第3話 翠最強説崩壊とぎっこんばったん

 骨折の経験はあったが、脱臼の経験はなかった。似ている点は痛みだけで、その治療法には驚かされた。

 医者が肩をはめるとき美瑠子が手を握ってくれていた。俺は子供かよと思ったが、正直心強かった。


 最後に肩と腕を固定するギプスのようなものをつけられ、脱臼してまもなくはまた脱臼しやすいので気を付けるようにと言われて帰ることを許された。

 料金の支払いの際、美瑠子が財布を素早く出して払ってしまった。俺は後で払うよと言ったが、頑として拒否されてしまった。


 病院から出た後、どこに行けばいいのか分からず、二人で町を彷徨った後広めの公園に寄った。隅に置かれたベンチに座り、これまた美瑠子が気をきかせて自動販売機で飲み物を買ってきてくれた。

 俺がペットボトルの蓋を、左手だけで開けようと四苦八苦していたら、美瑠子が開けてくれた。


 さっきから俺たちの間には妙な空気が流れていた。気を遣い合う、出会った当初のようなぎこちない間柄に戻ったようだった。


「さて、何が起きたんだろうな……」

 俺がぽつりと呟くと、美瑠子は缶コーヒーを一口飲んで説明を始めた。


「火事場のくそ力ってやつかな。ぼく自身経験がないから確かなことは言えないけれど、土壇場でとんでもない力を発揮するっていうのは聞いたことがあるよ」


 美瑠子の話によると、人間の筋肉は断裂を防ぐために常時リミッターがかけられた状態にあるらしい。本来は女性でも四十キログラムの物を片手で持ち上げられる力があるらしい。


「つまりあの時、俺は隠された力を発揮したってことか」

「その言い方は中二病的でどうかと思うがね」

 俺は美瑠子が買ってくれたコーラを飲んで、小さな溜息を吐いてから言った。


「お前の苦労はさ、俺なんかじゃ計りようがない。俺なんかがそのことに関して意見を言うのは、おこがましいと思っていたんだ。でも、俺はお前に生きていて欲しいから――言うよ」


 本当なら、こんな言い訳がましく見苦しい前置きなんて、したくなかった。やっぱり俺は臆病で肝っ玉が小さい男なんだろうな。


「お前は自分の運命を推理して、全部分かった気になっているのかもしれないが、それは間違いだ。だってお前は、普通の人間なんだからな。お前に未来を見据える力なんてないんだよ」


 かつて俺は、翠のことを物語に登場するようなヒロインだと思っていた。自分とは違うのだと思うことで、自分の情けなさに折り合いを付けようとしていた。

 でもそんなことはなく、あいつはただの女の子だった。ただ正直で真っすぐなだけだった。


 そして俺はこの前、美瑠子のことを解説者と評した。頭が良すぎる友達を、自分とは違うと思った。そんな間違いを俺は繰り返した。


 美瑠子は俺と同じように時に間違い、時に迷う――そんな普通の人間なんだ。


「お前の出した結論は、間違っていることだってあるんだよ」

 俺にとっては当たり前は、美瑠子の中ではぴんと来ないんだろう。失敗の経験がなさ過ぎて、その優秀さ故に、自分が間違うということを想定していないんだ。


「じゃあ、ぼくはどんな答えを出せば良かったんだい?曖昧な心に、矛盾する葛藤に、ぼくはどう答えれば良かったんだい?」


 俺は少し悩むと、すぐに出た結論を言った。それはかつて美瑠子が俺に教えてくれたものだった。美瑠子はそんなことは想定もしていなかっただろうけど、俺はそんなものをいつの間にか受け取っていたんだ。


「曖昧な答えには、完璧な答えなんて用意できないんだ。人は、矛盾する心に矛盾した答えを、繰り返し出していくしかない。何度も後悔して、何度も失敗して、それでも諦めず不完全な答えを出していくしかない――生きていく為に」


 そしてこの長ったらしい答えも、完全ではない。


 現実に打ちのめされ、自己に内包された苦悩によって死を選んだ相手に対しては、余りにも力不足で不完全な答えだった。


「そうまでして、なぜ生きる?そうまでして、なぜ答えを出す?」

 美瑠子はただそう聞くと、渇いた目で俺を見て、口元を不安そうに震わせていた。


「独りぼっちが寂しいからだよ」

 俺は不完全な答えを出した。でもその答えは、俺の中で確信を持てるものだった。

「一人が寂しいから、傷つくのが怖いのに人と触れ合う。人は死ぬことよりも、孤独の方が怖いんだ」


 俺は不意に母さんが倒れた時のことを思い出した。この世界にたった一人置き去りにされてしまったような感覚、それはとても耐えられるものではなかった。


「ここにいるのは、そんな答えしか出せない、ちっぽけな男だよ。そんな男はお前を失うことも怖くて恐ろしくて堪らないんだ。なのに俺は、ギリギリまで本心を話すことを躊躇した。やるべきだと分かっていたのに、実行には移せなかった」


 それもまた、矛盾する曖昧性の象徴だった。簡単に言ってしまえば、単なる天邪鬼で、ただの素直じゃない愚かさであることを俺は受け止めきれなかったんだ。


「そんな男を少しでも想ってくれるなら生きてくれ。死にたいなんて、悲しいこと言うな」

 結局は、それが全てだった。


 俺の想いは、その根源はそんなシンプルなものだった。

 俺は弾を全て打ち尽くしてしまった。これ以上言える言葉はなかった。俺程度の頭ではこれくらいしか思い浮かばなかった。


「じゃあ、ぼくが毎朝目覚める度に思い知ることに対しては、どんな答えを出せばいいんだい?ぼくは毎朝何を思って起きればいいんだろう」

 独り言のように呟いた、弱弱しい美瑠子の質問に対する答えは、案外すぐに出てきた。


「知るかよ」

「ちょ、急に冷たいな……。君はこの制服を着ている間は、ぼくに対して優しいのかと思っていたよ」

「人を女子高生の制服を見たら見境なく手を出す助平扱いするな!」

「男なんてそんなもんだろう?」

「確かに!」

「認めるんだな……」

 若干引かれてしまった。ただまあ、美瑠子の制服姿はよく似合っていたのは事実だった。


「お前の朝には、お前しか解答を出せないんだよ。お前が朝目覚めるときは、お前が折り合いをつけるしかないんだ」


 そしてそれもまた、不完全な答えだ。どれだけ頭が良かろうと、この世に完璧で完全で不変な答えに辿り着くことなんてあり得ないのだから。


 アインシュタインの相対性理論がどれだけ完璧でも、その考えを否定することはできない。どれだけ頭の良い奴が、俺の考えを否定したって、俺はそう思うだろう。


 なぜだか分からないけれど、そう確信しているんだ。


「でも俺は、お前がどんな解答を出したって、それがどんなに荒唐無稽ではたから見たら間違っているとしか思えないようなことでも、全力で肯定してやるさ」

 それもまた、確証もないのに確信していることだった。


「お前がタイに行って整形するって言ったとしても、俺は嬉々として資金集めをしてやるよ」

「その予定は、今のところないよ」

 美瑠子はいつも通り、俺に対して呆れながら微笑んだ。だが、その笑みはいつもと違って枯れているように見えた。


「とにかく、今は俺の為に生きてくれ。この右肩が治るまで俺の手助けをしてくれ」


 俺は懇願した。心の底から、生きていて欲しいと思ったから。

 どんな馬鹿みたいな理由でも、美瑠子に示さなければと焦っていた。


「怪我が治ったら、ぼくは死んでもいいのかい?」

 美瑠子は天を仰ぎながら、機械みたいに単調なリズムで言った。


「そのあとは、俺と文化祭を楽しむために生きてくれ。そのあとは、そうだな……俺と修学旅行に行くために生きてくれ。そのあとは、俺と一緒に卒業するために。そのあとは、一緒の大学には行けないだろうけどたまに会って、雑談してどうしようもなく下らない話をして俺を助けるために、ずっとずっと、俺の友達でいて欲しいから――生きてくれ」


 俺の声は震えていた。多分、自信がなかったんだ。こんな言葉で、美瑠子が死ぬのをやめてくれるとは思えなかった。


 あの時と同じだ。大切な人が死ぬかもしれない。ただそれだけで、俺はどうしようもなく悲しくなって、呼吸することも忘れるくらい絶望してしまう。



「どうして君が泣くんだよ」



 言われて初めて、俺は自分が泣いていることに気づいた。一切の引っかかりなく、緩やかに流れた涙に、俺は気づけなかった。


「ぼくの価値が、その涙に値するなんてとても思えない」

 美瑠子は冷静にそんな評価をした。


「こんなもんに、お前と同じかそれ以上の価値なんてあるわけないだろ」


 二人の意見は、変なところで合致した。卑屈な面での合致は、なんだか妙で可笑しかった。


「お前はさ、生きなくちゃいけないんだ。どれだけの頭脳で死を正当化したって、生きていて欲しいと願う者がいる限り、お前は最後まで足掻かなくちゃいけない」


 俺が示したこの答えもまた、不完全で曖昧だ。だから、これを受け入れるかは美瑠子次第だった。


「俺はお前の友達でいたい。爺さんになって死ぬまでずっと」


 だから俺に出来るのは信じることだった。俺はただひたすらに信じた。友達を真っすぐ見つめて――信じた。

 

 どれほどの時間が流れただろうか。風が過ぎる音と、ブランコが揺れて鳴る不快な金属音だけが聞こえていた。

 目を閉じると、美瑠子の呼吸音さえ聞こえてしまいそうな静寂の中、美瑠子は口を開いた。


「ぎっこんばったんにでも乗ろうか」

「は?」

「シーソーの和名だよ」

 得意気な顔でそう言うと、美瑠子はゆっくりと立ち上がった。スカートをぱんぱんと払い、スカートの布をひらひらと揺らして歩いていく。


「なんでそんなことしなきゃならんのだ」

 俺は呆れてそんな、溜息混じりにそう言った。


「でもほら、シーソーって上下に揺れるだろ?」

「だからなんだよ。俺脱臼したんだぜ?」

 俺が否定的にそう言うと、美瑠子はスカートの両端を両手で掴みながら言った。


「スカートの中見えちゃうかもしれないんだよ」

 

「よし乗ろう」

 俺は驚くべき速度で立ち上がった。


 制服を着た美瑠子は、翠よりもやばいかもしれない。この時こそ、翠最強説が崩れた瞬間だった。




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