第5話 今の話といつかの話

 結局はなにが残ったのだろう。

 この一か月の間に何が起きて、この手に何が残ったのか、その解説はやはりあいつにしてもらうことにした。


 あいつに解説してもらうのが、もっとも適切で分かりやすく自然だ。


「楽しかったね、実に愉快なお母様だ」

 退院祝いパーティーの片づけが一段落して、リビングの円卓につき俺と美瑠子は休んでいた。母さんは酔い潰れて寝てしまい、翠は騒ぎ疲れて寝てしまっている。


「息子は母親に似た女性を好むというが、君も例外ではないようだね。お母様は、翠ちゃんによく似ている。笑顔で周りを幸せにする力を持っている」

 俺は冷蔵庫から緑茶を出して、テーブルに置かれていた二つのコップに注いだ。


「ただ騒がしいだけだよ」

 俺はコップを一つ美瑠子に差し出して、残った一つに口を付けた。

「君が良い人間に育った理由が分かった。ぼくもこんな場所で生きてみたかったな」

 美瑠子はそう言うとお茶を飲んだ。


「ぼくの母はどうやらぼくに興味がないみたいなんだ。ま、ぼくが悪いんだがね」


 小さな音を立てながらコップをテーブルに置き、美瑠子は悲しげな顔を見せた。勿論、美瑠子に限って誰にでも分かってしまうようなあからさまな表情の変化ではなかった。


 極めて微妙で、極めて分かりにくい。でも俺は気づいた。だから聞いてやりたいと思った。


「物心ついた時から、ぼくが変だということをぼくは自覚していた。そしてそのことは隠すべきだと思った。両親に苦労をかけたくなかったんだな、多分だけど」


 美瑠子は俺に感情を知られたことを察したのか、すぐにいつもの表情に戻した。どこか冷たくて、どこか愛らしい顔に。


「けれど母は、ぼくが何かを隠していることに気づいていたんだ。母は強しってことかな。どんなに綺麗に隠しても母は分かっていた。だから、子供なのになぜ何かを隠すのか、完璧なまでに隠し通そうとするぼくを――不気味に思ったんだろうね」


 もしも娘が自分より頭が良かったら。その利口さが平凡を軽々と凌駕するものだったら……。少しだけ美瑠子の母親の気持ちが分かるだけに、下手な励ましは出来なかった。


「仮面をつけて過ごすぼくを母は不気味に思い、母から敬遠されるぼくを、父は見ようとしなかった」


 父という言葉に、俺は反応してしまった。無意識に瞼がぴくりと動いた。


「父はいわゆる仕事人間でね、そもそも家庭に興味がないのさ。でも弟は、弟だけがぼくの大切な家族なんだ」

 そこでようやく、美瑠子は嬉しそうな顔になった。家族という単語に相応しい顔になった。


「昔から、母には隠れて弟の服を貸してもらったりしていたんだ。奇妙なお願いをするぼくに弟は笑顔で服を貸してくれた。何も聞かずにね。それにどれだけ救われたことか」


 その時の美瑠子の顔を俺は一生忘れないだろう。決定的な瞬間を、美瑠子が自分の人生を幸せそうに語るその瞬間だけは覚えておくべきだ。


 また自殺を止めなくてはならなくなった時、これはいい材料になるのだから。


「じゃあ、お前はいつからそうなったんだ?」

 そんな曖昧な問いを、美瑠子はすぐに理解して答えてくれた。


「中学三年生の二月十四日だよ」

 日付まで正確に覚えている事実が、その日の重大さを示していた。


「その日、ぼくはとうとう耐えられなくなったんだ。女子用の制服を着ていることに。女子学生たちに疑われないよう、母に疑念を持たれないように、家でチョコレイトを作り学校に持って行っているということにね。ぼくはそこにいたのに、ぼくはどこにもいなかった」

 俺は思わず目を閉じた。どうしようもなく、悲しかったからだ。


 視界を遮断して、涙腺を閉じていなければ耐えられないと感じた。

 でも俺は、すぐに目を開けた。自分の愚かさに気づいたからだ。今見なくて、いつ見るというのだ。

 美瑠子苦しみを理解せず、どうやって美瑠子の自殺を止めようというのか。


「だから高校は、知り合いが誰もいかない場所を選んだ。そこでぼくはぼくになった」

 

 制服を脱ぎ、ジャージを着て、一人称を変えた。それが俺の知る美瑠子だった。


「でもやっぱり、気分は晴れなかったよ。君の言う通り簡単に変われたら、簡単に幸せになれたら――苦労はないよね」

 

 俺は考えていた。何を言えばいいのか、何を話せばいいのか、分からなくて悩んでいた。その答えを探していた。

 友達の為に完璧な答えを求めた。


 不備なく、完全で、誰もを遍く照らしてくれるような言葉を探していた。


 でも、そんなものはなかった。


 一か月もの間、俺はそれを思い知らされていたというのに、また求めた。そんな自分を心の中で卑下しながらも、俺は言った。

 自己否定に酔っている暇などなかった。目の前にいる友達に、手を差し延べたいと思ったとき、俺の手は既に差し出されていたから。


「だったらお前は、なおさら生きなきゃいけないじゃないか。やっと自分を見つけたんだろ?」

「けれど曖昧だ。性的倒錯かもしれない。あるいは統合失調症。自分が狂っていないとなぜ言える」


 人の心を方程式で表すことなどできない。自分の意志の理由を、完璧に説明することなんてできない。でも――俺は言った。


「言えるさ。お前が言えなくたって、俺が断言してやる」

 俺は出来るだけ強く言った。裏に確証がないから、自信がないから、そうするしかなかった。


「お前の頭は、人の幸せを願い人の心を深く理解できる頭だ。その頭脳で、お前はこれからたくさんの人を幸せにするだろう」

「自分は幸せになれないのに?」

 皮肉めいた笑みで、皮肉たっぷりの言葉を言った。


 それは自己犠牲を良しとする、童話や寓話の否定に聞こえた。俺は不意に「幸福な王子」を思い出した。自己犠牲の末、悲劇的な結末を迎える物語を思い出した。


「そうだよ。幸せにはなれなくても、誰かを幸せにしていけばいい。その誰かもまた、お前を幸せにしたいと願うだろうから」

 人はなんの見返りもなしに自己犠牲を払うことはできない。そんな完璧な善人は存在しない。


 人が人を救うのは、達成感のためだ。もしくは褒められたいからか、認められたいからか、対人関係を良好に保ちたいからか、そんなところだろう。


 翠だって、人を喜ばせるのが好きだからしているだけだ。その先にある幸福感の為に動いているだけに過ぎない。


 一見悲しい現実に見えるそれは、人の幸せは連鎖し、自分を幸せにすることに繋がるということの証明でもある。

 母さんが願った俺の幸せが、俺の生きる糧になり、俺が美瑠子の幸せを願うことに繋がったように、いつか本当に力を持った誰かが美瑠子を幸せにするだろう。


「君も願ってくれるのか?」

 不安気に、心配そうに美瑠子は聞いた。弱弱しい問いに、俺は即答した。


「当たり前だろ」

 答えると、美瑠子は微笑んだ。

「だったらぼくは、とっくの昔に――幸せになっていたんだね」


 そんな言葉が照れくさくて、俺は逃げるようにそっぽを向いた。


 昨日まで抱えていた不安は、嘘のように消える。

 そしてまた、新しい悪がひょっこりと顔を出す。

 幸福と不幸を行き来しながら、ふらふらと放浪するように確証のない人生を歩いていく。


 幸福と不幸の階調の中で、日々答えを見つけていく。


 生きるに足り、死ぬに足りない答えを当然のように導き出す。

 

 曖昧で不明瞭で有耶無耶で不完全、そんな答えで、今日を生きていく。

 いつの日か友達に語った人生論を証明するために、つまりは幸せになるために――生きていく。

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