5 真相(?)

 太郎氏の主張を要約すると、こういうことであった。

 

 本当はあなた(※筆者のこと)の仰る内容が正しい。しかしながら今や全国に散らばる我江一族の名誉のために、それを公にするのは望ましくない。そのために私はあのようなホームページを作成し、言わば歴史を改ざんしているのである、と。

 何を大げさなとは思ったが、太郎氏の語る真実はなかなかに衝撃的だった。

 

 伊賀守は、たしかに1569年、尼子再興軍の要請を受けて廃城となっていた有害城に入城した。しかし、それは尼子勢の一翼を担うためではなく、同城を毛利元就を呪殺するための祈祷所とするためであった。

 ところが、伊賀守の呪いが奏功するよりも早く、翌1570年には各地の尼子勢が続々と鎮圧されて行った。身の危険を感じた伊賀守は、末弟の飛騨守を元就呪殺計画の首謀者に仕立て上げて、自らは村を脱出することにした。

 その結果、飛騨守一人が討ち取られ、伊賀守と美濃守の兄弟は、まんまと他所へ逃げおおせることに成功した。

 そんなかれらの末裔が、我々だというわけである。

 

 ある種のやるせなさを覚えながらも、私にはもう一点、太郎氏に問うておかなくてはならないことがあった。

 すなわち、我江の末弟である飛騨守は、一体どのような最期を遂げたのか、ということである。

 これに対する太郎氏の回答は、私を驚愕させると同時に、ある意味では興奮もさせた。


   ***


 毛利方の進軍が噂される中、伊賀守は二人の弟に、有害城にほど近い牛首山うしくびやまに登るよう誘った。同山は地元では素戔嗚すさのお降臨の地ともいわれ、村人たちに信仰されていたのだ。

 その際、ただ山に登っても面白くないということで、誰が最初に山頂にたどり着けるのか、三兄弟で競争することになった。無論、これは伊賀守と次兄の美濃守の策謀である。

 上の兄二人が馬で牛首山に向かうのを見て、自らも愛馬に跨る飛騨守。しかし、彼の馬は兄らの細工で生気を失っており、牛のような速度でしか動けない。

 そうして飛騨守が牛首山の山頂にたどりついた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。山頂に、すでに兄たちの姿もない。

 仕方なく山を下りた飛騨守だったが、その途中、夜盗の集団が彼を襲った。

 夜盗というのは実は●●の村人たちであり、かれらは伊賀守に唆されて、飛騨守を毛利方に差し出せば恩賞にありつけると考えていたのだった。

 そうとは知らない飛騨守は、瀕死の愛馬を駆って有害城へと急ぐ。途中、懇意の村人たちに助けを求めようとするが、かれらの家の門はそのことごとくが堅く閉ざされていた。

 飛騨守は、村人たちに一晩に渡って追い回された末、最後は黍畑のぬかるみに足を取られ、落馬したところをついに村人たちに討ち果たされた。

 最期の瞬間、彼は自分を取り囲む村人たちにあらん限りの呪詛じゅその言葉を吐き続けるとともに、自身の血に塗れた黍殻を掴んでは虚空に向けて放り投げていたという。

 その頃には、二人の兄はとうに●●を脱出していた。


   ***

 

 門禁忌と黍禁忌。●●地域に伝わる二つの禁忌は、実はどちらも飛騨守の死に由来するものだったわけである。想像していたよりヘビーな内容であったので、これなら一度の死で禁忌が二つ生じるのも無理はない。

 ところで、上記の牛首山のエピソードについては、似たような話が『ふがす郷土誌』にも『牛首山の牛の足跡』として記載されている。

 要約すると、昔、●●近郊の三つの村の地頭が、土地の境界を確定するために牛首山に登ったという。そのうちの二つの村の地頭は馬で山頂を目指したが、●●村の地頭はうっかり牛に乗って出かけたために、境界争いに敗れてしまったという。

 この逸話は、おそらく我江三兄弟の話から転じたものなのだろう。上の逸話では、争いに敗れた地頭が山頂の岩を牛に蹴らせてその跡が今でも残っているというが、飛騨守の話も併せて考えるととても見に行く気にはなれない。

 ともかく、こうした逸話からも、太郎氏の教えてくれた有害城の顛末が真実であることが強く推認されるというものである。


 さて、太郎氏とはその後も何度かメールのやりとりをしたのだが、「自分は我江の総本家から古文書を持ち出したことで命を狙われている」だとか、「我江家は現在でも呪術を生業にして日本の暗部に食い込んでいる」とか、残念なことを仰るようになり、挙句の果てには私に呪術の稽古をつけてくれるとしつこく勧誘してくるようになったので、自然と連絡を取らなくなってしまった。

 今回、本稿を記すにあたって念のためにメールで連絡を取ろうと試みてはみたのだが、今のところ返信はない。例のホームページも確認したところ、いつの間にか閲覧は不能になっていた。

 ともあれ、これで私の一応の疑問は、解明されたことになる。

 ちょうど来月には祖父の一周忌を迎えることであるし、法要の直会なおらいの席で親戚の誰かからもう少し詳しい話を聞けるかもしれない。


 思えば祖父が亡くなったのは、彼の家に立派な門と生垣が設置された直後のことであった。

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ふがす郷土誌の謎 鹿園寺平太 @rokuonji

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