金欠の神様が、何でも屋を始めたようです。

笹山渚

第1話 ふらりゆらり、シャボン玉。

教室の窓の外には、見目麗しい真っ赤な紅葉が広がっている。

秋らしい少し冷たい風が、カーテンを揺らして教室に入り込んできた。

当たり前のようなその風景に、皆何の疑問も持たずに溶け込んでゆくのだ。

それが世間一般で囁かれる『普通』というものだろうし、それを疑う者の方が少数派なのだろうけど。

(じゃあ私は少数派ってことね...)

能面のような表情をまだ幼い顔に貼り付けた少女...小野田舞花は妙に大人びた溜息をついた。

何が楽しくてそんなに笑うのだろう。

何故そんなにつまらない世界の中に綺麗なものを見いだせるのだろう。


「小野田さん?この問題、答えてくれる?」

「...はい」


担任教師の声に我に返った舞花は、すっと席から腰を浮かせて立ち上がった。

小さな唇から容易く繰り出される満点回答に、教師はほっと息を漏らす。


「正解よ、偉いわねぇ」

「...ありがとうございます」


舞花の口先だけの小さな声はクラスメイトの誰かが椅子を引くけたたましい音に掻き消され、今日も誰の耳にも届かぬまま空気に溶けていったのだった。



『綺麗』の定義とはなんだろう。

皆が真っ赤に染まったモミジを綺麗と言う時、私にはその色が血で濁っているように見えた。真っ青に澄んだ青空を綺麗と言う時、私にはその色が毒々しくて酷く人工的に思えた。

大勢で同じ感動を共有して、幸せそうに笑う人達を眺めていると胸の奥が嫌な風に軋む。


光を宿さない瞳を何度も瞬きして、今日も舞花は心の中で吐き捨てる。


あぁ、やっぱり嫌い。

こんな世界、大嫌い。


「小野田さん、鉛筆もう1本持ってないかな?」


隣の席の、三上くん。馬鹿みたいに明るい、ムードメーカーのようなクラスメイト。

(毎日半袖でいるなんて、馬鹿なのかしら。もう小学五年生なのに、そんなこともわからないの?)

そんな毒は胸の奥にしまいこんで、舞花は鉛筆を差し出す。

ありがとう、と無邪気に微笑む彼に、また無性に腹が立った。全身にビリビリと痛みが走る。

(あぁ...嫌だな)


海も雲も地面も空も嫌い。この場所も、窓から見える紅葉も、明るくて煩いクラスメイトも。何もかも、大嫌い。


息苦しい授業が終わって、教室から人が居なくなってゆく。

舞花もいつものように何の変哲もない真っ赤なランドセルを背負って帰り道を急いだ。

ペタペタ、ピンクのスニーカーがアスファルトを叩く音。道路を横切る野良猫。

舞花は小さく顔を顰め、身震いをする。

早く帰って眠ってしまおう。嫌なものを見ずにすむのならいくらかマシなはず。

そう思って再度歩く速度を早めた時。


「ひねくれてんねぇ。イマドキの小学生ってこんなもんか?」


背後からどこか脳天気な、成人男性の低い声がそう言った。

気のせいだろうか。舞花はスタスタと早歩きで次の角を曲がる。

コツコツと革靴が道路を叩く足音が追いかけてくる。


「歩くの早ぇな...どうすっかな」


間違いない。声の主は舞花を追いかけてきている。

...変質者?ストーカー?

(面倒ね。帰り道を邪魔しないで欲しいのだけど)

舞花は肩を竦め、気づいていないフリをして次の角を曲がる。

追いかけてきた人物を電柱の影で待ち伏せ、顔を合わせた瞬間にビシリと防犯ブザーを突きつけた。


「近づかないで。変質者、気持ち悪い」

「うわっ!?っちょ、待てよ俺はそんなんじゃねぇって...」


驚いて目を丸める男を、舞花はじっとりとした視線で眺め回した。

明るい茶色の猫っ毛に端正な顔立ち、ラフな黒いシャツに同じ色のパーカーとスウェットパンツ。

(20代前半ってとこかしら。暇人ね、他にやることないの?)

彼女の苛立った視線に、男はブンブンと首を振る。


「悪い悪い!俺はストーカーでも変質者でもねぇんだ。ちょっとお前...小野田舞花と話がしたいだけでな」

「何故あなたが私の名前を知っているの?ますます怪しいわ、これ鳴らすわよ」


ヒラヒラと防犯ブザーを揺らすと、男は困ったように眉を下げた。


「わぁーったよ...要はお前に手ぇ出せない状況になれば信用してもらえんだよな」

「どうやってそんな状況...」

「ん、こうすんだよ」


男は驚くほど身軽にひらりと飛び上がり、頭上の木の枝に飛び乗った。

橙色に染まった葉を落としながら、男はニヤリと笑う。


「これで文句はねぇか」

「まぁ、危害を加える気はないってことは一応わかったわ。それで何の用よ?あなた、誰よ」

「...この人間離れした動きを見て、コメントがそれって...お前こそ何者なんだ」


素直に驚く男。

舞花は機嫌悪そうにキッ、と彼を睨みつけた。


「別に」

「おぉ、怖...お姫様がお怒りだ。まぁそう急くなよ、ちゃんと話してやるからさぁ」


適当な人間は特に嫌いだ。嫌気がさす。

そんな彼女の心中を知ってか知らずか、彼は諦めたように口を開いた。


「俺には名乗るような名前は...あるっちゃあるんだが難しくてな。ま、簡単に言えば『神様』ってとこかな」

「『神様』...?正直意味がわからないわ。頭がおかしい大人、ってことでいいかしら」

「ちょ、ブザー押そうとするなって!今から色々説明すんだからさ。全く...最近のお子様はせっかちだわ」


神様、と名乗る男が眉間にキュッと皺を寄せて呟いた。

舞花は無言で続きを促す。

頬を人差し指でポリポリとかき、唸りながら『神様』は続けた。


「どこから話せばいいかわかんねぇけど...お前、神話って知ってるか?」

「ギリシャ神話とかそういうもののこと?詳しくはないけれど、まぁ名前ぐらいなら」

「そんぐらいの認識があれば充分だ。あぁいう伝承は国とか地方によって違ったりするもんなんだけどな、呼び名が違うだけで同じ神様も登場してたりするんだぞ。方言みたいなもんかな?」


上手く例えられた、とばかりに胸をはる『神様』。...そんな知識、心の底からどうでもいい。

大体この胡散臭い男、何が目的なのか。確かに危害を加える気はないようだが、だったらなんで...。


「考え込むのは後でもできるっつの...とりあえず今は黙って俺の話聞いとけ。俺はな、神話なんかに出てくる偉大な神様達の子孫」

「もしあなたが駆け出しの作家ならアドバイス貰う相手間違ってるわよ。編集部に持ち込みでもしてきたらどう」

「ちっげーよ!あーくそ、なんでお前...無邪気な夢見れないこじらせた性格してんだ。子供らしくいろよもっと!」

「変質者に性格を指摘されても響かないわよ」

「るせぇな!もういい、とりあえず喋る!俺の先祖は天照大御神。ざっくり言うと太陽司ってた神様!」


逆ギレのようなその勢いに、舞花は無表情のまま口を噤んだ。

それを見てあからさまにほっと息を吐き出す『神様』の様子は、ずっと表情の変わらない舞花よりもずっと人間臭い。


「天照大御神の間に生まれた子のそのまた間に生まれた子の...ってな具合の、神様新世代ってやつ」

「初めて聞いたわねそんなの」

「そりゃ、今作ったからな」

「...私はまず神様なんて信じるような性質じゃないのだけれど、まぁそこは百歩譲って良いとするわ。でも、神様って死なないんじゃないの?」


大昔の神様は、ずっと変わらずに今も同じように天に君臨しているものではないのか。

(まぁ、神様なんて不確かなもの、金輪際信じるつもりはないけれど。...嫌いすぎて吐き気がするわ)

声に出してはいないはずなのに『神様』は顔を顰めて「へいへい。嫌いですかそうですか」と口を尖らせた。


「天照のばーさん...じゃない、天照大御神は死んじゃいねぇよ。今も20代後半ぐらいの姿でピンピンしてやがる。...でも俺は違うんだ。俺ら『混血』は神様と人の子の血が混ざった存在で、永遠に生きられやしない」

「話の筋は通ってるわね。設定が突飛すぎて少々違和感が残るような気もするけれど...まぁ及第点じゃないの?じゃあ私は帰るから」

「ちょちょちょ、待てって!」


神様らしからぬ慌てっぷりで、木の上で手足をばたつかせる。案の定と言うべきか、黒パーカーを纏ったその体は呆気なく木から落ちていった。


「うぉっふ!?」


背の高い体が空中で滑らかに回転し、擦り切れた革靴で全体重を支えてアスファルトにストンと着地する。

今すぐにでもサーカスに入れそうな身のこなしである。

舞花は胡散臭そうに目を細め、もう一度防犯ブザーを突き出した。


「そんな子供騙しの話、信じられるわけないでしょう?これ以上言ったら本当に鳴らすわよ、コレ」

「だからなぁ...あぁもう!ほんっとに可愛くねぇ奴だなお前!」

「あなたに可愛いなんて言われても微塵も嬉しくないわ。...まぁ、どんな人が口にしようと褒め言葉なんて真実の欠片もないけれど」


冷たく冷めきった、子供らしからぬ大人びた口調。

『神様』は少し眉をひそめて呟く。


「...お前、『綺麗』を認められない体質なのか?」

「......っ」


何の動きもなかった舞花の瞳に、初めて驚きの色が走る。

そんな彼女の様子をちらりと見て、彼は肩を竦めた。


「『心色』を見て随分歪んでそうだとは思ったけど...なるほどな。そういうことか」

「こころ、いろ...って」

「あぁ、あんまり知られちゃいねぇが...俺ら神様に備わってる能力の一種だよ。人間の心の状態を、大まかな色で『視る』ことができる、っつうな」

「私の...『心色』...っていうのも視たって言いたいの?」

「あぁ。あ、別に覗いたわけじゃねーぞ?自然に視えてくるもんだからな」


初対面の、自分を『神様』だとか名乗る変人にそんなことを言われても、何一つ響かない筈なのに。

きっと印象だけで適当なことを言っている、だけの筈なのに。

(久々に感じたわ...『嫌い』以外の気持ちなんて)

掻き乱されるような、引っ掻き回されるような感覚。それが『戸惑い』であることに気づかぬふりをして、舞花は再び踵を返す。


「...話は終わり?もういい加減行くわよ。これ以上付き合ってられないもの」

「まぁまぁそう言うなって!少なからずお前が動揺したことも、『心色』を見てわかってんだぞ?」

「だから、そういう冗談はもういいって言ってるんでしょう?...不快になるの。あなたの話を聞いていると」


舞花は忌まわしげに顔を顰める。

そんな彼女の様子を一瞥して、『神様』は口を開いた。


「じゃあ本題に入る。俺は、お前の厄介事を解決するために来たんだよ」

「...何を、言ってるの」

「んー、まぁ企業秘密っつーの?ちょいちょい混ざるから詳しくは言えないけど...俺ら『混血』は小遣い稼ぎのために神様特有の力を使ってバイトをしてんだ。決められたお代を貰って、依頼人の願いをひとつ叶える。願いの大きさによって貰う金は変わるけどな」


ペラペラと饒舌になって語り始めた『神様』。

舞花は冷めた瞳でゆっくりと瞬きを繰り返した。


「...それで一体、どうしたら私に行き着くのよ」

「依頼人に言われたんだよ。『目いっぱい代金を支払うから、小野田舞花の願いを叶えてやって欲しい』...ってな」


『神様』は明るい茶色の猫っ毛をガシガシとかきながら、ニヤリと口元を歪めて見せた。

(...私の願いを叶えて欲しいと願った誰かがいる...?)


そんな筈、ない。

私は厄介者で、要らない存在。何もかも嫌悪に満ちたこの世界で、幸せなど望めるはずもない。

ふわり、と欠伸をひとつして彼は言った。


「てなわけでな。俺はお前の願いを叶えなきゃいけねーんだ...なんかひとつぐらいあるだろ?お菓子いっぱい食べたいー、とか、豪邸に住みたいー、とか」

「...子供じゃないのよ。そんな願いあるわけないわ」

「いや、お前子供だろどう見ても......」


呆れたように返されつつ、舞花は俯いた。

胡散臭すぎて信じようもない。馬鹿げている、こんなこと。

こんなこと...一番自分の嫌うことの筈なのに、どうして...。


「...なんでも叶える、という言葉に嘘はないの?」

「えっ?...っあぁ」


突然舞花が質問をしたことに面食らったのか、『神様』はビクンと体を揺らして答えた。

舞花は俯かせていた顔をあげ、毅然とした眼差して口を開く。




「母さんに、もう一度会いたい」




舞花が小学校に入る前...とどのつまり5年ほど前のことだ。

その頃から舞花はどこから冷めているような性格で、同年代の子達から距離を置かれていた。

そんな舞香を保育園に迎えに来た母は、いつも頬を膨らませて言うのだった。


『まいちゃん、大人っぽすぎて友達できないもんなぁ...親としては物わかり良くて超助かるんだけど、もうちょい我儘になってもいいんだよ?』


朗らかに笑う母に、舞花は決まってこう答える。


『必要ないわ。だって、私は母さんと父さんと一緒に暮らしていければいい。余計なものはいらない』

『あららー、こりゃ嬉しい事言ってくれるなぁ?でもねぇ舞花。家の中が舞花の世界の全てじゃないんだよ?外にも綺麗なものが沢山転がってる』

『綺麗...』


今ひとつ意味がわからない、と首を傾げる舞花。

母は苦笑してその頭を撫でる。


『んー、まだ難しい?でももうちょっと大人になったらわかるんじゃないかな。大きくなったら教えてあげる』

『ちゃんと、教えてね』

『もちろん!さ、帰ろっか。今日はクリームシチューだよっ!まいちゃん好きでしょ』

『強いていえば』


冷めた少女はしかし、その瞬間少し口元を緩めていた。

綺麗なものはいつか見つけられる。そう、感じたから。





(...見つからないわよ、母さん)

自宅の前で、舞花はそっと目を伏せた。

背後から黒パーカーの『神様』が、「おい、お前の家ってここかー?」と呑気な声をあげる。

舞花は蘇ってくる記憶を振り払うように息を吸い込んでから振り返った。


「えぇ。...でも本当にできるの?」

「できるって言ってるだろ。ちょっとぐらい人を信用しろよ...それに万が一できなかったらお代は依頼人に全額返金だからな。良心的だろ?」

「...それ、普通のことだと思うけれど」


舞花は引き戸にポケットから出した鍵を差し込み、慣れた手つきで右に回した。

カチャリ、と鍵が開く音がして、引き戸が軋みながらもするりと開く。

舞花は小さく首を傾げた。


「玄関で待っていて。言われたものは取ってくるから...絶対入らないで」

「...わぁーってるって...しっかし1ミリも信用してねぇなぁ」


複雑そうな表情でそうボヤく『神様』を玄関先に置き去りにして、舞花は家の中に足を踏み入れた。

ランドセルを下ろし、『例の物』が入っているタンスの2番目の引き出しをあける。

プラスチック製の黄緑色のそれ...シャボン玉を作る時に使う、取っ手のついた輪っか...と古いシャボン液があることを確認し、舞花はそれを手に玄関へと駆け戻った。


「これよ」

「さんきゅ。そうだな、これならいけそうだ。ちょっと待ってろよ?」


彼は長い指をキラキラと光るシャボン液に軽く浸し、瞳を閉じた。

パチパチ、と液面で虹色の泡が小さく光っては弾けていく。

しばらくそんな時間が流れ、段々泡が消えて遂にゼロになった後に『神様』はそっと目を開けた。


「よし、準備完了だ。いつでもいいぞ」

「これ、...吹けばいいの?」

「そ。普通にシャボン玉作ってみ」


正直なところまだ半信半疑だ。

超常現象の類は普通の人以上に信じずむしろ嫌うよう性質の少女に、こんな短い時間で理解しろだなんて無理があるに決まっているじゃないか。

(...やるだけやればいいわよね。まぁ、私に損は無さそうだし)

それに、それに。

もしも、もしもだけど、本当に願いが叶うのであれば...。


舞花は息を大きく吸い込んだ。

そして黄緑色の輪っかにシャボン液をつけ、フゥっと息を吹きかける。

虹色に輝くシャボン玉が大きく膨らんで、夕日に染まる空に浮かぶ。


何も、起こらない。

予想はしていたことだった。非現実なんてありえる筈ないとわかっていた。

だから、元から期待もしていなかったのに。

力が抜けていく。

(何も感じてない。腹立たしいのはいつもの事よ)

でもどうしようもなく辛さがせり上がってきて、やっぱりあのペテン師に嫌味のひとつでも言ってやろうと振り返った。

...そこには。



「大きくなったねぇー、まいちゃん」

「...かあ、さん?」


口からこぼれ落ちた小さな声が掠れる。

...夕焼け空の中、薄手のシャツにジーンズというラフな出で立ちで両手を広げて微笑む彼女は。



.........紛れもなく『もうこの世には居ない筈の』舞花の母親だったのだ。





綺麗なものが何か、大きくなったら教えてあげる。

そんな囁かで優しい約束を母と交わした、丁度その夜の事だった。

真夜中に焦げ臭い匂いを感知した舞花がパチリと目を覚ますと、すぐ横に真っ赤な炎が迫っていた。


『...ッ』


自分が死ぬかもしれない、ということよりも、両親が危ないという恐怖が脳裏を過ぎって。

必死で隣に寝ている母の姿を探す。


『母さん...っ、ゲホ、...っゴホッ』

『舞花!早く、早く逃げなさい!』


やっと見つけた母は見たこともないような形相で、迫り来る炎に照らされていて。

舞花は生まれて初めてかもしれない程感情を露わにして、ボロボロと涙を零して首を振った。


『嫌...嫌、いや』

『もー...いっつも我儘言わないくせにさぁ、こんな時になったら言うんだもん。困ったちゃんだなー』


炎の熱さに顔を歪めながらも、母はふざけた調子でそんなことを口にして。

そして最後は母親らしい優しく穏やかな笑みを綺麗に浮かべて、舞花の体を突き飛ばした。


『ひゃあっ...!』

『舞花。じゃあね』

『待って、まって...ッ!』


泣きながら、何を言ってももう届かない。

『綺麗』だったのは最後の母の笑顔で。

でもそんな形で『綺麗』を知るなんて、残酷すぎて。


(もう何も要らない...何も、欲しくない。全部全部嫌い)




その夜、小野田舞花の心は閉ざされた。

空っぽになった彼女の頭上では、皮肉にも美しい満月が煌々と輝いていた。





なのに今、母はここに居る。

あの日から5年経った今、居る筈が無い彼女が、ハッキリと夕日に輝いている。


「...どうして...どうして、母さんが」

「どうしてって、まいちゃんが願ったからじゃーん。聞いてなかった?『神様』の話。なんでも願い叶えてくれるんだって言ってたでしょ」

「...だってそれは。胡散臭いし...」

「なんでもそういうふうに見るとこ、変わってないなぁ」


母はいつかのように苦笑し、舞花の頭をするすると撫でた。

その仕草にどうしようもない懐かしさを覚えて、涙が滲む。


「...母さん...」

「ごめんね。私もあんな形で舞花と別れるなんて思ってなかったからなぁ...おばあちゃんとは上手くやってる?」

「別に...普通、よ」

「そっか普通かぁ...まぁ普通が一番だね何事も。で?綺麗なものは見つけられた?」


何もかもを見透かしたような透明な瞳でそう問われて、舞花はしゃくり上げながら言った。


「全部全部嫌いよ...嫌いだもの。綺麗だって騒ぐなんて馬鹿らしい。本当に馬鹿げてる。...馬鹿げてるもの」

「あーぁ、やっぱそうなっちゃってたかぁ」


母は舞花の体を優しく抱きしめて、穏やかな声で言葉を続ける。


「そうだね。教えるって言ってたもんね?舞花はもう十分大きくなったから、あの日から言えてない答えをあげる。綺麗なものは何か、教えてあげる」

「ほんとに...?」

「うん。綺麗なものってね、一瞬で出来上がるものじゃないの」


白い手を夕日にかざして。その明るさに目を細めて、朗らかに。


「舞花に『大人になれば』って言ったのは、そういうこと。時間が経っていくにつれて、良いことも悪いことも経験して、色んなものが心に積み重なっていくでしょ?それで段々見えてくる。濁ったものの中にも光はあって、それが繋がって生きてきた証になって、それはその後にもどんどん繋がっていく。時が経つにつれわかっていくものなんだ...ふふ、教えてあげるーなんて言って要領悪いね?つまりさ、何が言いたかったかというと」


母は舞花の体を話して頬を拭い、薄い唇を弧に歪めて囁いた。


「いっぱいいっぱい経験して、大人になって、幸せになって。...本当は私もそれを見届けたかった。でも地上でそれをやるのは無理みたいだから、せめて雲のあいだから必死で見とくね?...舞花」



「最後に良かったって思えるように、今、純粋な気持ちで『綺麗なもの』を探してみて。きっとできるよ」


母の体が淡い光に包まれた。

指先から蛍のようなまあるいぼんやりとした光に変わり、夕闇となった空に溶けていく。

舞花はそれを掴むようにしながら叫んだ。

あの日言えなかった言葉を、叫んだ。


「私...母さんの笑顔、綺麗だって思ってた。大好きだった。昔から綺麗ってどんなことかよくわからなくて、母さんがいなくなってからもっと考えるのが嫌になってたけど...ちゃんと、ちゃんと私、『綺麗』を見つけられてた!これからも...ちゃんと見つけて生きていくから、だから」


ほとんど消えかかっている母の体を空気ごと抱きしめて、冷たい風に囁く。


「安心して。私は大丈夫よ」


母は、微笑んだ。ひどく優しく穏やかに。

舞花も微笑んだ。寂しげに、でも爽やかな表情で。


2人の笑顔は、とてもよく似ていた。




浮かんだままだった大きなシャボン玉がパチン、と弾ける。

その音を合図に、ふわりと空気が緩くなった。


「...願いは叶ったか?」


背後から聞こえてくる低音の声に、舞花は平静を装って答える。


「...あなた、一つ嘘をついたんじゃない?」

「ついてねぇよ、なんだよ?」

「私が...両親を生き返らせてくれ、なんて言ってたらどうするの」


いくら『神様』とは言えど、生命の有無には干渉出来ないのでは無いだろうか。

だったらそのような願いを叶えることは、事実上不可能だ。


「いや、嘘なんかついてねぇぞ」

「...何故」

「だって人間は結局、それを選ばないから」


意外な答えに振り返ると、夕闇の中で茶髪の彼が微笑んでいた。


「そりゃまぁ、生き返らせてくれって頼んでくる人間もいないことは無いぞ。でも...霊を呼び出して話を聞いたら、そしてその霊が天に昇って行くところを見たら、もう誰もそれ以上を望もうとはしないんだ。...不思議なもんだけどな」

「そう、なの」


納得できるようなできないような理屈。でも、不思議と腑に落ちた。

舞花自身も燻り続けていた感覚が静かに治まって、そんな気持ちはもう無くなっているから。


「それで?願いはちゃんと叶ったか」

「えぇ。...ありがとう」


優しい気持ちになって小さく微笑むと、『神様』は一瞬驚いて、そして嬉しそうに「...そうか」と呟いた。

(全く、変な『神様』ね)

見た目も中身も、全く『神様』らしく無い。彼は確かに神様だ。


「そういえば...私の願いを叶えて欲しいって依頼したのって、結局...」

「守秘義務だ、答えらんねーぞ?」

「言うと思ったわ。じゃあ答えられそうな質問を最後にしてもいいかしら。あなたは『名乗る名が無い』と言ったけれど、本当はあるんでしょう?天照大御神、という名前もあるのだから」

「うげ...面倒なとこついてきやがる、この小学生」

「いいから、答えなさいよ」


語気を強めて問いかけると、観念したというようにパーカーに包まれた細い肩を竦めて『神様』はボソリと本名を呟いた。


「...あまかぜきらら」

「......は?」

「だから、希望の希に心に奏でるで『きらら』!」

「ぇ、はぁぁ!?」


舞花は珍しく素っ頓狂な声を上げた。

『神様』もとい天風希心奏は頬を赤らめて怒鳴る。


「ほらそういう反応すんだろ!?だから嫌いなんだよこのキラキラネーム...『神様だ』って言っときゃばらさずに済むと思ったのに...」

「......くくっ...いいじゃない、希心奏...くすっ」

「笑い隠しきれてねぇんだよ!お前、小学生かよ...って、小学生だったな」


笑ったのなんていつぶりだろう。

もしかしたらこんな気持ち...初めてかもしれない。心の奥で柔らかな音が響いて、優しくはじけていく。


(コイツの心色...だいぶ綺麗になったな)

捻くれた小学生に悟られないよう微笑んでから、希心奏はひらりと飛び上がる。


「んじゃーな、小野田舞花」

「願いを叶えてくれてありがとう、希心奏サン」

「あー、もう呼ぶなって!せめてキラとかで良いだろ!?な!」

「...じゃあキラにしといてあげるわ。お金無くなってアパート追い出される、とかやめなさいよ。仮にも神様が見苦しいわ」

「おまっ、なんで俺がボロ安アパートで家賃ギリギリの生活してるって知って...ってどーでもいいわ!じゃあな!」


『神様』の黒いパーカーが、夜の空に翻って溶ける。

舞花はくるり、と家を振り返ってそっと鼻を鳴らした。


(...今夜はクリームシチュー、かしら。良い匂いね)



そんな良い感じのエンドを向かえた、と思っていたのに。

夜、眠ろうとした舞花の部屋の窓が、ドンドンとノックされた。

不思議に思って窓を開けると......。


見覚えのある黒フードの下で明るい茶をした猫っ毛が、風で膨らんでいた。


「...アパート追い出された。家賃滞納で」

「冗談で言ったのに、あれ本当だったの......?」


仮にも神様。その情けない姿に、舞花は愕然とする。

恥を捨てた黒パーカーのキラキラネーム神様は、窓から舞花の部屋へと転がり込んだ。


「すまん舞花!ちょっと世話になるわ!」

「待ちなさいよ、どういうこと!?意味がわからないっ」



どうやら、まだ2人の物語は終わらないらしい...。

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