どうでもいい話

 錆びた音。それは、今し方沈んでいったばかりの夕陽とは正反対の不快な音で、使い古した机の引き出しや回らなくなったオルゴールを無理に動かした時に鳴るような音だ。けれども、この錆びついた螺旋階段が踏み鳴らされる音は僕にとって、濁ってはいてもどこか心地の良いものだった。

「やあ、早かったね」

 階段をゆるりと下りてきた僕は、いつも通り四段目に座っていたフミに言って、その一段上に腰掛ける。

「こんばんは。また上に行っていたの?」

「うん、陽が沈むところを見ていたんだ。たまにはフミも見に来ればいいのに。たぶん、フミが思っているよりもずっと見晴らしがよくて景色もいいんだ、ここの屋上」

「私が高いとこダメなの知ってるでしょ」

「上ばかり見ていればいいんじゃないかな。屋上に出ててしまえば柵に近づかないと、あまり下は見えないよ」

「そしたら階段が登れません。こういうのは理屈じゃないの。それに私、ほらスカートだから」

 フミは黒のスカートを左手の指先でつまみあげてごまかすように微笑んだ。

「また今度にしておこうか。いつか登りたくなるかもしれないし」

 僕が先を歩けば済む話のように思えたが、万が一に誰かがここを訪れる場合があるので折れてあげることにした。建物の内側から行けないこともないのだけれど。

「アキ、そんなことより今日はどうだった? 私は今日も変わらず退屈だったよ。くだらない話でいいからさぁ、なんかない?」

「ある、といえばあるかな」

「なんでも大丈夫だから、お願い。私は今日もパス」

「そうだなぁ。仕方がないから運命の話でもしてみようか」

「え? 運命って、あれだよね。どうしようもなく避けられないやつ」

「そう、その運命。世界は自分の意志次第で変えてしまえる、なんて言ったけれど、そういったものさえも軽く凌駕してしまうような。必然、と言い換えてもいいかもしれないね」

「すっごく難しい話になりそう」

「僕だって全く検討がつかないよ。だいたい答えがあるとも思えないし。だから、遊びみたいな感覚でいいんだ。間違ってもいいさ。その時はそうなる運命だったってことにしてしまおう。運命なんてユーモアのある誰かが考えた言い訳かもしれないよ?」

「運命ってそんな風に雑に扱うものではないと思うんだけど」

「眉間に皺を寄せて、ひたすら考えたって良い答えが出るとは思えないね。退屈ではなくなっても苦痛になってしまいそうだ。だから、運命なんてものは案外リラックスして語られるべきなんだよ」

「とは言ってもね、話題が話題だからお固くなってしまうでしょ」

「その時はその時さ。それじゃあ、退屈しのぎの運命の話をしようか」

 そうして、僕とフミは運命にささやかな抵抗をすることにした。


「まずは、どうすればいい?」

「そもそも運命というものがあるかどうかを決めないとだね」

「ある。とは思うけれど、全てが決まっているんじゃなくって、部分的な運命があるんだと思ってる」

「なるほど。運命になり得るものと、そうでないものがあるってわけだね」

「そう、だと思う。たとえばさ、アキが人生を最初からやり直せるとします。記憶は持っていけないよ。そして、全く同じ軌跡を辿ってしまった場合――何もかも同じ経験をして今この地点に辿り着いて私と話をしている場合、人生は運命でしかないということ、予め決まっていたってことになる。でもさ、そんなことって有り得ないと思わない?」

「すべての事象が運命として作用していたら、人生は一つのレールしか敷かれていないということか。仮に僕が何度も人生やり直していたとしても気がつけないというのはなかなか不思議な感覚だなぁ。それが、有り得ないってのは、どういった理由で?」

「だって、本当に些細なことってあるじゃんか。なんでもいいんだけど……そうだね、アキの家はビンボーだから、自室に備蓄が全然なくってコンビニに買い物に行くことになったとしましょう」

「ひどい言われようだ。まぁ、あながち間違ってないし、人生において誰しも一度は起こり得るシチュエーションだね。続けて」

「お店の中に入って、アキは何を買う? 同時に何を見て、何を聞くかな? 陳列されている商品を差し置いて、雑誌の表紙を飾るアイドルに目がいくかもしれない。店員の容姿や仕事ぶり、もらったお釣りの硬貨の年号、レシートに印刷された文字、膨大な情報を見ながら、頭の隅では店内の蛍光灯が明るいとか、エアコンが効きすぎているとかを感じているのかもしれない。音だってそう。すれ違う学生のイヤホンからかすかに漏れるバンドの演奏だったり、踵の高い靴が反響する甲高い音、恋人たちの甘い会話でもおじさんのやけに病的な咳でも、聞こえるものは否応なしに入ってきてしまうよね?」

「当然だね、目と耳を塞いで一人で買い物をするのは僕にはちょっと困難だ。あと、口も使えないと困るな、お礼を言わなくちゃだから」

「そんな風に無意識に処理している情報が多すぎると思うの。なんならコンビニを出た後でもいいよ。外で何人とすれ違ったか、車が何台通り過ぎたか。家までの帰り道、何歩かけて戻ってきたか。エレベーターをどれだけ待ち、鍵はどちらの手で開けたか。全部が決まっているとは、私はどうしても考えられないんだ」

 フミはまくし立てるように言って「私がなんとなく思いついて挙げただけの例だってそう。運命によって決められたことだとは思えない」と、最後に付け加えた。

 僕は言われたことを頭の中で想像してみて、途中で挫折した。あまりにも情報が多すぎて頭がパンクしそうになったからだ。

「たしかに、不確定な要素が多すぎるなぁ。人生は小さなことの積み重ね、なんていうけれど、そのままの意味で、想像しているよりも、もっともっと小さなものが寄り集まることでミクロの世界から成り立っているんだろうね」

「だから、決まってないよ。どこかでなにかがずれたっておかしくない」

 何か変えたいことがあるのだろう。フミの声には希望めいたものが感じられた。言うなればパラレルワールドの存在を願っているのかもしれない。現状に納得していないのは、僕にとって少し悲しいことだ。

「でもね、僕はむしろ有り得るとしか思えないんだよ。だって全く同一の環境で始まるわけでしょ? ただ同じ時間が繰り返されるだけであれば、それこそ運命的に、ただ録画されたようにストーリーが流れるだけじゃない?」

 フミは納得がいかない様子で、三段目に投げ出していた足を持ち上げ膝を抱え込み「じゃあさ」と、話の方向を変える。

「アキにも今まで悩んで決断してきたことってあるでしょ? 進学する高校や大学だったり、就職先を決めることとか。他にもいろいろさ。こういう大きな選択は変わりにくいと思わない?」

「そうだね。大きな選択ほど、しっかり決めてあるだろうからね」

 フミもきっと大きな決断をして、僕も決断をしてここにいる。それはどうしようもなく運命的なようにも思えるのだけれど。

「そうではなくて、最近食べすぎだから、もうご飯のおかわりはやめておこうとか、良いことがあったから、今日はちょっと遠回りして帰ろうとか、気分や機嫌からやってくるような小さな選択があるよね? その一つが変わってしまったとしても、大きな選択までは変わらないと思うの。そういう変わらないものを運命って呼ぶんじゃない?」

「そこは、難しいところだね。小さな選択がどう作用してくるのか、変わってみないとわからないからね。長期的な目で見たら大きな変化になっているかもしれないし、自分はたいして変わらなかったとしても、外側が変化してまわりまわって、自分にとんでもない影響を与えるかもしれない」

「言われてみればそうだね。ずれが生じたことによって得られた結果しか認識することができないから、話がややこしくなってるのかな?」

 ああじゃない、それも違う、こうでもない、と意見を出し合いながら、この建物も廃墟になる運命だったのか、なんて考えていたら僕は一つの考えに思い至った。


「やっぱりフミの前提が間違っているんだと思うよ」

「どういうこと?」

「やり直したところで決定した過去が繰り返されるのさ。何も変わらない。その前提だとすべてが運命になってしまうんだ」

「だったら、これから先のことについて考えればいいわけ?」

「そうだね。運命はきっと結果論なんだよ。だから、終わってしまったことは一度置いておくことにしよう」

「じゃあ、次はどう考えればいいかな?」

「明日以降、僕らがどんな話をするか考えてみようか」

「それって、アキのさじ加減でしょ。そんなので運命って言うのはずるい」

「次の話の結論にする? これならフミの考え方によってもだいぶ変わってくるから」

「悪くないね。できれば、今度は簡単なやつにして欲しいな。さてさて、どうなるかは分からないよ」

 青色のスニーカーを履いたフミは嬉しそうで、足をぱたぱたと動かした。錆びついた螺旋階段が何度か音を鳴らす。どうやら退屈は免れているようだった。

「次はどんな話をして、何を考えて、どういった結論に至るのか、僕たちには決して分からない。よって、現時点で運命を感じることはできない」

「実は運命なんてないのかもしれないね」

「でも、一つ考えがある。ちょっと遠回りだけれど、聞いてくれるかい? こうやって考えていくと筋が通る気がするんだ」

「大丈夫。まだ、もう少し夜は続くよ」

 僕はフミが指さした空を見つめて、いつの間にか暗くなったな、とぼんやり思った。

「では、フミに質問です。人の行動の全ては環境が支配していると思わない?」

「そりゃあ、環境のせいもあると思うけど、やっぱり性格とかも関係あるんじゃないの? 環境から受けとる何かは人によってそれぞれ違うと思うよ」

「そう、性格によって違うんだ。けれど、その性格だって環境によって形成されたものだよね。育ってきた環境によって性格は変わってくる。もっと言えば、生まれもった配列は、両親の環境に影響を受けて……といった具合に、遡ること遠い昔の環境から形成されたものが個人の性格になる。さっきのミクロの世界みたいなイメージかな。つまり、環境によって全ての行動が決定づけられていると考えられる」

 首をかしげたフミはそのまましばらく止まり、ややあってから元に戻してうなずいた。

「なんだか、今日も言い負かされた気がする」

「まだ終わってないよ。もう一つ、重要になってくるのが偶然なんだ」

「アキの話だと、全ては運命なんだから、偶然なんてないじゃない」

「運命と、決まるのは過去になってからって言ったでしょ。これから起こることに偶然も含まれているんだ。偶然がなければ世界は成り立たない」

「偶然かぁ、ちょっと曖昧で考えにくいや」

 フミの言葉で、僕はポケットから金色のコインを取り出し、説明することにした。見た目よりずっと軽く。表にAと書かれただけの歪なコインだ。

「たとえば、フミの目の前にAとBの二つ選択肢があったとしようか。両方は選べない。そして、フミは性格上どちらも選ぶことはできない。この選択肢を決めるために僕がコイントスを提案した。僕の力加減と、物理法則にまかせるわけだ」

「どちらが選ばれるかは私の性格とは無関係で分からないってこと?」

「そう、もっと公正にしよう。AとBの選択肢を紙に書いて裏返す。そして、僕が混ぜた後でフミも混ぜる。表が出たら左側の紙を、裏が出たら右側を選択する。もうどちらにも選ばれるものが分からない。これは、紛れもなく偶然に起こることだよね? こういった無作為な選択に伴う結果が無数にあるわけなんだ」

「全然、場が整わないんだけど」

 一段下からこちらを見上げたフミは、むすっとした顔でさらなる説明を求めた。

「そうだなぁ、無限に広がる宇宙があって、そこに地球が浮かんでいる様子を想像してみて。その地球は三次元軸に従って、あらゆる方向に、ランダムに大なり小なりの振動を繰り返している。これが偶然だと思う。偶然によって何かが変わる可能性がある、ということかな」

 頭の中で想像しているらしいフミは目を閉じてから、左手で鉤爪みたいなポーズをとり、それを縦横無尽に動かしていた。

「時間が経てば、地球の中心が振動していた軸のどこかに移動する。そして、またランダムな振動を繰り返す。始まったところから、現在の地点まで地球の中心が辿った軌跡が、運命なんじゃないかな」

「アキ、残念だけど派手に動かしすぎたせいで、辿ることができませんでした」

「だろうね。とにかくそこで出来上がった一つのルートが運命だと思うんだ」

「質問があります」と、フミは言って僕の返事も待たずに発言した。

「人生をやり直した時、世界が変わらないのは未来が決定していたからってこと?」

「一応、そういう考え方。もし変わってしまったとしても、変化に気がつくことができないのだから、結局それを運命として受け入れるしかないんだけれどね」

「運命になり得るものは変えられるけど、決定したことはすべて受け入れなければならない。なんだか悲しい結末だね」

 悲しいのだろうか。変えられるものがあるのであれば、まだ救いがあるはずだ。過去の見方さえも変えてしまえばいいのだから。

「結局、僕たちは偶然にもこの話をして、それが皮肉にも運命だったわけだ。退屈しのぎになったかな?」

「ややこしいね。もちろん話をして、考えることはとても楽しいよ。アキのほうこそどう思ってるの?」

「こうしてフミと話せるようになってよかった、と思っているよ」

 僕は何も迷うことなく言った。欠かさずここに来ているのだから、そろそろ信じてほしいものだ。

「ねぇ、アキ。その言葉は私によって引き出されたのかな」

「どうだろうね。フミに出会う前の僕がとどう答えるかは僕にも分からない。どっちだとしても、なんてことはないのだけれどね」

「だけど、運命だ。って簡単に済まされないこともあるよ」

「そんなものないって、過去は変えられないのだから。言ったでしょ、言い訳なんだよ。全部運命のせいにしてしまえばいい」

「でも、あのときはごめん」

「もういいって、仕方のないことだったんだ」

「ほら、そろそろ戻らなくちゃ 」

「そうだね。それじゃあ、続きはまた次の朝に」

 言って立ち上がったフミに、ちょうど風が吹きつけて、黒髪が揺れたのは偶然だろうか、それとも、運命だろうか。そんなことはどうだっていいのだ。

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錆びついた螺旋階段 奥宮 秋彦 @testest

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