第4話 問いと答え

 長い年月、そう表現するには短すぎるかもしれないが、物心ついた時からずっと心に秘めた思いを打ち明けるというのは、俺には勇気がいることだった。

 他人の心に触れることさえ怖気づいてしまう俺にとって、告白という行為はどうしようもなく耐えがたいものだった。


 だからこそ今まで、長い間秘めてきたのだから。誰にも見られないように奥底に、誰にも知られないように存在を薄くして、誰にも解けないように――隠してきた。

 けれどあの日、美瑠子は俺が隠したものを、俺でさえ忘れてしまっていた気持ちを、いとも簡単に解き明かした。


 数年かけて用意したトリックは、得意気な顔をしたジャージ姿の探偵にねじ伏せられてしまった。


 そして観念した犯人である俺は、少し前に父親と話した喫茶店で夜市翠を待っていた。


「取引しよう」

 シーソーの向かい側に座った美瑠子が、いつもの口調で言った。シーソーが揺れる度に髪とスカートを揺らしている。俺は揺れるスカートに心ときめかせながら話を聞いていた。


「おい、どこ見ている。普通に引くよ」

 俺はすぐに視線を上げて、美瑠子の顔を見た。


「翠ちゃんに告白するんだ」

 美瑠子はシーソーに持ち上げられて、俺を見下しながらそう告げた。俺は首を傾げて、なぜ告白せにゃならんのかと疑問に抱いた。


「疑問を感じた素振りを利用して覗くんじゃない」

 美瑠子は体重をかけてシーソーを下げ、貞操を守った。


「とにかく、君が告白して君が抱える恋愛模様に決着を着けたなら、ぼくは死ぬことを諦める」

 俺は美瑠子を見下ろして、綺麗な黒髪の旋毛を眺めていた。


「どうしてお前は、俺の恋愛模様を手助けしようとしているんだ?」

「色々と理由はあるけれどね、一番は多分君と翠ちゃんが好きだからだよ。それ以外の理由は付属品かな」

 俺は好意を言葉にされた照れくささをごまかしたくて、美瑠子を上へ押し上げた。


「君は、ぼくの馬鹿げた話を真面目に聞いてくれた。誰にも話したことがなかったのは、話しても真面目に取り合ってくれるとは思えなかった。君はぼくが生まれて初めて出会った、ぼくの考えを覆す人物だった」


 一体いつの話だろうと思ったが、俺はすぐに思い出した。決して忘れることが出来ない出会いを。


 シーソーでの会話を思い出しながら、俺はどんな言葉を話そうかを考えていた。

 しかし、考えたところで俺の頭では気の利いたセリフなど思いつくはずもなく、俺は思考を放棄した。結局、感情のままに話すかないのだろう。


 取り繕った言葉なんて、あいつの前では嘘くさく、きな臭い言葉にしかならないのだから。


「待った?」

 だから俺は、何も偽らず、何も繕わず、いつも通り現れた翠に対して、普段通り答えた。


「ちょっとな」

「ごめんごめん。財布の落とし物交番に届けてたんだ」

 翠は俺の向かい側に席に座り、ほっとした溜息をついた。


「話ってなに?」

「母さんが明日退院するから、退院祝いをしたいんだ」

「親孝行な息子だねえ」

「いや、本人から頼まれたんだ」


 俺は「祝え」と祝われる対象に言われたことに肩を落とした。

 そのあと、明日の予定を話し合い、翠が料理を作りに来ることになった。


「それでさ、なんで呼び出したの?」

 翠のそんな核心をついた質問に、俺はどう答えたものかと考えてしまった。考えるのはやめようと思ったのに、俺はまた考えてしまった。


「お前に言いたいことがあったんだ」

「なに?お説教?」


 翠は怪訝な顔を浮かべた。俺ははにかんで「違うよ」と言ってから、少しだけ深呼吸をした。


「俺はお前に感謝しているんだ」

 何を言おうかと迷った挙句、最初の言葉はそれだった。なんの変哲もない、なんの飾り気もない、今まで言わなかったことを言っただけだった。


「お前は今までずっとそばにいてくれた。俺に助けられたなんて言ってたが、そんなことはない。救われたのは、俺なんだ」


 ずっとそうだった。母の愛と、幼馴染の優しさで、俺は生きてこれた。

 そんな事実を、言葉にすると気恥ずかしくて、真実を見つめると情けなくなってしまうようなことを、俺は生まれて初めて口にした。


 それは母が俺にやってくれたことだった。


 飾り気なく、脚色もなく、純粋な意味を持つたった一言は、普通に生きているだけでは決して口になんてできないものだ。


 だからこそ俺は言った。だって、言いたいと思ってしまったから。


「だから俺はずっと言いたかったんだ。俺のそばにいてくれて、ありがとう」


 気が付くと喋り終えていた。そんな印象だった。必要を強いられたから、口が動いてくれた。意志の力さえ超えて、その言葉は現れた。


「嬉しいな。嬉しいよ。でもね、私は和くんが思っているような人間じゃないんだ。私は皆と同じ平凡で普通で、そして少し頭が悪い子なんだよ」


 翠は頭をぽりぽりと掻きながら、恥ずかしそうに言った。


「頭が悪いから、同じことを繰り返してきた。何度駄目だと思っても、何度も繰り返してきた。だって悔しいんだもの。だって放って置けないんだもの。皆良い子のふりして、簡単に諦める。物分かりが良いふりして物事を天秤にかける。私にはそんなの無理だった」


 子供の頃は我儘だった。

 いつの日か大人の顔色を窺うようになり、生き易い道を選ぶようになる。諦めて、天秤にかけて、どちらかを選びどちらかを選ばない。

 自分がそうだったから、よく分かる。翠の偉大さが。自分の小ささが。


 でも俺は、最近になってようやく、そんな自分を受け入れることが出来た。

 だって、自分の矮小さも度胸の無さも知っていたのに、俺は美瑠子を救いたいと思った。


 自分には無理だと知っていたのに、手を伸ばした。無理だと感じていたのに、俺は屋上で走り、手を掴んだ。


 結論は、結果は、答えは、俺の選択によって決まるんじゃないと知った。そんなものは、通り道みたいなものだ。もっと有意義で価値あるものが、この世界にはある。


 そんなことを、翠は生まれた時から知っていた。


 いや、本当は皆知っているんだ。でも、そんな生き方をしてしまえば言い訳が出来なくなるからできない。

 悔いのないように選んだ道で、悔いがあったら、どうしようもなく辛いということが分かっているからできないんだ。


 それを知っていながら、それでも自分を曲げずに答えを出す人間が目の前にいるから、俺は言った。


「お前はいつか世界を救うだろう。その時もまた、俺はお前の隣にいたい」

 そんな願望を口にしてみた。


 勿論、本当に世界が救えるとは思えない。そもそも世界を何から救うのかが謎なのだから。こんなものは子供の言葉遊びみたいなものだ。本当の意味は、それぐらい凄いことをするという比喩表現みたいなものだ。


「うん」

 翠はそんな返事をしてくれた。俺は嬉しくなって堪らず、笑みを零した。


 そのあとは、明日の話をして、下らない世間話で盛り上がった。数分後に翠は用があると言って喫茶店を出て行った。


 俺は本心を口にできたことに満足していた。


「いやいや、なにを満足しているんだよ」

 翠と入れ替わるように現れた美瑠子が、そんな苦言を呈した。


「あれが告白かい?そうだと思っているのなら、今度肩のレントゲンを撮るときに頭も一緒に撮ってもらうといい。きっと大きな腫瘍が写るだろうから」

 黒いパンツに大きなTシャツを着て、おまけにサングラスまでかけた美瑠子は、俺の前に座ると呆れた顔でメロンソーダを注文した。


「馬鹿野郎。そんな簡単に告白なんてできてたまるかよ。そんな簡単に変われたら苦労しねえよ」

 美瑠子は驚いた顔をしている。サングラスで顔は見えないが、大きく開かれた口から想像できた。


「あのね、それじゃあ取引の意味ないだろ?」

「そうだな、俺とあいつの恋愛模様は、お前さんの表現するところの単行本換算で三巻目から動いちゃいない。結末が出るのはまだ先になる」


 俺がそう言っただけで、美瑠子は次に何を言われるのか分かったのだろう。全てを見透かしたような目でにやりと笑った。


「だからもうちょっと付き合えよ。お前がいなきゃ、つまんねえよ」


 それが、俺の出した答えだった。

 美瑠子が提示した取引も、そのルールさえも無視して、一緒にいて欲しいと伝えること。そんなものが答えだった。


 なんとも曖昧で、不完全で、誰もが求めている完璧なものとはかけ離れている。

 

 幼馴染を嫌うのは好きの裏返しで、世界なんか救えるはずがないのにそう思いたくて、母のクッキーが旨いのは愛のおかげで、友達には生きていて欲しい。


 それが俺の出した答えだった。


 何一つ完璧なものなどなく、何一つ何かを解決はしてくれない。


 片思いは片思いのままで、世界を救うのはいつかの話で、俺の過去の問題はほったらかしで、友達はまた死を目指すかもしれない。


 それでいいと思った。また同じ問いを投げかけられたら、また同じように悩むから。


 何度でも――答えたいと思ったんだ。


 俺は美瑠子を見つめた。

 美瑠子は答えた。呆れたような笑みで。

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