4 我江氏
結論から言えば、尼子再興軍の挙兵した1569年当時、有害城は無人城であり、そこへ尼子方の武将として入城したのは、
1561年に、出雲の鳶ヶ巣城ごと毛利方に寝返った、あの我江氏である。
では、なぜ毛利方に寝返ったはずの我江氏が、尼子再興軍に加わって有害城に入ったのだろうか。
そこには色々とややこしい事情があるので、順を追って説明して行こう。
***
我江氏というのは、元々は
その後、伊賀守の代になると、毛利氏の勢力が著しく伸長し、尼子氏の前途は暗澹たる状況に陥って行く。そこで伊賀守は、いち早く毛利方に投降した。1561年のことである。
ところで、我江氏は代々、加持祈祷や占術に通暁していたという。同家の祖は漢学者・文章博士として知られた
そうした事情もあってか、毛利方に降った伊賀守は
しかし、毛利氏との良好な関係は長くは続かなかった。
1565年、伊賀守の差配で、毛利方に投降した出雲の
元就の怒りは凄まじく、命の危険を感じた伊賀守は、不本意ながらも尼子氏の本拠地・月山富田城に逃げ込まざるを得なかった。
ところが何を間違ったのか、伊賀守は元就の暗殺を企てた英雄として、尼子内でも一目置かれることになった。当主・尼子義久も彼の意見を重用するようになり、1566年にはその進言にしたがい毛利への降伏を決断してしまった。結果的に尼子は滅びたが、義久は天寿を全うすることができたので結果オーライである。
ただ、伊賀守自身は、月山富田城の開城に伴い、二人の弟らとともに行方を眩ましてしまった。元就との対面を恐れてのことであったと推察される。
その後、1569年。●●村に隠遁していた我江一族は、
***
以上の経緯を私がどうやって知り得たか。それは
たまたま祖父の遺品を整理していた際に、我が家のルーツを調査してまとめた『我江家調査書』なる表題のついた書類が発見されたのだ。そこに、上の事実が記されていたのである。
つまり、我江伊賀守というのは、私のご先祖様だったのだ。
調べてみると、その調査書というのは、祖父の生前に彼の弟が持ち込んだものであることがわかった。祖父の弟は六十年も前に他家に婿入りした人物であるが、自分のルーツを探るために行政書士に依頼して色々と調べさせていたらしい。その成果を祖父にもおすそ分けしたということであろう。
但し、当該調査書にも、1570年の有害城落城については詳しく書かれてはいなかった。
1570年に毛利方に攻められて降伏したのち、伊賀守と弟の
つまり、1570年の落城に際しても、誰も討ち取られていないのである。
これは納得がいかないということで、私なりに我江一族についての資料を探してみたところ、そのものズバリ『
私と同じ我江家の子孫が、我江一族について研究した成果を、『我江一族の研究』と題してインターネット上に公開していたのである。
ところが、その内容を確認して、私は大いに混乱することとなった。
当該サイトの記述によれば、月山富田城の落城後、我江兄弟は●●には訪れておらず、それぞれ別々の土地で帰農して生涯を終えたというのだ。
しかも、我江伊賀守の弟は美濃守しかいないことになっていて、飛騨守の名前はどこにも書かれていないのである。
あまりの収まりの悪さに、私はまず調査書を作成したという行政書士に連絡を取ろうとしたのだが、なんと当該人物は大叔父の依頼からまもなく急死していた。
そこで私は、件の『我江一族の研究』の開設者である
『私は我江氏の末裔で、●●に縁の者です。当方の調べたところでは、1569年に伊賀守は●●の有害城に入城しているはずですが、太郎様のサイトにはかれらが●●を訪れたという記述がありません。現在、●●に相当数の我江姓の家があることからしても、それは不自然に思います。また、当方の調べでは伊賀守は三兄弟の長男であり、有害城の落城後に兄弟は散り散りになったと理解しております。これらの点について、太郎様のご見解をお聞かせください。』
失礼を承知で以上の文面を送りつけたところ、
『有害城の事を、どうやってお知られになられましたか?』
という短い返信がその日のうちに届いた。
それから、先方との間で何通かメールのやりとりを重ねた結果、おそるべき事実が判明したのである。
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