第2話

2.

その後で私と彼女はミルクティを飲んだ。背伸びをしてコーヒーを無理に飲む必要のない色のついた空気に、私は初めて自然と背筋が伸びていくのを感じた。

彼女の世界には色がない。だが過剰に色の溢れる私の世界も、同じところにいるような気がした。

「チャイコフスキーは楽器の使い方がとっても素敵なのよね」

カップの縁を指でなぞりながら彼女は楽しげに唇を窄める。ふぅぅっと綿毛のような湯気を飛ばす。

「どうしてそう思うの?」

私は穏やかな気持ちで見守る。何もせずとも花がぱらりと開くように、彼女の放つ色はごく自然に開かれている。鈍く朝露と同じように輝いている。

「だって、弦楽セレナーデは管楽器での冒頭は考えられないし、白鳥の湖もオーボエ以外の主旋律は考えられないもの」

私は目を閉じて頭の中で音楽を思い描く。弦楽器の悲鳴と、オーボエのか細い歌声を別の音に置き換えてみようとする。頭の中で水に溶かした絵の具のように色が滲む。

「そうね」

私は目を開けて頷いた。

彼女と目が合う。

私はここにいる。どんな風に見えているのだろう。この時は怖くてまだ聞けなかった。



「私、あなたのこと好き。私は色を知らないけれど、いつかあなたの見るような洪水みたいに色が溢れる世界を見てみたい」

思いがけず彼女の方から告白をされた。その言葉の色は穏やかな音とは対照的に鮮やかな色をしていて胸に刺さった。

「…私もあなたのことが好きよ」

「じゃあ、両想いね!」

無邪気に喜ぶ彼女を見て、私は潰れるような思いがした。

「でも私は…レズビアンじゃないかもしれないの」

「バイセクシャルってこと?」

私はここにいる。それでも、どこにも誰にもなれないような気がしていた。

「私はね、性分化疾患なの。性自認は女で好きになるのも女性なんだけど、身体はまだどちらにも分類できていないの…これから生理が始まるかもしれないし、男の方に分化していくかもしれない…。でも自分の中にある女性性を全部好きになることもまだできないでいるの。こんな私をレズビアンだっていえないと思うの」

彼女は黙って私の言うことを聞いていた。初めて自分の胸の中に押し込めていた澱を日の当たる場所に置いた気がする。その色はくすんで汚かった。人間が汚した海の底から引き揚げたヘドロのような色をしている。

どうして私はこんなに醜いのだろうかと喉元に硬いものが込み上げてくる。

「いつもね、思うの。国籍を持てないままの難民とか、どこの国へ行っても外国人扱いされちゃうハーフの子どもみたいに哀しいなぁって。…私はマイノリティとすら言えないままなのかなぁって…。でも、あなたのことは好き」

彼女はほんの少しだけ目を閉じた後で、必死に見えない色を見るように目を細めた。

「あなたはたくさんのパスポートを持ってるのね、素敵じゃない。私はそういうところも大好き」

「でも…」

「ふふ、あなたは私を見つけてくれたわ。それだけでもう十分じゃない。たった一つの国や故郷しか持てないことも、もしかすると不幸せなことかもしれないじゃない。あなたが今それを持っていないと哀しむのなら、そのパスポートを使ってあげればいいと思うわ。世界中が、あなたのための国になるし、故郷にもなるわ。…私がそうする」

彼女はそこで俯いた。色を知らない瞳に、微かに涙が乗っているのを私は見つけてしまった。

パスポートを使えばいい。

他の誰かに言われたら、そんな綺麗事を、と私は怒ったに違いない。

私にとっての欠落をこんな風に言う人が、見る人がいる。

今広がる色はどこまでも優しかった。

あぁ、これは愛の色だ。

彼女はこの色を知らない。いつかこんな風に世界が染まっているのを、彼女に見せてあげたいと心から思った。



私と彼女はそれから一緒に暮らし始めた。私がオーボエ奏者であることを言ったら、彼女は自分はピアノが少しできるのと自慢気に調子を合わせた。

「木管の中ではオーボエが一番好きよ。情緒的で、人間の声みたいじゃない?」

「そうね…でも、もう一つオーボエを選んだ理由があるの」

私が意地悪く笑うと、彼女は先を促した。

「オーケストラ全体の調弦をするときに、オーボエのラの音で皆合わせるの。なんだか、皮肉でしょう?普段は私みたいな人間は誰の前にも出られない、中心になるなんてもってのほかよ。それが、巨大なオーケストラの中心にいて、私の吹くラの音に皆を合わせてやるんだから」

「そういう理由だったの?ふふふ、おかしい」

彼女は眩しそうに目を細める。

「…それであなたはどうしてピアノを選んだの?」

私も聞いてみる。彼女は曖昧な顔つきになって、静かに言った。

「ピアノって、オーケストラの最低音と最高音を唯一カバーできる楽器でしょう?私は色を網羅できない代わりに、せめて音だけでも網羅してやろうと思ったの…ふふ、変でしょ」

私は彼女の心に広がる哀しみをそこで見た気がした。

「私たちはやっぱり似た者同士ね」

こうして生きることは絶えずままならない。だから芸術に何かを託そうとする。

男女が医療の力を使ってでも子どもを持とうとするのも、これと同じ事なのだろうか……。


そんなことを考えると、いつも哀しい夢を見る。

銀色の柄の長いスプーンのような器具たちの整列と、消毒液の匂い。揺れる真っ白なカーテンと、脚を広げるゴム手袋の感触。冷たくて、痛い。

私の性がばらばらにされていく。

お前は男でも女でもない。そのままでは、どこにも、誰にもなれない。

「お前は子どもを産めないね」

両親の言葉が降りてくる。それから彼らは振り返らずに、出て行った。私の手を引いてくれることはなかった。

薄暗い病院の緑色の床がどこまでも広がる中に、私はたった独りで取り残される。両親が出て行った扉の先には真っ白な光が広がっている。

それから、全ての音に色がつくようになったのだ。

気がつくと、降り止まない冷たい雨の中にいる。私の中から、汚い色が滲み出して世界を穢していく……。


私を棄てたはずの過去の方から、にじり寄ってくることがある。両親は気まぐれに、私を食事に誘う。断ればいいのに、まだ私は私を産んだ大地からは完全に足を離せないでいる。

彼女はそんな私を怒ることもなく、憐れむこともなかった。

「温かいミルクティを淹れて待ってるわ」

それだけ言って、私の背中を軽く押した。

私は中堅どころのオーケストラで首席オーボエ奏者をしていた。そのうち本場のヨーロッパへ彼女と渡って、できれば二度と両親の顔は見たくなかった。自分の子どもが芸術家の端くれであることが、最近では唯一の自慢なのか両親はこうして私を誘う。

彼女のことも、私は事務的に告げた。

「…でも、お前たちは子どもを産めないね」

この人たちは変わっていない。私は冷えた膜が張り始めたスープを銀色のスプーンでかき混ぜる。

この人たちは変わっていない。私が初めて性分化疾患だと診断された時から、なにひとつ。

私は笑った。変わらない、変われないことはどうしようもなく不幸で、幸せなことだと彼らの顔を見て思った。

そんな緩い、誰かの痛みの上に成り立つ幸せを守るくらいなら、自分から肉や骨を断つような不幸に突っ込んで行く方がよっぽど人間らしい、と思った。

「…そのうち、ヨーロッパへ行きます。日本には帰って来ないかもしれません。こうやって一緒に食事をするのも、これが最後かもしれませんね」

私は静かに言った。

「でもいつかは孫を見せてくれるんだろう?」

「養子でも…人工授精でもいいわ。相手の女性はふつうなんでしょう?」

あぁ、分かっていない。変わっていない。

この音は、色は、最悪だ醜悪だ。

「それはまだ分かりません」

私はスプーンから指を離した。それと一緒に、両親からも指を離した。


外へ出ると、本当に冷たい雨が降っていた。

傘も屋根もない。雨粒の音から、鈍色が立ち昇っていく。不穏で、世界の終わりが近づいているようだった。

今なら泣いても、雨と涙の見分けはつかないだろう。身体が冷えてくるにつれて、みぞおちの辺りが熱を持って胃が跳ねる。哀しいんじゃない、怒ってるんだ。

私を理解しろとも、認めろとも言わない。ただ、あなた達の、あなた達による、あなた達のための幸福と規範で私を切り刻まないで欲しいだけだった。

早く彼女が淹れたミルクティだけを飲みたいと思った。

こんなに醜い色は、未だ嘗て見たことがない。

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