第3話

3.

そのまま濡れて帰ったら、彼女は見透かしたように風呂を沸かしていた。

「風邪を引くわ、お風呂に入って。私には雨の色が見えないけれど、きっと哀しい思いを倍にするような色をしてるのでしょうね…小説や映画の中だと、必ず主人公が泣くときに雨は降ってるもの」

彼女な寂しげに笑った。その笑い声は、私が今まで見てきた中で一番寂しい色だった。勿忘草の青色だった。

こんなに寂しい青色は、多分どこにもない。

あぁ、孤独で沈んでいるのは、私だけではなかった。

窓の外を見ると、重い雲の切れ間から太陽の光が漏れていた。

「…もう直ぐ晴れるみたい」

「どうして?」

彼女は窓を振り返った。微細な色はその瞳に届かない。

「雲の切れ間から、太陽の光が漏れてるの。光の道みたい…。あれって、フランスでは天使の梯子って言うのよ。おかしいよね、翼があるのに梯子を使うなんて…」

「翼がある人でも、梯子を使いたくなる時があるのよ」


色を知ることができない私でも、色を知りたいと思う時があるわ。


彼女の言葉から漏れた色は、そう言っていた。

だから私は誓ったのだ。

「…私はあなたに、色を見せてあげたい」

「私も見てみたい。あなたの見る世界にどんな色がついているのか…」

子どもも、ヨーロッパもいらない。

「私は詩を書くわ。本来は詩と音楽って一つのものだったのよ。…だからあなたは自慢のピアノで、私の欠落を補うの。できるか分からないけれど、もしかするとあなたは失望するかもしれないけれど」

「たった独りで味わう幸せよりも、二人で味わう絶望の方が私は好きだわ」

天使の梯子が太くなる。あの冷たかった雨が、いつの間にか心を潤す慈雨になっていく。


私はあなたと、本当の色をみたい。子どもをつくるよりも、それは幸せを運んでくれるに違いない。


私は書いたこともない詩を書き始め、彼女はピアノを本気で習い始めた。


医学は私を女とは裁断しなかった。半陰陽とか、両性具有とか、インターセックスとか何とでも言える。

私の御魂みたまは女だった。彼女の御霊もまた、女だった。でも私の身体はまだ未定なままだった。それでも好きになるのは女だけだった。

これを多様性と片付けるには綺麗すぎる気がする。

私たちは、ここにいる。それでも、どこにも誰にもなれないような気がする。

国籍を持てない難民と、どこへ行っても外国人扱いをされるハーフの子どもたち。世界は哀しい音と色に満ちている。それなのに、彼女はその音と色に腐ることもなく私を見つけてくれた。

あの素晴らしい音と色を、見せてあげたい……。

半年ほどかかってようやく私と彼女は一つの詩と、音楽をつくった。

「結構な難産だったわね…でも、初産は皆難産っていうし、この次からはぽんぽんつくれるわ」

彼女が軽口を叩く。

「でも、この場合はどっちがパパとママなのかしら」

彼女はフッと笑顔を消してから、黄金色に輝く笑みを向けた。

「私たちは二人がパパでママ…そしてそのどちらでもないわ。本当の色や音や愛には、多分名前がないはずだから」

「そうね」

私と彼女は出来上がった詩と音楽を見せ合って、一緒に奏でた。




涙は枯れ果てた。怒りも使い切った。

ただ一つのことだけが、胸に去来する。

音も色も、この世界には何もない。

灰色だ、見せかけの極彩色だ。

あぁ、もう二度と笑顔には、なれそうもない。



いつか本当の音を聞くことができる日はくるだろうか。

いつか本当の色を見ることができる日はくるだろうか。

私やあなたが幸せの音と色に包まれる日はくるだろうか。

孤独の背に、いま手が置かれる。

天使の梯子が私たちの前に降りて来る。

ほら、翼のある人でも梯子を使いたくなる刻が必ずやって来る。


「あんな刻もあったね」と必ず笑える日が、思い出せる日が、来るわ。


だから今だけは、今日だけは、

くよくよしないで、ありのままの色に晒しましょう。

今日の風に、音に、色に吹かれましょう。


哀しみと喜びが、ない交ぜになっていく。

過去と未来が、ない交ぜになっていく。

今日は斃れても、音を、色を、知れなくても、

必ず生まれ変わって、巡り合いましょう。



私たちは永遠に旅を続ける。

いつか故郷に、家族に、愛するあの人に、忘れられない音や色に出会う日は、来るだろうか。

それを見つけられても、見つけられなくても、抱き締めることができても、

いつか必ず斃れる日がやって来る。

それでも、私たちはこの扉の前に今降り立つ。

怖くても、信じて扉を開ける。

たとえ果てしもなく、冷たい雨が降っていても。


哀しい色と、喜びの色が、ない交ぜになっていく。

斃れる日と、生まれ変わる日が、ない交ぜになっていく。

そこに本当の音と、色と、私とあなたがいるでしょう。

だから必ず生まれ変わって、また巡り合いましょう。


哀しみと喜びが、ない交ぜになっていく。

過去と未来が、ない交ぜになっていく。

今日は斃れても、音を、色を、知れなくても、

必ず生まれ変わって、巡り合いましょう。



今日は本当の音を聞くことができなくても、

今日は本当の色を見ることができなくても、

今だけは、今日だけはありのままの音と色を晒しましょう。

そして、吹かれましょう。

たとえ今日斃れることになっても、

必ず生まれ変わって、巡り合いましょう。



「私、初めて色が見えたわ…」

「どんな色だった?優しかった?鮮やかだった?」

彼女はおかしそうに、でも慈愛に満ちて笑った。


「あなたの色が見えたの」

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色を読む 三津凛 @mitsurin12

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