エピローグ

第17話 決断

 昇り始めたやわらかな陽射しと、穏やかな風。


 早朝から一仕事を終えた身体と心に、その雰囲気は心地よかった。

 木々たちが生み出す新鮮な空気を胸いっぱいに吸いながら、二人は工事途中の裏庭にやってきた。


 黒と黄色のフェンスで覆われた中心部。

 そこにあった願いの木は、今はもうない。


 それでもここは始まりの場所。


 晃がデバッガーにスカウトされ、この学園での冬華と新たな関係が始まった場所なのだ。


「……それにしても、やっぱり冬華はすごいよな」


「な、なによ。いきなり……?」


 いきなりの褒め言葉に、冬華はすこしだけ慌てた。


 晃は苦笑しながら冬華を見下ろす。


「いや、さっきの検証さ。俺にはわからなかったことを、すぐに見抜いて……。あのとき俺はIQ180で、完璧な報告書を作ったはずだったのに」


 冬華は、なにも答えなかった。ただうつむいている。


 身長差もあって、晃の視点から冬華の表情はまったく見えなかった。


 するとその口がちいさく動き、うっかりすると聞き逃しそうなほど小さな声で「……ありがとう」とつぶやく。


 だが、なにに感謝されたのか、晃はさっぱりわからない。


「……え? な、なにがだよ?」


 聞き返すと、冬華は背中を向けてしまった。


「い、一度しか言わないから、よく聞きなさいよ!? だから……わたし一人じゃさっきのバグは修正できなかった――そう言ってるのよ!」


 散々嫌っていた完璧な晃に助けられ、お礼を言うのが恥ずかしいのだろう。

 冬華の背中が、もじもじとちいさく動く。


「わたしだけだったら、明乃のとこにたどり着けなかっただろうし……それに、まず最初にあの報告書があったから、違う視点から真相を当てられたのよ……」


 確かに晃の報告書は、あの時点で集められた情報においては最適と思われた。

 それでも多角的に、違う視点から自分の報告書を見直せば、あれがまちがいだったことに気付けたかもしれない。


 それができなかった理由は単純にして、明快。


 晃はバグの力におぼれてしまい、その力を過信していたからだ。

 パラメータという名の、才能を。


 だが世の中は、才能の優劣だけで決定されるわけでない。


 それは――経験。


 自らに挫折して才能を求めた晃と、ひたすらに努力を続けた冬華との差だ。


 晃はそのことを理解していた。そして、その過ちを認めたのだった。


「……なぁ、冬華」


 背中を向けた冬華にどう語りかけていいかわからず、晃は冬華の頭に手を乗せた。


「な、なによ……?」


 冬華は恥ずかしさに頬を染めたまま、振り向いて晃を見上げた。


 晃は優しくほほえんで語りかける。


「それでも、おまえはすごいよ。デバッガーとして努力を続けて……その経験が、あのバグを解決したんだと思う。だから俺は、がんばってきたおまえのこと――」


 その、瞬間。

 晃が「尊敬してる」と、口にしたのと同時。


 ぽん、と、空気が抜けるような間抜けな音がした、



「……え? あれ?」


 一瞬にして、冬華の頭が近づいた。


 いや、そう思ったのは勘違いだ。

 冬華が近づいたんじゃなくて、晃自身が近づいたのだった。


 わかりやすく言うなら――晃の背が、縮んだ。


「あれ? あれ? まさか……時間切れ!?」


 服の袖を持て余しながらあたふたしていると、冬華は「ぷっ」と吹き出す。


「ちょ、ちょっと晃さぁ! カッコつけるんなら、最後までカッコつけてよね! あーもう、おっかしーわ」


「な、なんだよ……。そんなに笑うことないだろ」


 すると冬華は、「ま、いいじゃないのよ」と、晃に笑いかける。


「だって、これが本当の姿なのよね? はじめて見たけれど、わたしの知ってる晃って感じがするもの。ちょっと大人っぽくなってるけど、あの頃の面影があるわね」


「……どうせ、ちょっとだけだよ」


 できることなら、まったく面影がないくらいに成長したかった――。


 そんな軽口も思い浮かんだけれど、それを口にするよりも先に冬華が近づいてきて、晃は言葉に詰まってしまった。


「な、なに……?」


「いいから、じっとしてて」


 冬華はそう言って、自分の頭に手を乗せた。


 そしてそれを晃に向かって水平に動かし……とん、と、晃のあごに当たった。


「……ほら、ね。やっぱりわたしよりも、背が高いじゃないのよ」


 にこっと笑う冬華。


 その笑顔とかわいらしい仕草に、不覚にも晃はどきっとしてしまった。


(ち、違う……これは、そう。今までよりも、冬華の顔が近くにあったから……)


 そうやって自分自身に言い聞かせると、照れ隠しに冬華と反対のほうを向く。


「ま、まったく。冬華に言われても、慰めにはならないよ」


 本気が半分、強がりが半分。

 十歳のまま成長が止まっている冬華と比べられても、むなしいだけ。


 だけど、自分よりも背が低い女の子がいるというのは、やはり嬉しくもあった。


(でも……。こんなこと言ったら、また足が……)


 いつもの踏み下ろしを警戒して、晃はちらりと冬華を見た。


『どうせわたしは、背が低いわよ!』


 そんな怒声が、今にも飛んできそうな気がしたのだけれど……冬華は予想に反して、にこにことしていた。


「うん。やっぱりわたし、こっちの晃のほうが好きよ。懐かしい感じがするし……なにより一緒にいて安心するもの。……昔みたいに」


「す、好きって……。そんな……」


 冬華は特別な意味じゃなく言ったのだろうけど、ついつい晃は意識してしまった。


 とてもじゃないけれど、冬華の顔を正面から見れない。


 そんなときだった。

 寮の反対側――正門のほうから、車の音が聞こえたのは。


 ごまかしついでにそっちへ話を持っていく。


「……あ、そうだ。牛乳が一本、届くんだった」


「覚えてないけど、わたしが頼んだのよね。それじゃ、あれは奇跡の牛乳ね」


 なんだかおかしくて、その言葉に二人してくすくすと笑ってしまう。


 それでようやく、晃は冬華を見ることができた。


「じゃ、その奇跡の牛乳で乾杯でもしようか?」


「そうね。修正完了のお祝いよ」


 二人、並んで歩き出そうとして――冬華が「あっ」と声をあげた。


「ねぇ、晃……? すっかり忘れてたけど、あなたやっぱり、その……。ここから出ていくつもりなの?」


 このときばかりは、晃にもはっきりとわかるほど、冬華は寂しげな顔をしていた。


 だからってわけじゃないのだけど……晃は、優しくほほえんだ。


「うん。迷っていたけど、決めたよ。僕は……」

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