第18話 『俺』と『僕』
クランの入院している病院。
その病室の扉が、こんこんとノックされた。
「はい。どうぞ」
背を起こしたベッドによりかかり、本を読んでいたクランが答える。
引き戸の扉が開き、現れたのは明乃だった。
「ごきげんよう。クランさん。ご気分はいかがかしら?」
「うん。もうなんともないよ。明乃ちゃんこそ、毎日ありがとう。でも、明日からは学校だよね……?」
連休の間、明乃はこっちでホテルに宿泊しながら、クランの病院へ通っていた。
クランは「そんなの明乃ちゃんに悪いから」と断ったのだけど、そこは明乃。
一度言い出したら、てこでも動かず押し切ってしまったのだった。
「え、えぇ……。それで、クランさん。実はあなたに少し、話しておかなくてはいけないことがありますの……」
そんな彼女が、歯切れ悪く言うからには……それは、相当のこと。
そして、再びのノック。
「は、はい……? どうぞ」
戸惑いながらクランが答えると。
病室に入ってきたのは、銀髪の晃だった。
「……やぁ、久しぶり。クランさん」
「あ、晃さん! あの、そんな、どうして……? いえあの、とっても嬉しいんですけど、その……」
突然のことに、しどろもどろになるクラン。
そこでようやく、病院の寝巻きでいる自分に気づいたのか、ばっと布団を掴んで隠すように胸元までかぶせた。
そんなクランから視線をはずしながら、明乃はどこか申し訳なさそうにつぶやく。
「話があるのは、あたくしじゃありませんの。晃さま、なんですのよ……」
晃はその言葉に、すっ、と一歩だけ踏み出した。
「実は……俺、学校をやめることにしたんです。本当に突然のことなんだけど、どうしてもクランさんには直接伝えたくて」
「う、うそ……!」
クランは口元を両手でおおい、そのまま言葉を失った。
驚きに大きく見開かれた目から、涙が一筋流れて。
「そんな……すごく、すごく悲しいです。でも……」
クランはそこで言葉を区切ると、なにかを考えるように顔を伏せた。
なにかを決意するように、ちいさく「はぁ」と息を吐き、ゆっくりと顔を上げると。
涙を流したまま、ほほえんだ。
「……晃さんは最後に、わたしに会いに来てくれました。それは……すごく嬉しいです」
その言葉に、晃の心はちくりと痛み、そして、温かなものであふれた。
こんな嘘で塗り固めた完璧な自分にも、クランは好意を寄せてくれた。
とてもまっすぐな気持ちで。
それは嬉しくて、同時に申し訳なかった。
彼女を騙し続けた自分が、せめて最後にしてあげられることは――。
「クランさん。俺はあなたのこと、絶対に忘れません」
そして晃は下唇をぎゅっとかむと、その言葉を口にした。
「でも……クランさんは俺のこと、忘れてください」
それは、晃の決意にして宣言。
もう二度と、クランの前には現れないという。
クランもその言葉の意味を理解したのか、はっとした表情を見せた。
そして。
「……はい。晃さんも、お元気で」
クランは、健気にも笑ってみせた。
つらくて、つらくて、本当は泣きたいだろうに。
泣いて、わめいて、そんなの嫌だと言ってもいいのに。
これ以上は、なにを言っても言わなくても、彼女を悲しませるだけ。
そう思った晃は、すべてを振り切るように背を向けた。
扉を開いた瞬間、かすかに聞こえたすすり泣きの声も、扉を閉めると聞こえなくなった。
「……終わったのね」
廊下で腕組みをしながら待っていた冬華が、晃に声をかけた。
「ああ……。悪いな。バグの検証でもないのに、デバッグメニューを使って」
「別に。構わないわよ。あんた自身のために使ったわけじゃないもの。クランのため……なんでしょ?」
晃はなにも答えなかった。
そうだとも言えるし、そうじゃないとも言える。
たしかに、クランに今までのことを償うために誠意を見せたかったけれど、それはけじめをつけてすっきりしたかったから。
自分のためにしたことが、たまたま他人のためになっただけのこと。
冷たいようだけど、それが事実。
晃はクランのことを好きだったけれど、それは恋愛感情じゃない。
自分のすべてを捧げて、彼女を救いたいとまでは思えないのだから。
そんなことを思えるとしたら、むしろ……。
すると、冬華が晃を見上げて口を開いた。
「……だけど、これからは約束してもらわないとね」
「や、約束? いったいなんの……?」
「きまってるじゃない。デバッグメニューよ。わたしかマーシャ、どちらかの許可がない限り使わないって、約束してもらわないと。そもそもデバッグメニューってのは、そういうものだし。あんたが勝手に使って悪用しないように、しっかり見張っておかないとね」
冬華が意地悪そうに笑うと、マーシャが姿を現した。
「それならば、細かい要綱は我に任せてもらおう。こういうことは、我の本職だ」
その言葉で、晃はとんでもないことを思い出す。
「ちょ、ちょっと待て! マーシャってモーゼなんだろ? それって、つまり……」
神から授けられたという十の戒律。モーゼの十戒。
海を割った奇跡と並んで伝えられている、モーゼの代名詞だ。
マーシャはからかうようにすこしだけ笑うと、「さて、どんな戒律を作ってやろうか」と言い残して、消えた。
「お、おいおい。本当かよ……」
晃は心中穏やかではなかった。
まさか法治国家である現代日本で、モーゼの十戒によって縛られることになるとは、夢にも思っていなかったのだから。
追い討ちをかけるように、冬華が宣告する。
「観念しなさい。あんたには、バグの力を悪用したっていう前科があるんだからね」
口調こそ厳しかったけれど、冬華はにやにやと笑っていた。
遊ばれている。
そうわかっても、たしかにこれは自業自得。反論なんかできるはずない。
「……なんか、大変なことになったなぁ」
晃はただ、そうつぶやくしかできなかった。
そして。
連休が終わり、学校が始まった――。
※
先生が教室の黒板に、晃の名前を書いた。
(わかっていた。この反応は、わかっていたよ……)
それだけで、教室は大きなどよめきに包まれる。
先生は「はいはい。静かに」と言って、ぱんぱんと手を叩きチョークの粉をはらった。
「と、いうわけで、転入生を紹介するぞ。えー、この学園には同姓同名の生徒がいたが、彼とはまったく関係ないんだからな。変に比べたりしちゃダメだぞ」
そう。
完璧な『俺』としての神尾晃は、ここを去った。
そして、ありのままの姿で――『僕』として、晃は戻ってきた。
神尾晃という名前が特別な名前を持つこの学園に、『僕』として戻ればどうなるか。
それくらいのこと、嫌というほどわかっていた。
「生意気よ……! ちんちくりんのくせして、晃さまと同じ名前なんて」
「お願い晃さま。また戻ってきて!」
「そうよニセモノ! 帰れ帰れー!」
「……でも、これはこれで可愛くて、わたしちょっと好きかも」
先生が言ったそばからブーイングの嵐だったけれど、無理もないと晃は思う。
それほどまでに、完璧な『俺』は絶対的な存在だったのがから。
(でも、これが本当の僕なんだ……!)
入学式のときは、歓声の中だった。
今は、非難の声の中。
それでも晃は、堂々と、胸を張って自分の席まで歩いた。
「……ふぅん。ま、しかたないわね」
昼休みになって。
工事も終わった、いつもの静かな裏庭で、晃は冬華に朝のことを話した。
帰ってきたのは、そんなそっけない答えだった。
晃は苦笑する。
「あ……やっぱり? 僕もそう思ってた」
「まったくよ。しかたない、以外に言葉なんてないわ。みんなをだまして、あれだけ女の子にきゃーきゃー言われてたんだから。ちょっとくらいの罵声は我慢してよね」
「うん……。それに、授業も大変だよ。丸一ヶ月さぼってたのと変わらないからね……」
「まぁ、がんばりなさい。わたしでよけりゃ、その……勉強教えてあげるから」
ぷい、と、冬華は顔をそむけてつぶやいた。
きっと照れているのだろう。
なにしろこんなこと、完璧な『俺』といたときには考えられないことだった。
でも今は、そしてこれからは、これが当たり前になるはずだ。
「うん、ありがとう。よろしく頼むよ」
すると冬華は、はっきりわかるほど耳まで真っ赤になってしまった。
もごもごと小声でつぶやく。
「い、いきなりそんな素直になるなんて、ひきょうよ……。反応に困るじゃないの」
「ん? なに?」
「な、なんでもないわよ、バカ!」
「え、あ……ご、ごめん」
結局、不敵な『俺』でも素直な『僕』でも、晃は怒られてばかりなのだった。
冬華は照れ隠しに腕を組むと、片目でにらむように晃を見つめる。
「まったく……。こんなことになるのわかってるはずなのに、戻ってくるんだもの。いや、別に責めてるわけじゃないんだけど……。なんでだろって」
「うーん、それは……」
晃はちらりと、横目で冬華を見た。
(……言えない、よなぁ。やっぱり)
冬華といっしょにいたかったから、なんて。
すべてにおいて優秀な女の子でなくていい。
ただ、誰よりも本当の自分を見てくれていたのが、冬華だった。
それだけのこと。
だけど、たったその一言が、晃はなかなか口に出せないのだ。
するとマーシャが現れて、そっと一言。
「神尾晃は、デバッガーとしてやることがあるのだろう? 冬華のために」
はっ、と晃がマーシャを見ると、マーシャはほほえみながら消えた。
本当に、さすがはマーシャ。
人の心でも読んでいるのじゃないというほど、晃以上に晃の心をわかっていた。
(ありがとう。マーシャ)
口にはしないで礼を言うと、晃は冬華を見つめた。
「いつか絶対、冬華のバグを修正してみせるよ。だから僕を、もっとデバッガーとして鍛えてくれない?」
本当に言いたいこととは少し違うけど、これだって本音には変わりなかった。
冬華は驚いた表情のまま、すこし固まっていたけど……。
やがて、にっこりと笑ってくれた。
「……うん、そうよね。そうやってなにかに一生懸命になってるのが、なにより晃らしい」
そしてゆっくり立ち上がり、すっ、と右手を差し出す。
「いいわ。わたしが鍛えてあげる。あなたを、誰よりもすごいデバッガーにしてみせる」
一ヶ月前も、同じ場所で同じように手を差し出された。
あのときは自分のことだけを考えて、迷いながら手を取った。
けれど、今は違う。
目の前には、すべてを捧げてでも助けたいと思える人がいる。
晃も立ち上がると、迷うことなくその手を取った。
「うん。よろしく。冬華」
※
余談だが……。
連休が明け、生徒たちが帰ってきて。
冬華が寮の部屋に書いた番号が発見され、それはそれでちょっとした騒ぎになった。
宇宙人や幽霊の残したメッセージだとか、番号順に部屋をたどると異次元への扉が開くだとか、それはもう様々な噂が飛び交うことに。
さすがに明乃の起こしたバグだと勘付く生徒はいなかったが、学園の七不思議として語り継がれるという結果が待っていた。
……いつの日か。
この七不思議を信じ込んでしまった誰かが、新たなバグを起こすのかもしれなかった。
あの、願いの木のように――。
デバッガーLV100 天埜冬景 @Amano_Toukei
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