4 我江氏

 結論から言えば、尼子再興軍の挙兵した1569年当時、有害城は無人城であり、そこへ尼子方の武将として入城したのは、我江わがえ伊賀守いがのかみという武将であった。

 1561年に、出雲の鳶ヶ巣城ごと毛利方に寝返った、あの我江氏である。

 では、なぜ毛利方に寝返ったはずの我江氏が、尼子再興軍に加わって有害城に入ったのだろうか。

 そこには色々とややこしい事情があるので、順を追って説明して行こう。


   ***


 我江氏というのは、元々は邑智郡おおちぐん我江村の地頭の一族である。戦国時代には尼子氏に従い、1542年の大内おおうち・毛利連合軍との戦いなどに軍功があったらしい。我江氏が鳶ヶ巣城を任されたのもその頃である。

 その後、伊賀守の代になると、毛利氏の勢力が著しく伸長し、尼子氏の前途は暗澹たる状況に陥って行く。そこで伊賀守は、いち早く毛利方に投降した。1561年のことである。

 ところで、我江氏は代々、加持祈祷や占術に通暁していたという。同家の祖は漢学者・文章博士として知られた三善みよし清行きよゆきであることから、中国の古文書にも特別な知見を有していたとかなんとか説明はされていたのだが、そういうのは苦手なので割愛させてもらう。

 そうした事情もあってか、毛利方に降った伊賀守は毛利 元就もとなりの信任を得ることになり、時には御前に召されて意見を求められることもあったようである。

 しかし、毛利氏との良好な関係は長くは続かなかった。

 1565年、伊賀守の差配で、毛利方に投降した出雲の国人こくじん衆と元就が面会する場が設けられたところ、その中に元就暗殺を目論む賊が紛れ込んでいたことから、伊賀守の関与が疑われたのである。

 元就の怒りは凄まじく、命の危険を感じた伊賀守は、不本意ながらも尼子氏の本拠地・月山富田城に逃げ込まざるを得なかった。

 ところが何を間違ったのか、伊賀守は元就の暗殺を企てた英雄として、尼子内でも一目置かれることになった。当主・尼子義久も彼の意見を重用するようになり、1566年にはその進言にしたがい毛利への降伏を決断してしまった。結果的に尼子は滅びたが、義久は天寿を全うすることができたので結果オーライである。

 ただ、伊賀守自身は、月山富田城の開城に伴い、二人の弟らとともに行方を眩ましてしまった。元就との対面を恐れてのことであったと推察される。

 その後、1569年。●●村に隠遁していた我江一族は、尼子 勝久かつひさ山中やまなか幸盛ゆきもりら尼子再興軍の誘いに応じ、有害城に入城したのである。


   ***


 以上の経緯を私がどうやって知り得たか。それは奇縁きえんというほかない。

 たまたま祖父の遺品を整理していた際に、我が家のルーツを調査してまとめた『我江家調査書』なる表題のついた書類が発見されたのだ。そこに、上の事実が記されていたのである。

 つまり、我江伊賀守というのは、私のご先祖様だったのだ。

 調べてみると、その調査書というのは、祖父の生前に彼の弟が持ち込んだものであることがわかった。祖父の弟は六十年も前に他家に婿入りした人物であるが、自分のルーツを探るために行政書士に依頼して色々と調べさせていたらしい。その成果を祖父にもしたということであろう。

 但し、当該調査書にも、1570年の有害城落城については詳しく書かれてはいなかった。

 1570年に毛利方に攻められて降伏したのち、伊賀守と弟の美濃守みののかみが●●村を出てそれぞれ別々の場所で帰農したこと、かれらの末弟である飛騨守ひだのかみが●●に留まって帰農したことが記されているのみである。

 つまり、1570年の落城に際しても、誰も討ち取られていないのである。

 

 これは納得がいかないということで、私なりに我江一族についての資料を探してみたところ、そのものズバリ『山陰さんいん・我江一族』なる書物のあることが判明した。五十年前に自費出版されたという同書の捜索は難航を極めたが、最終的には意外なところでその内容に触れることができた。

 私と同じ我江家の子孫が、我江一族について研究した成果を、『我江一族の研究』と題してインターネット上に公開していたのである。

 ところが、その内容を確認して、私は大いに混乱することとなった。


 当該サイトの記述によれば、月山富田城の落城後、我江兄弟は●●には訪れておらず、それぞれ別々の土地で帰農して生涯を終えたというのだ。

 しかも、我江伊賀守の弟は美濃守しかいないことになっていて、飛騨守の名前はどこにも書かれていないのである。

 あまりの収まりの悪さに、私はまず調査書を作成したという行政書士に連絡を取ろうとしたのだが、なんと当該人物は大叔父の依頼からまもなく急死していた。

 そこで私は、件の『我江一族の研究』の開設者である我江 太郎たろう氏(仮名)にメールで連絡を試みたのだった。


『私は我江氏の末裔で、●●に縁の者です。当方の調べたところでは、1569年に伊賀守は●●の有害城に入城しているはずですが、太郎様のサイトにはかれらが●●を訪れたという記述がありません。現在、●●に相当数の我江姓の家があることからしても、それは不自然に思います。また、当方の調べでは伊賀守は三兄弟の長男であり、有害城の落城後に兄弟は散り散りになったと理解しております。これらの点について、太郎様のご見解をお聞かせください。』


 失礼を承知で以上の文面を送りつけたところ、


『有害城の事を、どうやってお知られになられましたか?』


 という短い返信がその日のうちに届いた。

 それから、先方との間で何通かメールのやりとりを重ねた結果、おそるべき事実が判明したのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る