第2話 シリアスとコメディ
俺は縁の上に胸を置き、屋上に寝そべりながら、右手を屋上の外側に出していた。その右手には美瑠子の左手が握られていた。
どうして間に合ったんだろう?屋上に出た時、既に美瑠子は飛び降りていた。美瑠子の体は落下を開始していた。なのに間に合った。手を握り、落下を止められた。
そして、そんな実感を得た後、自分が息切れを起こしていることに気づいた。女子一人を持ち続ける体力は残っていなかった。
手と額に汗が滲んだ。
「おい、なにやってんだよ。早く上がってこい」
重さで引っ張られ、縁に押された肋骨がみしみしと音を立て始めた。
「いいんだよ。もう」
美瑠子は俺の顔を見ようともしない。この不安定な状況で、落ち着いた声を保っていた。こんなことはどうでもいいと言わんばかりだ。
「いいわけ……ないだろうが……」
美瑠子の頭頂部を見つめながら、俺は必死に訴えていた。
「君は全て分かって言っているのか?自殺の動機を、ぼくの秘密を……」
「ああ、知っている」
俺は即答した。美瑠子はそこでようやく、顔を上げた。驚いた顔をして、俺を見つめている。
「知っていたさ。分かるに決まってんだろ――友達なんだから」
本当は、もしかしたらという程度のものだった。確信なんてなかった。でも、感じてはいた。
理屈ではなく、多分本能的な違和感で、俺は察していた。美瑠子が普通とは違うことぐらい、俺は気づけていたんだ。
だからこそ、美瑠子の自殺宣言を俺は疑わなかった。
その小さな体躯に秘められた苦悩を感じていたからこそ、俺は助けると宣言したのだ。
そして、俺は今後悔している。美瑠子の苦しみを知っていながら、今日まで何もしてこなかった。
もっと言えばよかった。死ぬなって叫べばよかった。死んで欲しくなかったのに、どうしてそのことを伝えられなかったんだ……。
どうして俺は、友達の為に、なにもしなかったんだ……。
多分、怖かったんだ。
人の隠している、隠したがっている部分に触れてしまうことが怖かったんだ。
俺はただの臆病者で、本気で人の為に動くことが出来ない。
「だったらぼくを、ぼくの手を離してくれよ。分かっているならなおさら、君はその手を離すべきだ」
美瑠子はすぐに俺が自分の秘密を知っていた現実を受け止め、いつも通り冷静に対応した。
「嫌だ」
それでも俺は、否定した。
否定する恐怖は全て無視した。そんなことはどうでもよかった。
「君は僕の動機を分かっていると言ったが、多分君には理解できないよ。ぼくの心は毎日曖昧なんだ。曖昧で、黒でもなければ白でもない――グラデーションなんだよ」
美瑠子はそう言うと、右手を自分の胸に当て、心音を聞くかのように目を閉じると――言った。
「朝目が覚めると、自分が何者なのか分からなくなるんだ。自分がどこにいるのか、確信が持てない。不安定な場所にようやく立っている感覚だ。もうたくさんなんだよ」
右手で自分の胸倉を握りしめ、吐き捨てるように美瑠子は言った。
「自分の異常性に、ぼくはうんざりしているんだ」
自己を嘲笑うように言うと、美瑠子は再び俺を見つめた。そして、懇願するような目をして言った。
「そうかよ。よっぽど自分を特別視してるんだな。でもな、お前は普通の奴だよ」
俺は最後の力を振り絞った。もう既に体力は限界に近い。あと少しで、俺はこの手を離してしまうだろう。
だからそれまでに、美瑠子に自ら這い上がって貰わないと助けられない。だから俺は、この言葉に全てをかけた。
「普通で、一般で、押し並べて平凡だよ。一人でいると寂しくて、頑張るのは面倒くさくて、だから一際強い意志を持っている奴が苦手な――普通の奴だよ」
美瑠子は虚ろ気な目で、顔をくしゃくしゃにしていた。
「でも、ぼくはもう駄目なんだ。もう、どうにもならない。現に、君の幼馴染をもってしても、ぼくは救われない」
その時俺の頭に浮かんだのは、あいつの顔だった。
憎たらしくて、みったくなくて、意地らしくて――愛らしい。あいつの顔だった。
「お前はどうやら頭が悪いらしいな。見損なったぜ。あいつはそんなに甘くない」
俺の目には、あいつに救われる美瑠子の姿がはっきりと浮かんだ。俺はその空想に確信を持てた。
だってもう、そこにいたから。俺の視線の先、丁度真下の地面に――翠が立っていた。
「きゃああ、大変だよおお」
屋上からぶら下がっている美瑠子を見つけ、翠は素っ頓狂な叫び声を上げた。そう、今大変なんだよ。
「美瑠子ちゃんパンツ見えちゃってるよおお!」
「そこじゃねえだろ!」
俺は怒りの叫び声を上げると、美瑠子ごと右手を振り上げた。美瑠子は宙を舞って、屋上の地面に叩きつけられた。
「え?」
「え?」
俺も美瑠子も、間抜けな声を上げた。シリアスな場面から一転して珍妙な空気が流れていることに驚いているのだ。
二人とも目を点にして見つめ合い、何が起こったのかを整理しようと試みていた。
「右肩が痛いのですが……」
ほどなくして俺は自分の肩に違和感を覚えた。なぜか滅茶苦茶痛かった。
「だ、脱臼していますね」
少し触診すると、美瑠子が答えた。
「と、とりあえず病院行きますか……?」
なぜか二人とも敬語で話してしまうくらい、この状況に混乱していた。
なんだかよく分からないまま、俺と美瑠子はタクシーを呼んで病院に向かった。
車内でも、また病院でも、俺たちの頭は整理がつかなかった。終始クエスチョンマークが頭の上を回っているようだった。
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