第四話


 嫌な音がした。

 それはクリスが聞き慣れてしまった、忌み嫌う…………肉が裂け、骨を断たれるあの独特の。


「な″……に″……?」


「フロイント……!」


 もう岩のように重い頭はもちあげることができず、クリスは雪の地面に伏したまま大嫌いな音のするほうに視線をやる。

 雪の白が重なっていっそう白くぼんやりする視界に、巨体が倒れるのが見えた。


 その後ろに立つ、小さな影も。


「ちょっ、待った、あんたオカシイんじゃない? どうしておれらを――――」


 嫌な猫目のアルファの声が、嫌な音で遮られる。すると、彼の言葉はもう紡がれることがない。鮮明な紅が大地を色づける。


「おめー、どーいうつもりだ。緋蒼の――――」


(……ひそう…………?)


 確かに聞き取れたその単語。発したのは、刀を手にした尖り耳のアルファであった。

 刀身を駆けるように光がきらきらと反射した。ふたつの影が踊っていて、そのあいだで金属のぶつかり合う音が奏でられる。


「ぐっ……」


 重力に従った物質が落ちる音。

 その音を拾いにいくかのように、大きな影が小さな影の前に跪く。みれば、かれらの足元には尖り耳の片腕だったものが血溜まりのなかで所在なげに転がっている。


「逃げろ、ルーヴル……こいつは……」


 それまでじっとしていたもうひとつの影が大きく動く。小さな影に飛びつかんとするが、途中でぴたりと動かなくなった。振り上げられた腕にがら空きになった胴、そこへ飛び込んだ小さな影――――。

 それが離れると、大きな影はどさりと地に沈んだ。


「くそが――――」


 首を体と別つ音を最後に、クリスの嫌うその音はしなくなった。彼の片腕同様、重みのあるそれが地に落ちるごとん、という音が、はっきりとクリスの耳に、ぼんやりとした視覚情報とともに届いた。

 屍が横たわるなか、佇む小さな影。動かないそれは、クリスを見ているのだろうか。


 その影がひとまわり大きくなる。

 クリスのほうへ近寄ってきたのだ。


 さほど離れていないその距離はあっという間に詰められ、クリスの視界はその影が纏うマントの黒でいっぱいになった。


「…………なんだ。せっかく助けたのに……虫の息ね」


(……助けた…………?)


 上から落ちる冷たい声は驚くことに女性――――というにはあまりに幼さの残る、少女のもので。

 強まる花の香りに、どこか懐かしく感じるその声の主を確かめたい衝動に駆られた。けれどクリスの体はとうに限界を越え、自分の意識を繋ぎ止めることに精一杯だった。


「…………殺せばいいって、あなたが言ったのに、どうして抵抗したの?」


「…………そ、……なの……」


 次第に重くなる瞼に、必死に口を動かす。たった一言、伝えたい言葉は決まっているのにそれが音にならないもどかしさがクリスを襲う。


 風に、香りが舞う。


 クリスを助けたという少女が傍らに膝をついた。クリスの力ない言葉を聞き取ろうとしたのだろう。

 近づいた距離に、クリスは目の端で少女を捉えた。


「…………生きた、かった……から……」


 風に被っていたフードを持ち上げられ、少女の銀色に青のグラデーションがかかった綺麗な髪がクリスの視界いっぱいに広がる。

 そこからじっとこちらを見つめる瞳は左右で異なる赤と青の色を帯び――――人間離れした神秘的な美しさを感じさせた。


 意識が遠のき、視界が真っ白になっていくなか。

 最後にみた少女がどこか悲しそうで、それでいて悔しそうな目をしていたことがクリスは気がかりだった。





 朝から吹雪いていた雪が午後にはすっかり静まり、わずかな風だけがなびいていた。太陽のでていない曇天は今にもまた雪をちらつかせてきそうだと、アナスタシア:アルフォードは天を仰いで思った。


「さすがに夜妖といえど、空は飛べないよ」


 隣から声をかけられる。銀色の短髪に、空色の瞳をした青年――――アレア:ビエントだ。


 何のことかと首をかしげるアナスタシアに、アレアは得意げに口角をあげている。この男がこんな表情をしているのは大抵がひとをからかっているときである。


「ナーシャが空ばっかりみてるから、そんなとこに夜妖はいないよー、って」


 ナーシャ、とはアナスタシアの愛称だ。彼女を愛称で呼ぶきっかけとなったのは、このアレア:ビエントである。彼はアナスタシア以上にこの呼び名を気に入り、必要以上に彼女の名を呼ぶ癖があった。


「わ、わかってるよ。ただ、また雪が降ってきそうだなって思っただけで……」


「うん、そうだね」


 微笑むと、アレアは前を向いた。


 アナスタシアは寒い季節になるといつも思う。彼ほど雪が似合うひとはいないんじゃないか、と。彼女は少しのあいだ、横からみてもわかる端正な顔立ちのアレアを見あげていたが、またからかわれてはいけないと周囲に視線をやった。


「…………誰もいないね」


「そうだね。重症だったらしいし、そんなに遠くまで行ってないと思うんだけど――――」


 ぴたりと立ち止まった青年につられ、アナスタシアの歩みも止まる。


「アレア?」


「…………血のにおいがする」


「あっちょっと」


 アレアはアナスタシアの手首を掴むなり斜面を駆けおりた。


「待って待って速い! 速い! 転んじゃうって」


「平気だよ。そうなる前に支えてあげるから」


 冷たい風を全身に浴びながら内心ひやひやのアナスタシアに対し、アレアは何とも思っていないようだ。むしろ、アナスタシアの反応を楽しんでいるようにさえみえる。


「このあたりのはずだけど」


「ほ、ほんとうに……? だいぶ下ったと思うけど……」


 ようやく走るのをやめたアレアが手を離す。アナスタシアは呼吸を落ち着かせるために一度息を大きく吸って、吐いた。


「ナーシャ、平気?」


「……そうみえる?」


 息ひとつあがっていない銀髪の青年は肩をすくめた。

 斜面に対し平行に歩みを進めてしばらくすると、気配に鈍いことを自覚しているアナスタシアでさえわかるほどの嫌な気が血のにおいと混ざり、風にのってやってきた。


「どうする? おれが先にみてこようか」


 アレアは背後にいるアナスタシアに首をひねって視線をなげかける。アナスタシアは一瞬ためらったが、すぐに首を横にふった。


「ううん、わたしも行く」


 そうしてふたりは凄惨なその場所に辿り着いた。

 どれだけ歩けども真っ白な銀世界だったのが、ここだけは紅い、紅い、別世界が広がっている。

 アナスタシアはその紅の中央に横たわるかれらの姿を一目みるなり真っ青になり、口元を手で覆う。


「…………アルファか。これは、なかなか」


 アレアはアナスタシアをかれらの見えない木の影へやると、血溜まりの向こう、白い雪のなかでひとり倒れる青年の元へ近づく。

 一見ただの死体である。夜妖の制服らしい、黒に近い深緑の制服はあちこちが血で染まっており、瞼を閉ざしたままぴくりとも動かない。


「アレア、夜妖の彼は……?」


「…………死んでる」


 傍らに膝をつき、確認のため彼の首に手をやる。

 思わず、アレアは苦笑した。


「――――かと思ったけど、どうやらまだ生きてるみたいだ。驚かされるね、夜妖の生命力には」


「えぇっ、生きてるの?」


 アナスタシアもまさか青年に息があるとは思っていなかったらしく、面食らった様子で木の影から顔を覗かせる。屍を見ないように背を向けながらそろそろと歩みを進め、アレアと、死体だと誤認された黒髪の青年の元に駆け寄った。


「じゃあ、このひとが…………ディックとローナを助けてくれたのね」


「さあ。助けたのかどうかはともかく、面倒事が増えちゃったのは確かだよ」


 傷の止血にとりかかりながらそんなことをぼやくアレアの肩をアナスタシアが叩いた。


「アレア!」


「いた。だって、彼を運ぶのはおれだろう? 疲れるよ? 山道だし」


「ハリマさんだってあの金髪のひとをおぶってあげてたでしょ!」


「あんな筋肉の塊みたいなひとと一緒にしないでくれる? はぁ、やっぱりアタギさんにはこっちに来てもらうんだったなぁ」


 応急措置としての止血を終え服を整えると、アレアは黒髪の青年――――クリストファー:ルイスを抱き上げる。


「う、重いな」


「疲れたら、わたし、少しのあいだでも交代するよ?」


「あはは、無理だよナーシャには」


 ふたりは来た道を辿る。ふたりぶんの足跡の残った道を、さんにんで。


「…………今回は男か」


「男?」


「なんでもないよ。かわいい女の子だったら喜んで運んであげるのに、残念だなって」


「アレア……」


「あはは、冗談だよ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

常磐ノ鬼 桃瀬あのい @momo_ano

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ