、冷たくて堪らない。クリスは咳き込みながらも体を起こした。すぐ傍で、カイルが雪の地に伏せている。こちらに向けられた顔に、いつもなら金髪のあいだから覗く緑色の瞳は閉じられていた。名を呼んでも、反応はない。
(気を失ったのか……まずいな、どうする)
クリスたちを落下の衝撃から守ってくれた雪だが、それは彼らの通った場所に足跡を残してきてしまっている。移動し続けなければ、敵がクリスたちに追いつくのは時間の問題だった。
「……こちらC-L、誰か、生存者はいないか」
小型無線通信機に、やはり反応はなかった。
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