第2話 雨粒、虹と心模様。
針のように細くて鋭い雨が、古ぼけたトタン屋根を激しく叩く。
その騒々しいバタバタという音に、小学生の少女...小野田舞花はほぼ反射的に顔を顰めた。
訳あって綺麗なものを綺麗と言えず、全てを嫌ってしまうという難儀で捻くれた性質の舞花。
だが、先日のある1件の後、そんな厄介な性質はいくらか和らいでいる。
しかし性質は性質。そう簡単に抜けきるわけもなく、妙に冷めてどこか不機嫌そうな女子小学生は相変わらず健在だった。
そして...。
「うわぁ...雨かよ。俺雨あんま好きじゃないんだよな...やっぱ天照大御神の血を引いてる影響か?」
「...やっぱりいつ聞いても信じられないわね、その話」
そう。
祖母と二人暮らしである舞花の家に最近転がり込んできたのがこの男...『神様』の天風希心奏。
神様とは言えど人間の血も混じっていて、不思議な力が使える事や驚異的な身体能力以外は普通の人間とほとんど変わらないのだが。
舞花は灰色に染まる窓の外の景色をぼんやりと眺めながら、彼が家に来た日のことを思い出す。
家賃滞納でアパートを追い出された、と泣きついてきた希心奏。
『世話になるわ!』
(...と言われてもね...家はおばあちゃんと二人暮らしだし、何処の馬の骨ともわからない若い男の人なんて、たった一晩だって泊められそうにないと思うのだけれど)
そう思っていたのに。
彼を連れて祖母のいる階下に降りていくと、予想外の出来事が起こったのだ。
新聞を広げ、読んでいた祖母は人の気配を感じたのか顔を上げ、少しも驚かずに微笑んだ。
『あらー、天風くんじゃない?久しぶりねぇ』
『お久しぶりです、佳代さん』
佳代、というのは舞花の祖母の名前だ。
初対面の筈の彼らが互いに名前を知っているというのは...。
(どういう、こと?)
不可解な表情を浮かべる舞花に、祖母が小さく笑って答える。
『天風くんはね、私が昔開いていたそろばん教室に通っていた生徒さんなのよ。もう、そうねぇ...10年以上前かしらね』
『...ってなわけだ』
(...神様もそろばんなんて習うのね...)
舞花が妙なところに感心している間に。
祖母は希心奏に『泊まるところがないならうちでいいじゃない』と朗らかに提案し、希心奏が『そうさせてもらっていいですか』と嬉々として頷く...という展開が繰り広げられていた。
舞花が止めに入ろうと思った時には、もう遅い。
『つーわけで、正式に世話になるな?舞花』
『......意味がわからないわ』
こうして貧乏神様の居候は、案外あっさりと小野田邸に転がり込んだのだった...。
と、いうのが2週間ほど前の出来事。
それからこのグータラ神様は家で怠惰な生活を送っている...らしい。とは言え舞花は日中学校に行っているわけで、細かい行動を把握できている訳では無いが。
雨の音はやはり好きになれないな、と首を縮こませ、舞花は問いかけた。
「ねぇ、キラ」
「んー?なんだー」
「あなたは人の願いを叶えるアルバイトをしているのよね」
「そうだけど、どした急に」
「どうやって仕事をとってきているのか、少し気になったのよ」
希心奏はその問いに小さく唸り、数秒ほど考えた後に言った。
「あ、丁度帰って来る頃だろうから説明してやるか...ほら、噂をすれば」
開けられていない窓を不思議にすり抜けて、白い何かが部屋の中に入ってきた。
それは舞花の姿に目もくれず、真っ直ぐに彼の肩にとまる。
よく目を凝らしてみると、それは紙で造られた小さな小鳥だった。一見すると折り紙のようだが、小さく鳴き声を上げて翼をばたつかせている。
「これは...?」
「まぁ、所謂式神ってなモンか?こんなもん使わなくても情報収集できるタイプの力の奴もいるけどな、生憎俺はその類の力はからっきしだ。コイツに力を閉じ込めて街に放って、俺の力と波動の合う悩み事を探してくる優れもんだ」
「...波動?そんなものあるの?」
「人間同士でも合う合わないがあるだろ?神様でもそれは同じ事だ。合わねぇ奴はまるで合わねぇからな...技が上手くいかなかったり、良くないものを呼び寄せたりすることもあるし」
そういうものなのか、と舞花は相槌を打った。
つまり彼は(一応)遊んでゴロゴロいる訳ではなく、この式神の小鳥で情報収集して仕事を探している、ということである。まぁそれ以外にも割のいいバイトでも探してさっさと稼いで出て行ってもらわなければ困るのだが。
希心奏は式神に耳を寄せてピィピィという小さな鳴き声を聞き、数回瞬きした。
そしてその背を人差し指でゆっくり撫でる。紙製だからあまり表情はわからないが、小鳥は気持ち良さげに目を細めたように見えた。
「依頼入ってるっぽいなー...うわ、今日雨じゃねぇか」
「外に出たくないとか言うんじゃ無いでしょうね?」
舞花がじっとりとした視線を向けると、希心奏はそっぽを向いてわざとらしく口笛を吹いた。
舞花は呆れ返って嘆息する。
(全くこのグータラ神様は......)
希心奏は大きな欠伸をしてから立ち上がり、グンッと伸びをした。
「っしゃねーな、行くか...そうだ舞花、お前も来るか?」
「...何故?」
訝しげに首を傾げる舞花に、彼が飄々と返す。
「だってなんか興味ありそうな顔してたから。どーせぼっちの小学生は暇人だろ?」
「......余計なお世話よ」
ニヤリ、と口を歪める『神様』。
何もかもを見透かしたようなその様子に、やはり何処か掴めないと感じながらも、舞花は立ち上がった。
「行くわよ、キラ」
「へいへい。えっらそーだなぁー」
「実際あなた居候の身でしょう」
軽口を叩き合いながら、捻くれ小学生とテキトー神様は灰色に濁った空の下に足を進めた...。
鋭い雨の中、舞花の持つ淡いグリーンの傘がユラユラ揺れる。
この前コンビニで購入したビニール傘で雨を防ぎつつ、希心奏はキュウッと目を細めた。
「この辺だと思うんだけどなぁ」
「...そんな曖昧なものなの?」
「コイツが反応してるから多分......今回の依頼人の名前とかもコイツが教えてくれんだぞ?便利だろ」
「なかなか近代的な能力ね」
冷静に返す舞花に、希心奏が面白くなさそうに口を尖らせた。
「ちょっとはマシになったとはいえ、お前のそういう可愛くないとこは変わんねぇな」
「あなたもいつ見ても神様に見えないわね。というより立派な大人にすら見えないわね」
「...そういうとこだっつの。あ、多分あの人じゃねぇか」
希心奏がそう呟いて人差し指を突き出した先には、1人の女性が佇んていた。
20代後半ぐらいだろうか。陶器のように白い肌と黒く艶やかな長髪。琥珀のような蜂蜜色に輝く瞳は長い睫毛に縁どられていて、遠目からでもかなりの美人であることがわかる。
だがその姿は何処か儚げで、少しつつく簡単にと崩れて落ちてしまいそうにも見えるのだ。
「不思議な人...みたいね」
「お前が言うなよ...でもまぁそうだな。あの人の心色、中々複雑な色してるしな」
片手を黒パーカーのポケットにグイッと突っ込み、傘をクルクル回しながら、希心奏は「行くか」と呟く。
パシャリパシャリと水溜まりをシンプルなスニーカーが踏みつけるたび、光に当たった水滴が煌めいた。
2人の気配に気づいたらしい女性がすっと顔を上げる。
「あなた、...は?」
「んー、名乗るほどの名前は無いんだけど...とりあえず『神様』とでも呼んでくれ」
「格好つけているけど、本当は天風希心奏というのよ」
「バッ...舞花!お前は黙れ!」
仏頂面で突っ込む小学生の少女と、慌てふためく自称・神様の若い男性。中々シュールな絵面である。
女性は戸惑いがちに首を傾げ、「...あの...?」と遠慮がちにその形の良い唇を開く。
希心奏はコホン、と小さく咳払いをすると、少し低い声で言った。
「...野原琥珀さん、あなたの願いを叶えるという命の元にやってきました」
ここでは何ですので。そんな風に妙に改まった希心奏の言葉で、舞花たちは連れ立って近くの喫茶店に入った。
何処かノスタルジックな雰囲気の店内で、初老のマスターがいらっしゃいませ、と言って微笑む。
充満する珈琲の香りは、以前の舞花なら腹立たしく感じていただろう。しかし今はとても落ち着く穏やかなものに思えた。
(そういえば母さんも珈琲が好きだったかしら...)
そんな事を思い出しながら、案内されたシックな飴色のテーブルに着く。
「注文は何にする?舞花」
「温かい珈琲頂くわ」
「...マセ小学生が」
「別に普通よ。それよりもキラ、ちゃんと説明してあげなくて良いの?琥珀さん、戸惑ってるわよ」
「っ、あぁ」
手前に座る『依頼人』の野原琥珀は、先程よりも幾らか落ち着いた様子で口元に小さく笑みを浮かべた。
「...神様、ですか」
「えっ、あのいや、コレは詐欺とかそういうのではなく...」
「胡散臭いとは思うけれど信じてあげて、野原さん。私も不本意ながら彼に救われたから」
「オイ不本意ってどういうことだ」
「そのままの意味だけど?」
「...ふふ...お2人、仲が良いんですね」
琥珀はより楽しそうな様子でクスクスと笑う。
彼女の初めて目にした時のような儚さは、喫茶店に入ったあたりから随分と和らいでいた。
琥珀はアイスコーヒーを注文してから、零れ落ちる黒髪を耳にすいっとかけて呟いた。
「...天風さんを信用していない訳では無いんです。突飛なお話だったけど、何だか不思議と腑に落ちた様な...でも」
「でも...?」
「報酬をお支払いしてまで叶えたい願いは、私には無いんです」
優しく丁寧な口調ながらもキッパリとした、断りの言葉だった。
(...まぁそう言われても仕方ないわよね。むしろ、叫んで通報されたりだなんてしないで良かったわ)
舞花は内心少し落胆して、左隣に座る『神様』の表情を仰ぎ見る。
希心奏は露骨に眉間に皺を寄せ、「...あぁ、また1件仕事が無くなった...そのくせ珈琲代で財布は軽くなったし...」とか何とかボソボソと呟いていた。
...11歳の舞花が表情ひとつ変えずに応対しているというのに(まぁ、舞花も舞花で少しばかり特殊ではあるのだが)、この男...何処まで大人げが無いのだろうか。
「ということは琥珀さんは、現状に不満を感じていないということ?」
「えっ...」
「だって、願いが無いってそういうことじゃない?」
小学生の少女の核心を突いた質問に、琥珀はほんの一瞬、怯んだように見えた。
舞花は淡々と続ける。
「一応もう一度言っておくけど、この人は悪徳業者でもペテン師でも無いわ。喉から手が出る程お金は欲しいけど、仕事量以上の報酬を請求したりだなんてしない。...そうよね?キラ」
「喉から手が出る程金が欲しいってフレーズが気に食わねぇが...まぁ、大まかに言えばそういう話だ。俺が今あなたの依頼を聞きに来ている、ということは、心の底から切に願う望みが少なくとも1つはあるって事だしな?」
舞花のフォローにしっかりと便乗し、水を得た魚のように饒舌になる希心奏。呆れた視線を向けつつ、舞花は運ばれてきた温かい珈琲を砂糖も入れずに1口啜った。
琥珀は困ったように唇に指を当てる。
「でも私、本当に無いんです。そんな願い」
「その割には心の中がごっちゃごちゃだけどな?...迷いや不安や...あとかなり、嫉妬と憎しみ辺りの感情も混ざってる色だなこりゃ」
「......ッ」
ガタリ、と机が大きく揺れた。
琥珀が手に持っていたアイスコーヒーのグラスを勢いよく叩きつけたらしい。派手な音を立てて割れたグラスの欠片が四方八方に飛び散り、琥珀の雪のように白い肌を切り裂く。
朱色の液体がぽとぽととテーブルに落ちた。
「大丈夫かっ」
「...すみません。少し手が滑ってしまったもので...とにかく、せっかくの機会ですがお断りさせて頂きます。お会計は私がしておきますので、それでは」
顔を俯かせたまま震える白い手でグラスの欠片を拾い集めてナプキンに包み、早口で会話をおわらせた彼女は立ち上がる。
細い指でセピアカラーの伝票を摘み上げ、琥珀はあっという間に会計を済ませて店を出ていってしまった。
「...何かあるようね」
「会計済ませてくれるなんて優しい依頼人だったな」
「...キラ、お金に釣られて詐欺とかに遭わないでね。神様が騙されるなんて、本当に笑えないのだけど」
「へいへい、わーってるよ。お前みたいなお子様に言われなくても、なっ」
「...それよりどうするの?このまま引き下がる訳じゃあ無いでしょう」
「勿論だ。次の手を考えるしかねーな...」
でもどうすべきかなぁ...と唸りながら、彼は手元のカップに角砂糖をボトボトと入れる。
珈琲はブラック派の舞花は顔を顰めるが、そんな事をしている場合では無いと思い直した。良くも悪くも、彼女は歳の割に物分かりが良いのだ。
「君たち、琥珀ちゃんの知り合いなのかい?」
頭を抱える2人の横から突如、のんびりとした低い声が聞こえた。
声の主はどうやら、お冷を注ぎにきた初老のマスターのものらしい。
「知り合いというか...マスターこそ知ってるんですね、琥珀さんのこと」
「知ってるも何も、この界隈の子だからねぇ。赤ん坊の頃から知ってるよ...美人さんに育ったもんだ」
「...ではそれなら、琥珀さんについて何か知っていることは無いですか。あったら知りたいの」
大人びた口調で尋ねてきた小学生に少し驚きつつも、マスターは穏やかに微笑んで快諾してくれる。
「俺ぁ近所の爺さんだからなぁ。踏み込んだことは知らんし、知ってても普通なら教えられないけど...君たちゃ悪用しそうな輩じゃ無さそうだから。些細なことで良ければ答えるよ」
「ありがとうございますっ」
黒パーカーの神様は、雨で少し湿った猫っ毛を大きく揺らして45度に背中を折り曲げる。
そういう堅苦しいことは良いから、気楽に聞いてて良いんだよ?と言ってマスターは......ぽつりぽつりと『野原琥珀』という女性について語り出した。
「琥珀ちゃんはな、ここからちょっと行ったとこにあるケーキ屋の娘さんだ。どちらかというと明るくて好奇心旺盛な子でなぁ。他愛ない悪戯をしては周りの大人にこっぴどく叱られんのがオチだった」
「...今と随分様子が違うわね」
思わずそう漏らした舞花に、マスターは苦笑を返す。
「子供んときだからなぁ...まぁ、琥珀ちゃんの場合はそれだけが原因じゃないんだろうが...」
「他にも何かあるんですか?」
希心奏が固い声で反応すると、少し眉をひそめたマスターが顎髭を擦りながら視線を逸らした。
その瞳に苦しげな光を少し宿しながら呟く。
「琥珀ちゃんには双子の妹さんがいたんだよ。翡翠ちゃんっていう」
妹が『いた』。
その言い回しに、舞花の胸の奥がキュッと締め付けられた。
チリチリ、パチパチ...炎の音が蘇る。舞花自身の、喪失の記憶が蘇る。
(私が思い出している場合じゃないでしょう...それに、もう踏ん切りがついたことよ)
小さく首を振って辛い記憶を振り払ってから、思考を琥珀のことに移す。
隣の希心奏を仰ぎ見ると、彼も見えない痛みを感じたかのように顔を顰めて俯いていた。
マスターが続ける。
「翡翠ちゃんは...琥珀ちゃんと『一卵性双生児』、っつーやつでな。顔やら声やらは本当にそっくりだったんだが...性格はまるで違ったなぁ。翡翠ちゃんはしっかり者だけどちょっと怖がりで、勉強が好きな子だった。丁度2人それぞれの良いところが違って、バランスが取れてる感じだったな」
「でも...翡翠、さんは」
それ以上の憶測を口にするのははばかられて、舞花は口を噤んだ。
マスターがすん、と鼻をすする。
「10年前に亡くなった。琥珀ちゃんはそれから2年ぐらいずっと塞ぎ込んでて、まるで亡霊みたいだったさ。でも何とか立ち直って大学にもちゃんと通って、両親の経営するケーキ屋で働きだした。そんで良い人も見つけたみたいでなぁ。今度結婚するそうさな」
結婚する...それはとてもおめでたい事のはずなのに。
彼女は明らかに幸せそうではなかった。時折見せる翳った儚い表情は、辛さを堪えきれていない様に見えた。
(...そう簡単に、人は立ち直れないものだもの)
舞花だって、まだ全て現実飲み込めた訳では無い。一生かかっても心の奥底の傷痕は消すことが出来ないだろうし、もし消してしまったら自分が自分で無くなるような気もする。
だけど。彼女は叶えたい願いはないと言った。
現状に酷く苦しんでいるはずなのに、嘘を吐いて微笑んだ。
希心奏を怪しんでいるから、という訳ではない様だ。...なら、何故...?
「一筋縄では行かんもんだな〜...やっぱ、人間の心ってのは」
希心奏が肩を竦めて独り言ちる。
マスターは目元に小さく皺を寄せ、少し悲しそうな色を滲ませて微笑んだ。
「君たちがどういう人らか俺はまるで知らんが...もしもできるなら琥珀ちゃんのことを救ってやって欲しい。口には出さんが相当苦しんでると思うからなぁ...女房を亡くした時に感じたが、身内を失うってのは中々受け入れられんもんだ。できれば幸せな気持ちで嫁に行かせてやりたい」
タダの近所のジジイの独り言だけどなぁ、と締めくくり、マスターは小さなクッキーの乗った皿をテーブルにコトリと置いた。
「...頼んでいない、ですよ?」
首を傾げる舞花に、マスターがそっと首を振って微笑んだ。サービス、ということらしい。
ありがたく頂戴することにして、2人はシナモンの香りが漂うガレットクッキーを1つずつ摘む。
サクリ、と歯の間で砕かれたそれは、優しい甘みを伴って喉を滑り落ちて行った。
叶えたい願いはない。その言葉は...確かに嘘だ。
雨の中で出会った、『神様』だと名乗る黒いパーカーを羽織った若者と、妙に鋭く冷静な少女。
彼らは琥珀の望みを叶える、と言った。その言葉どおり、きっと報酬を払えば琥珀の願いは叶うのだろう。
(...でも...無理よ)
昔からずっと一緒だった双子の妹、翡翠。
顔も声も...親でさえも度々間違うほどにそっくりだった琥珀と翡翠。しかしその性格は全くと言っていい程正反対だった。
外を駆け回って遊ぶのが好きだった琥珀に対し、翡翠は部屋で絵を描いたりごっこ遊びをするのが大好きだった。
だけど...2人はとても仲が良くて。自分と違うことが逆に心地よかったのかもしれない。
しかし、段々2人の関係に小さな亀裂が入り始めた。
きっかけは小学校中学年、数学のテスト。
翡翠が満点を取ったそのテストで、琥珀は半分も取ることが出来なかった。
翡翠が勉強している間に私は遊んでた。だから仕方ない。次は大丈夫だよね。
そんな風に誤魔化して受けた次のテストも、その次とテストも、琥珀と翡翠の点差はほぼ変わらなかった。
大人しく、賢く、しっかり者で、優等生の妹。
自慢の妹だ。だから、何も思うことは無いはずなんだ。
なのに何故か......心の隅に翡翠を疎む自分が居た。
中学に入って、翡翠はやっぱり優等生で。
絵のコンクールでは金賞を取り、学年トップレベルの成績をキープし、人望もあって。
どんどん琥珀は取り残される。殆ど同じ時に生まれた2人の差が開いていく。
醜い感情が湧き上がるのが怖くて、目を背けて、馬鹿みたいに笑って誤魔化した。
翡翠が大好きなのに。まっすぐ見れないなんて、嫌なのに。
...翡翠がいなければなんて、絶対に思いたくないのに。
「...ふー...見つけた...」
「同じ商店街のケーキ屋で良かったわね。見つけられたわ」
自宅でもある『野原ケーキ店』の前で佇んでいた琥珀は、雨の中で途切れながら届く2人組の声にハッ、と我に返った。
振り向くと、先程声をかけてきた黒パーカーの男と冷静な少女が並んで立っているのが見える。
「...喫茶店のマスターに聞いたんですか」
「んー、まぁな。それより...やっぱり気になったから」
雨のせいで少し色の変わった茶色の猫っ毛を揺らし、『神様』が真剣な表情で言う。
「あなたの願いは、妹さんの死に関連してるのか」
「......っ」
ザザァ、と強い雨が足元の石畳を叩きつける。まるで泣き声のように、悲しげに響く。
琥珀は震える唇を開いた。
「...あなた達に何がわかるんですか」
「......っ」
「私は...私は、あの日......翡翠が死んでしまったのは、私のせいなのに!」
妹が亡くなったのも、こんな雨の強い日だった。
進学校に通っていた翡翠と、別の私立高校に通っていた琥珀。
学校が離れて、段々翡翠と比べられることも少なくなってきていた。嫉妬心のような醜い感情は幾らか薄れて、琥珀自身もホッとしていた、矢先のこと。
琥珀の学校の文化祭に、翡翠が遊びに来たのだ。
すごいねぇ、ホントに琥珀とそっくりじゃん!見分けつかないわぁ......そんな風に琥珀の友人に迎えられ、お姉ちゃんは友達多いね、なんて羨ましそうに言われて、嬉しくて。
しかし、運命というのは残酷なものだ。
後日、琥珀は密かに憧れていた先輩に呼び出された。
(...もしかして)
人生で初めて告白されるのかもしれない。そんな期待に胸を踊らせて待ち合わせ場所に行った。
そこで、頬を赤らめた先輩から言われたのは...思ってもみなかった一言だった。
『...琥珀、この前文化祭に妹来てたよな。紹介してくれないか?』
...どうして。
一緒にいた時間も、先輩を見ていた時間も、私の方がずっとずっと長いのに。よりによって、顔も姿かたちも何もかもそっくりな、妹を選ぶの?
いつもそうだった。翡翠は特に欲を口に出さずとも、するすると欲しいものを手に入れていった。
私の居場所を、奪っていった。
その日の夕方。
『お姉ちゃん、おかえりー。紅茶入れたけど飲む?』
朗らかに笑って声をかけてきた妹に、自分勝手な嫉妬が膨れ上がった。
『...翡翠は、良いよね』
『.........へっ?』
『いっつもいっつも欲しいものが手に入って、何でもできて...そんなに私のこと蹴落としたいの?』
『...何言って...お姉ちゃん?』
『知ってる...翡翠が努力家で、優しくて、だからこそ成功してるんだってこと、ぐらい......っ、だけど、だけど』
涙が溢れて、零れて、止まらない。
息が上手くできない。とてつもなく苦しい。
『私だって...何も頑張ってないわけじゃないのに!翡翠はズルいよ!』
『......お姉ちゃん!』
居てもたってもいられなくて、琥珀は外に飛び出した。外は酷い雨降りだったけど、そんなことは構って居られなかった。
最低だ。こんな風になるのが、本当に嫌だった。
全部全部わかってる。この感情は、憧れで、嫉妬で、憎しみで、愛情だ。
翡翠の努力も、優しさも、全部知ってるのに。
(ごめん...翡翠)
必死で、もがくように走る。
あまりにも勢いをつけすぎて、ガクンと膝が震えだした...そんな時。
『お姉ちゃん、危ないっ!』
『翡翠!?......きゃぁっ』
後ろから追いかけてきたらしい、切羽詰まった翡翠の声がして。琥珀は勢いよく突き飛ばされた。
『翡翠...何す...っ.........!?』
横倒しになったトラックの、空回りするタイヤ。
焦げ臭い匂いと、煙の中に......飲み込まれていく翡翠の影。
『翡翠っ......翡翠!』
信号無視をしたトラックによって、翡翠は命を落としてしまった。
...琥珀を、庇って。
「...許されるなんて、思ってない...私は、私は翡翠を」
悲痛な叫びに、舞花はそっと俯いた。
何かに気づいたような表情で、希心奏はパーカーのポケットをゴソゴソ探る。
そして発見された綿のハンカチを無言で舞花に手渡した。「...何、よ」
「涙」
「...あぁ...」
いつの間にか自然に零れていた涙をそっとハンカチで拭い、舞花は体を震わせる琥珀の方に向き直る。
「琥珀さん。もう一度聞くけれど...貴女の願いは何?」
「だから...もう私に構わないで!何も知らない癖に」
「知らないわよ。だから何だっていうの?」
その言葉に、琥珀がハッと蒼白いその顔を上げる。
舞花は淡々と言葉を続けた。
「私が貴女のことを知らないように、貴女も私のことを知らないでしょう。両親が私を庇って命を落とした火事のことも、全部」
「......命を...?」
「同情してもらおうと思ってした話ではないから気にしなくて構わないけれど。...でも貴女、もうすぐ結婚するんでしょう。そんな気持ちのままじゃ、何もかも空っぽになるわよ」
小学生らしからぬ大人びたコメントに、琥珀は長い睫毛を瞬かせた。
希心奏がそっと唇の端を緩めて微笑む。
「野原琥珀さん。あなたの願いはなんですか」
「私の、願い...は......」
「翡翠にありがとうって、言いたい...」
舞花と希心奏は若干、驚きを顔に浮かべる。
琥珀は涙を拭いながら呟いた。
「ずっと...翡翠に謝りたいって思っていたんです。酷いことを言って、謝らないまま...私のせいで亡くなった、翡翠に」
でも。琥珀はそう言葉を区切って、陶器のように白い腕を雨雲の立ち込めるくらい空に向けて伸ばす。
「それは、私がただ単に罪悪感から逃れたいだけの自己満足で、あの子に許しを乞うて自分の幸せを認めてもらいたいっていう浅はかな考えだから......そんな虫が良いことじゃなくて、双子の姉として。今まで一緒にいてくれてありがとうって言いたいの」
希心奏は片目を瞑り、ヒュゥッと掠れた口笛を吹く。
「成程。わかった......」
そして唇を弧に歪めて少し意地悪く言った。
「がめつい訳じゃねえが、報酬は頂くぞ」
「...結局そういうのがめついって言うのよ」
舞花が呆れたようにそう突っ込んだのは、言うまでもない。
翡翠との再会には彼女の『思い出の品』が必要らしい。
琥珀は翡翠とお揃いで買った、色違いのブレスレットを選んだ。
金色の鎖には...琥珀の物には『琥珀』の宝石が、翡翠の物には『翡翠』の宝石が取り付けられている。
双方のブレスレットをキュッと握り締めて、琥珀は顔を上げた。
「...お願い、します」
「ん」
シャラシャラシャラ。
ブレスレットの鎖が生暖かい風に吹かれ、か細いハーモニーを奏でる。
(そうだこれ、付けてると揺れて音がするんだっけ...)
翡翠が亡くなってから、着けていなかったブレスレット。
(忘れたかった...逃げてた、だけなんだ)
「お姉ちゃん」
自分そっくりの声が、鼓膜を揺らす。
手に鎖の跡がつくほどブレスレットをきつく握り締め、琥珀は勇気を出して顔を上げた。
髪をサイドで結び、通っていた高校の制服のスカートを揺らす彼女。
...自分の、10年前とほとんど同じ姿をした、少女。
「...ひ、すい」
「久しぶりだね。もう10年になるのかぁ...元気にしてた?」
優しげな表情は、10年前と何一つ変わっていない。普通に会話をしてしまいそうな、日常と錯覚してしまいそうな...。
...ダメだ。ここで翡翠の優しさに甘えたら、私はきっとまた後悔をする。
「翡翠。本当にありがとう」
「えっ?」
「ずっとずっと大好きだった。酷い事言って、許されないに決まってるし...許して欲しいだなんて甘い事言えないよね。でも、大切で...自慢の妹だった。ありがとう」
声が震えた。だけど、言いたいことは全て言えた。
翡翠は少し戸惑ったように目をそらしてから、ふにゃりと破顔する。
「お姉ちゃん、あのね...私も、だよ」
「え?」
「私、進学校に受かって、必死で成績キープして...だんだん、友達を作る暇もなくなって。気づいたらクラスで孤立してた」
初めて聞く、翡翠の真実。琥珀は驚いて目を見開く。
「いじめ紛いのこともされてね。あぁ、安心して?そんな酷いのじゃないから...でもそんな時にお姉ちゃんの学校の文化祭に行ったら、お姉ちゃん友達いっぱいいて楽しそうで...何でって思ったよ」
翡翠が、少し悲しそうに微笑む。
「こっちは必死で頑張って勉強してるのに。そのせいで色々失ってるのに...何なの、馬鹿みたいって。お姉ちゃんがズルいって...口に出さなかっただけ。私も同じこと思ってた」
「翡翠......」
「だから安心して。お姉ちゃんの言葉で、私は逆にホッとしたの。傷つきもしたけど...あぁ、やっぱり私達、深いところは一緒なんだなって思えた。気持ちをぶつけ合えたら、今よりもっと仲良くなれるかもー、なんて思った」
知らなかった。何も。
そりゃそうだ......人一倍考えて動く彼女が、悩んでいなかったはずがない。
(...勘違いし合ってた、ってこと...?...馬鹿だなぁ、私達)
「あとね、私が死んだのお姉ちゃんのせいじゃないからね」
「うっ!?いや、あれは私のせいでしょう!?」
思い切り核心を突かれて狼狽えながら、琥珀は叫ぶ。
翡翠がちょっと呆れたような表情で首を振った。
「なんで責任とか感じちゃうかなぁ。トラックが悪いに決まってるでしょう?...それに私、もしお姉ちゃんと立場が逆になっちゃってたら生きてけなかったし。後悔してない」
スッキリとした表情で言い切った翡翠は、琥珀の手元に目線を移して「あっ」と声を漏らした。
「ブレスレット...!懐かしい...ちゃんと私のも。嬉しい」
これは貰って行こうかなー、と呟き、白い指で鎖を摘む。
その先には紅茶色の宝石がキラキラと輝いていた。
「...それ、私のじゃない」
「知ってるよ。だからいいんじゃん、お姉ちゃんのを貰っていきたいんだよ」
じわりじわりと翡翠の体が光に包まれていく。
翡翠はうーん、と伸びをして、再度思い出したように言った。
「あっ、聞いたよお姉ちゃん。結婚するんだって?」
「知ってるの?」
「そりゃあ、双子の妹ですから」
「理由になってないよ......」
「...もう、何だっていいんじゃない?理由なんて」
光に包まれた翡翠の手が、琥珀の手を握る。
まるで...まるでその名前の『翡翠』のように美しく、彼女は微笑んだ。
「おめでとう。幸せになってね、お姉ちゃん」
シャン、と手の中のブレスレットがもう1度音を立てた。
...ケーキ店である自宅の前に立っている、らしい。翡翠の姿はもうない。
雨はいつの間にか上がっていて、雨上がりの独特の匂いが鼻を刺した。
(...夢...じゃ、ない。ブレスレットがなくなってるもの...)
手の中には、翡翠が取り付けられた鎖が残っているだけ。その鎖に僅かに温い翡翠の体温が残っているような気がして...琥珀はそっとそれを抱きしめた。
「ん、どうだった?ちゃんと会えたか、双子の妹に」
後ろから低音の声が尋ねる。視界の端で黒いパーカーの裾が翻った。
琥珀は微笑んで深々と頭を下げる。
「...本当にありがとうございました。お代は幾ら払えば良いですか?」
「ん...そうだな...」
希心奏はポケットからスマホを取り出し、電卓機能で何やらカチカチと操作し出した。
「......」
神様らしからぬ姿に冷たい視線を送る舞花。
「...すみません、3500円になりまーす......」
「もっとぼったくるかと思ったわ」
「おま、俺をなんだと思ってんだよ!?」
「家賃滞納で切実にお金に困ってる貧乏神様」
「...くっ...間違ってはねぇけど......」
テンポよく繰り広げられるやり取りに、琥珀ははクスリと笑いを漏らした。
そしてハンドバックを探り、財布から1万円札を取り出す。
「私は救われました、ホントに...頑なに見ないようにしてきた過去と向き合えて、感謝を伝えられた。だから、お釣りは要りません」
「......良いのか!?」
「...あのね......食いつかないで。そこは嘘でもいいから1度は遠慮しなさいよ」
「良いんですってば。本当に感謝しているので」
さらり、長い髪を揺らして。
丁度雨上がりのように...琥珀は強くしなやかで美しい笑みを浮かべたのだった。
「...ふー!仕事したわぁ」
仕事を終え、舞花と希心奏は帰路を辿る。
「......何だか、不思議な感じよね」
舞花がボソリと呟いた。
「ん?何がだよ」
「私もだけれど、琥珀さんも亡くなった妹さんの命を復元するという道は選ばなかった。もう1度会いたいってことは...妹さんの死を消化しきれていなかった筈なのに、心のどこかでは認めていたってことかしら」
淡々と語る舞花の瞳は、どこか切なげに揺れていた。
希心奏は少し考え込むような様子を見せると、ふっと頬を緩めてその手で舞花の頭をかき回した。
「ちょ、......何するのよ!?」
「いーや。やっぱりお前もちゃんと子供なんだなぁーっと思ってな」
「今の会話でどうしてそう解釈できるのよ!」
「怒るなって。褒めてんだぞ?」
「...はぁ?」
希心奏はトントン、とビニール傘をアスファルトに打ち付ける。先端から零れ落ちた雫が、乾き出した地面に新たな染みを作っていく。
「早く大人になんかならなくていい、っつう事だよ」
どこか意味深な、『神様』の言葉。
内心少しドキリとしながら、動揺を隠すように舞花はそっぽを向いた。
「家賃を滞納して居候している不甲斐ない誰かさんは、大人の部類に入るのかしらね」
「...お前まじで可愛くねぇなぁぁぁ!」
雨上がり、薄らと虹が架かるの空の下で。
猫っ毛の神様の、情けない叫び声が響き渡った...。
金欠の神様が、何でも屋を始めたようです。 笹山渚 @39-39
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