the Black Man
金村亜久里/Charles Auson
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チンパンジーを飼うことにしたから見に来てほしいと言うので、日曜日、どんなほら話をきけるのかとおもってわたしは出かけた。徒歩で行ける距離だったから移動は苦でなかったのだが、「チンパンジーだなんて、どんな代わりのものが拝めるのか」というのがわたしの思うところだった。以前「ゾウを飼うことにした」と言うので見に行ったらゾウムシが出迎えたし、「うちにはキリンがいる」と言って見に行ってみれば、観葉植物が身じろぎもせず鉢に植わっていた。
「オオゾウムシだ」
二匹がガラスのケースの中を動いており、一匹は標本にされていた。名札にはこうある。
『SIPALINUS GIGAS
Animalia, Arthropoda, Insecta, Coleopreta, Polyphaga, Curculionoidea, Rhynchohoridae, Stromboscerinae, Sipalinus gigas』
動物界、節足動物門、甲虫網、鱗翅目、多食亜目、ゾウムシ上科、ゾウムシ上科、オサゾウムシ科、キクイサビゾウムシ亜科、オオゾウムシ属、オオゾウムシ。
一行目の大文字は、学名であるらしい。
観葉植物を指して、こうも言った。
「オオバキリンだ」
『PERESKIA GRANDIFOLIA HAWORTH
Plantae, Magnoliophyta, Magnoliopsida, Caryophyllales, Cactaceae, Pereskia grandifolia』
植物界、被子植物門、双子葉植物網、ナデシコ目、サボテン科、コノハサボテン属、オオバキリン。
そんなふうに言う、学部以来の友人である彼が、「チンパンジーが来た」というので、一体次はどんなほらをふきだすのかと顔を出すと、二階に通される。彼の家は二階建てで、一階は彼の居住スペース、二階は彼の飼う動物たちのための場所となっていた。その二階の、北に面した部屋の半分近くを占める、天井まで届かんばかりの金属の檻の中に、物言わぬサルが一匹、壁に、いや檻の鉄棒に半ば寄りかかるようにして、ちょこねんと座っていた。陰の中でいっそう黒く、毛に覆われた全身のみならず顔までも黒い。成熟したチンパンジーだった。何かのそのそと動く様子はほとんど人と変わらず、私は最初人間が檻の中に入れられているのではないかとさえ思った。しっかりと観察し、これが歴としたチンパンジーであることがわかっても、まだ疑ってさえいた。その実特殊メイクをして顔立ちや頭身を変え、動きまでも模倣した誰かではあるまいか? しかし、物をつかむ手の形は明らかにサルであった。
檻の手前に、例によって白い名札があった。
『PAN TROGLODYTES
Animalia, Chordata, Vertebrata, Mammalia, Primates, Haplorrhini, Homonidae, Pan, P. troglodytes』
動物界、脊索動物門、脊椎動物亜門、哺乳網、霊長目、直鼻猿亜目、ヒト科、チンパンジー属、チンパンジー。
「チンパンジーだ」
彼は言った。今度こそほらではなく、本物だった。
このチンパンジーは、日に三キロの食事を与えられていた。リンゴ、バナナ、オレンジ、コマツナ、ジャガイモ、キャベツ、セロリ、ホウレンソウ、ゆで卵、麦、その他気まぐれに彼が買ってきては与えるものがこのサルの食事内容だった。間接照明が照らすだけの薄暗い部屋で、このチンパンジーは日に三度バケツに補充される食物を時折食べ、うんともすんとも言わずに、檻の隅か、真ん中か、さもなくばどこともいえないような場所に座り込んでいた。
他の動物はいない。虫や鳥のかご乃至水槽は別室に移されて、その部屋は唯一この寡黙なチンパンジー一匹のためのものになっていた。遠い祖先はアフリカの熱帯雨林で同胞と暮らしていただろうこのサルには、今や話し相手などいるはずもなかった。木も雲も川の水面も、虫も獣も、そこにはいなかった。
流石にかわいそうと思ったのかわからないが、彼は画用紙と、天然素材のクレヨンを与えた。それから、やや古い辞書を筆頭に種々の本を、積み上げるかたちで檻の隅に置いた。
「絵本は置かないのか」
「ああ、いけない。忘れていた」
絵本もその上に載せられた。彼が昔読んでいたものが、チンパンジーに下し与えられた。
さてチンパンジーは画用紙とクレヨンを手に取って片方を片方に擦り付けるようにして線を引いていったが、当然人間が見て有意味な形が出来上がるわけではない。色も形も統一を欠いた様子は、どこか「ものぐるおし」げなものを感じさせた。あるいはこのサルは辞書を扱うにしても薄い紙の一枚一枚を丁寧にめくろうとはせず、ページの中ほどに無用な折り癖をつけることもしばしばだった。その点絵本はめくりやすい。内容を理解できているわけではないだろうが、それでも時折チンパンジーはページの一点に目を止めて、長いことそれを見つめていた。
先ほどからくどくどとチンパンジー、チンパンジー、という表記を繰り返しているのはなぜかと言えば、彼がこのチンパンジーに名前を付けるのを拒んだからだった。拒むというのも正確を期すのならば間違いで、そもそも彼は自分の飼っている動植物に名前をつけないたちで、今回もその慣例に従っただけなのだが。
また、こんな会話があった。
「チンパンジーなんて、どこから買ってきたんだ。動物園か」
「いや」
「ペットショップ?」
「いや」
「個人か。まさか密猟者から買ったりしてないだろうな」
そこで彼は黙り込んでしまったが、「然り」の意味のだんまりでないことは明白だった。とにかくそこで会話は途切れてしまった。
しばらくのち、彼はこのチンパンジーにペンを与えた。太いサインペンだった。在宅の仕事だったので、基本的に一日中自宅にいる彼は、暇ができればなにかとそのチンパンジーのいる檻の前に陣取ってあぐらをかき、中の様子をうかがっているようだったが、少なくとも最初の二週間は、そのサルが何か有意味な文字を紙に記すということはなかった。せいぜいが汚い楕円や三角でそれらがまさかデルタやオーを示しているはずもない。
二週間たつと、彼は檻のいちだん高いところに模造紙に書いた五十音表とアルファベット表を張り付けてサルに示した。それから楔形文字と漢字をそれぞれ五十ほど記したもの、ギリシア文字、キリル文字、梵字、アラビア文字とその派生文字、シリア文字、アラム文字の一覧表が加えられた。さらにビルマ文字やタイ文字、クメール文字、モン文字、クオック・グー(ベトナム語等を表記するために使われる拡張ラテン文字)、チェロキー文字、カナダ先住民文字、果ては未解読の線文字に至るまで、ほとんどありとあらゆるといえそうなほど様々な種類の文字表がチンパンジーに下し与えられた。サルはどうしたかといえば、檻に貼ってあるのをはがして引きずり降ろし、物を食べるとき下敷きにしてはリンゴの汁で汚したりした。表の方に視線を向けこそすれ、それが実際に紙を、さらには紙の上に書かれた記号の群れを見ているようには到底思われないような視線の向け方をするのだった。しかし……ときおり紙にペンでもって記す記号のいくつかに、それらの文字の一つと偶然似通った形のものが見られるようになった。チンパンジーも図形を記憶しうることが実験で証明されている。毎日見ていれば、自然といくつかを覚えることはそう難しくないのだろう。
その日家に帰ったわたしは、インターネットと辞書でチンパンジーの学名と意味を調べた。Pan troglodytes……Panはpanicの語源となったギリシアの有角の神パンに由来する。パン神は山羊の角と脚をもち、笛を吹き、時折ひどい癇癪を起して動物たちを震え上がらせた。種小名であるtroglodytesは、発見当時チンパンジーを呼ぶため用いられていたラテン語名troglodytae(「洞穴に行く者共」の意)のギリシア形で、「穴居人」、転じて「原人」の意味を持つという……。
日曜日になると、わたしは彼の家に呼ばれて一緒にチンパンジーやその他の生き物を観察したり、カフェでコーヒーやパンケーキを摂ったり、古本屋で稀覯本を漁ったりした。彼は殊の外紅茶を好んだ。わたしはひどい猫舌で、熱いものは全然飲めないのだが、彼はどんなに熱いものでも平気で飲み干した。彼は熱いもののほかに、辛いものも好んだが、チンパンジーに辛いものを与えることはついぞなかった。
そんな風にして、彼がチンパンジーを家に迎えてからちょうどみ月経った日曜日、彼は積み木をチンパンジーに買い与えた。色の三原色に緑、橙、紫、そして空色の四色を足して計七色の積み木で、いたって軽く、三角から円柱まで形も様々だった。サルの方も気に入ったようで、よく遊んでいる。年来彼が好んで着る安っぽい色彩の黒いシャツと鮮やかな発色の積み木とは好対照であった。
彼はわたしにチンパンジーの記録日誌を見せた。一日に見開き二ページから三ページ、多い時には五ページも使うようなもので、罫線の一行一行に小さな字でぎっしり文字が詰め込まれ、所々にスペースを広くとって、スケッチと、それからチンパンジーがまねた文字の写しが記入されていた。文字の写しは極めて丁寧であり、彼が言うように、チンパンジーの書く文字が段々と洗練されていっていることが、贔屓目でなく真実そうであるとわかるものだった。
ふと、チンパンジーがじっとわたしを見た。一介のチンパンジーらしからぬ光を湛えた目をしていた。その光は何か人智を超えたものが見出しうるように思われて、わたしはそうと意識しないままに二歩ほど下がっていた。
彼はチンパンジーが積み木で作った塔のようなものをスケッチした。土台に黄色と橙、中腹に青と緑と紫を配して、逆三角形の頂点には赤い積み木が炎のように固まって積まれていた。
その時、不意に消防車のサイレンが聞こえてきた。十字路を三つ隔てたすぐ近くの民家で、老後を慎ましやかに過ごしている夫妻の住まいであるはずだった。
「行ってみよう」と彼が言った。空のバケツを持っていた。わたしも同じものをもう一つ持って向かった。
やけに乾いた初冬の日のことだった。年金生活の夫妻はそう多く外出する性質ではなく、火事が起きた当時も家にいたように思われた。わたしたちが家の前に着いた時には放水が始められていた。バケツを持ってきていたわたしたちは、消防士に止められて、ただ燃え盛る古びた家と、家を包み込む炎を見ていた。炎は家屋全体に充満しているようで、場所を問わずに漏れ出した火の手が平屋の一戸建てをほとんど破壊的な火力で炙っていた。
古い家だった。風雨に侵され、あちこちに黴や煤の染みがついて、玄関前の植木鉢は元の赤土の鮮やかな色を失って紫に変色し、そこから生えた観葉植物も、火にまかれて燃え盛っていた。黒い煙ももうもうとふき上がってくる。屋根に頂く青い釉薬の簡略瓦もすっかりくすんでいたが、その経年劣化の上から黒煙を被って濁った鼠色に変色しつつあった。
主はどうなったろうか?
「通報したのはここに住む女性でした。夫と共にまだ中にいるようです」
さかまく炎は空気をふるわせて、本当にぼうぼうと音を立てていた。わたしは我知らず、渦を巻く炎に包まれて炭へ燃え尽きていく萎びた老人の体を想像して、ひどくいやな気分がした。そのような想像をする自分もいやだった。彼の方はといえば、その荒れ狂う炎を前にして、熱に顔を焼かれながら、食い入るようにそのさまを見つめていた。熱に圧されながら炎に魅入られているのはわたしも同じだった。火事は早々に鎮火されたものの、夫妻は広い範囲に火傷を負ったらしい。
ある時わたしは彼のつける日誌の中に有意味な一文を見つけた。
Gallia est omnis divisa in partis tres.
『ガリア戦記』の冒頭である。猿の拙い字でありながら、しっかりとそうと読めるふうに書かれた由緒正しいラテン文字に、わたしはすっかり、恥ずかしながら、仰天してしまった。
わたしは気軽にものを話せる人間と会う機会に恵まれていなかった。あるいはそうでもなければ家で動物を所狭しと飼うような人間とこうしてつるみ続けることもなかったかもしれない。しかしともかく、友人がチンパンジーを飼っている旨を伝えると、「そういうこともあるでしょう」と医師は言った。
「色と記号の十程度の組み合わせのセットを用意して、それを画面に映して、連続して映った同じものを選ばせるテストがあるんです。丸と橙、三角と紫、三角と青、四角と緑――。それで選ばせて、正解するとレーズンをあげるんですね。そうやって『同じものを選べばいいんだな』と学習させる。それでもって人間が示したのと同じ記号を選ばせる」
「それで、こうしてちょっと長い文でも書けるようになるものですか」
「訓練次第ではできるでしょう」
「もしもそれでチンパンジーと人間が会話できるようになったとしたら?」
……(医師はそこで顔をしかめたように見えた。)
「それは中国語の部屋と同じ問題になるでしょうね。文字の上ではちゃんと会話できているように見えているとしても、やっぱりそれも訓練の成果かもしれないし、仮にまったくばらばらなフレーズを前にしてそれぞれ会話しているような文章を書けたとしても、そのチンパンジーが言葉のそれぞれの意味を理解してそれを書いているかは、やはりわからない」
彼は木炭画を描きはじめた。チンパンジーの絵だった。しかし三割ほど仕上げたところで投げ出してしまった。
ある日曜のことだった。わたしは彼を散歩に連れ出した。彼はすっかり出不精になっていた。黒染めのジーンズとセーターを着て、髪を無造作に伸ばしたままの彼は、まったく全身が黒いばかりで、それは靴も例外ではなかった。なぜか革靴だった。
「スニーカーはないのか」
「ない」
「そう……」
わたしはスニーカー、チノパンと、ベストの上から青のダウンを着ていた。
空気は日に日に冷たくなっていった。枯れた色の木の葉が道路脇にたまっていた。日曜の昼下がりで、ニット帽を被った五六歳の幼児が細い歩道を渡って公園に向かい走り回っていた。赤いニット帽だった。火を連想した。彼の異様な目付きに気付いたのはそのときで、わたしはすぐに彼の手を取ってその場を離れた。厳冬だった。彼の手はほとんど熱を失っているように感じられた。そこは住宅街の空き地を利用した猫の額ほどの、公園とは名ばかりのエアスポットだった。三十分ほど歩くとひときわ大きな緑地、まっとうな公園があるので、そこまで二人して歩いて、池に着いた。在来種を保護するビオトープの役目を持つ池だったのが、誰かがブラックバスとカミツキガメを放してしまったために、一度生態系が壊滅したことがあった。
MICROPTERUS SALMOIDES, Animalia, Chordata, Vertebrata, Actinopterygii, Perciformes, Centrarchidae, Micropterus。
動物界、脊索動物門、脊椎動物亜門、条鰭網、スズキ目、スズキ亜目、サンフィッシュ科、オオグチバス属(内8種11亜種)。ブラックバス。
CHELYDRA SERPENTINA, Animalia, Chordata, Vertebrata, Reptila, Testudines, Chryptodira, Chelydridea, Chelidridae, Chelydra Schweigger, C. serpentina。
動物界、脊索動物門、脊椎動物亜門、爬虫綱、カメ目、潜頸亜目、カミツキガメ上科、カミツキガメ科、カミツキガメ属、カミツキガメ。
彼は橋の上でしゃがみこんで再生した生態系の一匹である小さな魚を観察した。わたしもそれを見た。ミナミメダカだった。メダカが属する条鰭網はシルル紀以来あらゆる海洋陸水域で生活するようになったという。彼も同じ種類のメダカを飼っていて、元はこの池の個体を五匹程度持ち帰って育て始めたはずだった。若干の頭垢の紛れた髪越しに水面下のメダカを見ていた。対面の岸には十人程度の老人連があり、集まった鳩にちぎったパンの耳をやっているようだった。わたしは自分たちのすぐ近くにも鳩がいることに気付いた。その鳩は一部の羽が純白色で、式典などで放されるために白く塗られた鳩の、羽がほとんど生え替ったものででもあるのだろうか。わたしも彼もパンの耳を持っていなかった。その鳩は赤い目を見せながらしばらくあてどなく歩いていたが、羽音を立てて飛んで去って行った。
彼がいつの間にかいなくなっているのに気付いたのはそのときだった。彼は対岸の老人連のところへ向かっていた。わたしが追いつくと、彼は老人連を相手取って何やらまくしたてていた。色とりどりの、くすんだ色の装いの人間たちの真ん中で、黒い服の男が居丈高にものを吐き散らしている。
「鳩に、鳩に餌をやって、餌付けして、どう責任を取るっていうんですか。餌がもらえると知ったら鳩はここに集まりますよ。そうしてあなた方が全員死んで、いなくなった後、餌を求めてここに来る鳩だけが残るわけじゃないですか。それを一体どう責任取ろうっていうんですか」
老人連はすっかり顰蹙といった感じで彼を見ていた。一人が言った。
「何です、いきなり押しかけて。死んだらなんて縁起でもないこと言うもんじゃありませんよ」
慇懃な、今にも死にそうな老人だった。
「死なない気ですか? 生物のくせに」
老人は、ひいっ、と吸気で喉を鳴らした。
「いつか死ぬんですよ。その死んだ後にどれだけ迷惑を少なく残して死ねるか、そういう努力が必要じゃないですか。え? 人間の責任を放棄するつもりですか。まさか……」
「おいお前、無礼だぞオッ」
妙な訛りのある声で染みまみれの老爺が怒鳴った。今にも殴りかかって来そうな剣幕だが、殴ってきたところでむしろ老爺の拳が割れるのではないかと思われた。彼は鼻を鳴らして棒立ちのまま拳を受けるつもりでいたらしいが、流石にわたしは止めに入って、その場を離れた。
「何もあんなに煽らないでも」
「別に……」
それがわたしと彼が一緒に外出した最後になった。
多くの動物を飼育している彼の家は、異臭だの騒音だので以前から近隣からの苦情が絶えなかった。わたしがその日彼の家を訪れると、玄関でインターホンを押そうとしたところで、声をかけられた。擦り切れかけの藍色のハンチング帽をかぶり、何十年と使い古された紫檀の杖をついて歩く老人で、やせ細って干からびたような体に反してよく通る声の老人だった。人間の生命力……力強さを感じてしまい、わたしはいたくたじろいだ。
「あ、ちょっとお兄さん、そこの人のお友達?」
「はい」
「ちょっと聞いてくださいよこの前そこの彼がごみ袋捨ててったんですけど縛り方が悪かったのかカラスがすぐ目つけて穴開けちゃって、しかも中身が生ごみで、ほらエサ用のネズミ? だか捨ててるでしょう、だからすンごく臭うんですよこれが。ちょっとね、ゴミの処理の方ね、もっとちゃんとするように言っといてもらえるとね、助かりますね」
彼の家に入ると、積みあがったごみ袋が出迎えた。ざっと数えて五つはある。大量の生ごみと、それから紙ごみ、さらにはよくよく見てみればビニール袋に入った魚(彼が飼っていた品種だった)が詰め込まれていた。直近のごみの日は五日前だが、普段の彼なら一週間でここまでごみを出すようなことはない。
彼は二階にいた。南側の部屋で作業をしていた。そこには今や生命の気配はなかった。水槽の水は抜かれ、植木鉢もケージも、皆もぬけのからとなっていた。
わたしが言葉を失っているのをみて、彼は言った。ああ、来たか。(彼はずいぶんと長い間髪を切っていないようで、前髪が眉間にかかっていた。安物の黒シャツの袖口に付いた土の色が厭に目立った。)
殺したのか? 全部?
ああ。
どうして。
面倒をみきれなくなった。
その言葉が嘘であることは明白だった。これまで彼は全く問題なく多くの生物を管理してきたし、これからもそうできたはずだった。悪い予感がしてわたしは北側の部屋に向かったが、そこには以前と変わらずチンパンジーがいて、隅でちょこねんと座って絵本のページをめくっていた。
命が失われていないことにひとまず胸をなでおろし、しかし違和感を覚えた。違和感? いや、怒りだろうか。……黒い顔のサルは壁の文字を見つめて、ペンを握り、紙に何やら書きつけていた……。
顔を上げたチンパンジーがわたしを見た。いつかに続いて、またあの人智を越えた光を湛えた目をしていた。穏やかな湖面に横たわるわたしは顔を背けてから聞いた。
「チンパンジーの面倒はみるのか?」
彼は無言で頷いた。サルはわたしが顔を背けるとまた紙に視線を落として、字を書き続けた。牛耕式で、細い線の文字列を、異様なほど連続して書き連ねている。その紙をわたしはちらりと見ただけなので判読できず、その後もその紙を見ることはなかったのだが、もしもそれが自然言語による長大な意味のある文章の筆記だったら……何故一介のチンパンジーにここまで不安を覚えなければならないのか? それは単純な理由で、わたしはあの猿の目に宿る光が恐ろしかったのだ。この近縁の類人猿の黒々とした目の、人智を越えたものさえ(なぜ?)うかがわせる奇妙な光を発見してしまい、それ以来、わたしはこの小さな隣人を前にして心穏やかでいることができなくなってしまったのである。
それから彼はもっぱら檻の中のチンパンジーをみるようになった。収入源だった株やFXの取り引きも一切やめて(これは単に暴落で大損するのを防ぐためだろうが)ひねもす檻の前に陣取り、サルを観察していた。以前途中まで描いてやめにしていた木炭画も再開したようで、三度わたしが顔を出した頃、冬が深まり夜の空気が凍えるほどになった時節には、かなりの割合が完成していた。チンパンジーは相変らず絵を描き、文字を写し、辞書を繰り、積み木で遊んでいる。そして相変らずこの類人猿の目には何か超越的な光があるような気がしてならなかった。わたしがそれを見出しているだけなのだろうと思っても……
ある夜仕事を終えたわたしは彼に呼び出されて家に向かった。冷たい冬の、上弦の月が低い位置に浮かんでいた。
家に入ると、ここ何か月かと同じように照明は一切落とされて暗く、藍色の淡い光と黒々とした夜の闇が広がっていた。二階から呼ぶ声がするので上がると、玄関からでも感じていたガソリンの匂いがいっそう濃くなった。
何をしているんだ?
とにかく来てくれ、こっちだ。
二階に二つある部屋の内の北側の、カーテンも閉めきって、わずかの明かりもない真っ暗な中に、彼はいた。最近よくしていたように、檻の前で膝を抱えて体育座りになって座っていた。黒い髪はいっそうのび、襟足は首の付け根ほどまでを覆い、視界はほとんど髪に隠されるようになって、黒いシャツを着た彼のなりもあって、その姿はほとんど檻の中にいるサルと変わらないようになっていた。足の前にアルコールランプを三つ灯している。燃料の匂いがするのはそこからではない……わたしは部屋に入ろうと一歩を踏み出したところで、すんでで立ち止まった。浮き上がったシルエットの向こう、部屋の入口の対面にある壁に書かれた文字を発見した。
『HOMO SAPIENS SAPIENS (LINNAEUS)
Eukaryota, Animalia, Eumetazoa, Bilateria, Deuterostomia, Chordata, Vertebrata, Tetrapoda, Mammalia, Eutheria, Euarchontoglires, Euarchonta, Primate, Haplorrhni, Simiiformes, Catarrhini, Hominoidea, Hominidae, Homininae, Hominini, Hominina, Homo, Homo, sapiens』
真核生物、動物界、真正後生動物亜界、左右相称動物、新口動物上門、脊索動物門、脊椎動物亜門、四肢動物上網、哺乳網、真獣下網、真主齧上目、真主獣大目、霊長目、真鼻猿亜目、真猿亜目、狭鼻下目、ヒト上科、ヒト科、ヒト亜科、ヒト族、ヒト亜族、ヒト属、ヒト。
わたしは彼の名を呼んだ。……一体何をしようっていうんだ、おかしくなったか。しかし言葉を発したはいいが、わたしは部屋の中へと踏み込むことはできなかった……。
彼はそれまでと何も変わらない調子で言った。おれは人間なんだ。そしてこいつ(檻の中にいた黒々とした影を指さして言った。チンパンジーはただ座ってじっと火を見つめていた)も同じ人間だ。同じものになれる。そして立ち上がると、わたしが躊躇っているのを見て、先だって手で制した。
危ないから、下がって。そこで見ていてほしい。
彼の周囲には膝ほどまでの高さのドラム缶が二つあった。一つを掴んでガソリンを部屋の半分にぶちまける。サルは頭を低くして身を守った。もう一つの中身をもう半分にまきちらすと、擦ったマッチ棒を投げて火を点けた。円形の火が橙色を見せて瞬く間に広がっていく。わたしは一歩二歩と部屋の入口から後退せざるをえなかった。
こっちにこいと叫んでも無駄であった。いや、火の海へ飛び込んで無理にでも引っ張ってくればよかったのかもしれない。だがそうしたところで彼が動くともどうしても思われなかった。結局わたしは火の手が部屋の外に及ぼうというところで階段を駆け下りて家を出ると、消防署に通報し、近隣に危険を伝えた。熱と光に照らされてあの部屋のほぼ中央に直立する彼の姿を今でもはっきりと覚えている。
火事は夜明け前後、東の空が菫色になってきた頃合いに鎮火された。延焼で二軒半焼し、三軒の壁が燃えた。幸いにも火元以外の住居から死者は出なかったが、避難の際に脚を骨折した女性がいるという。
奇妙なのは、焼け跡から発見されたのは身元の判別もろくにできないほど黒焦げになった遺体一つのみで、しかもその骨が人間であるか、チンパンジーであるか、その一点さえもまったくわからないということである。人間とそれ以外の類人猿を分ける重要な特徴の一に、たとえば頭骨がある。眉の部分の出っ張りが、人間の場合は少なく、他の類人猿は多い。顎周りの筋肉の発達具合も違うため、人間の顎はきわめて小さい。頭骨で比べると、サルの類の顎はかなり出っ張っているように見えるはずだ。当然その他にも多くの相違がある。そういった違いが一切検討できないほどに、そのただ一つの遺体はぼろぼろに焼け落ちていた。
火事以来、彼とは連絡がつかない。
あるいはあの熱に強い舌を持つ彼であれば、外部から焼き焦がす炎熱からも逃れられたかもしれない。不合理だが、そんな風にも思う。ではそうなると彼は一体どこへ消えてしまったのか? あの死体は、誰のものだったか、何のものであったか。わたしには何一つ結論を見出す能力はない。だが、彼は本当に死んでしまったものだろうか。どうもそんなことはないような気がする。彼が死んでいたとして、ではあのチンパンジーはどこに消えたのか? 猿の発見情報は寄せられていない――
the Black Man 金村亜久里/Charles Auson @charlie_tm
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