薔薇香る憂鬱

空知音

第1話


 今日も雨か。

 雨が降ると、薔薇の手入れができないのよね。

 五月の雨はまだ冷たいから、レインコートを着ても作業が辛いの。

 それに、貴方から私の顔が見えない姿で作業するなんて意味ないでしょ。

 

 そういえば、こんな雨の日だったわね。季節もこの頃だった。

 貴方に初めて会ったのは。

 あれは大学に入って間もない頃だったわね。

 教養棟から出た所で私は、雨に降られたのよ。


 次の講義まで時間が無かったので、そのまま雨の中を走っていると、急に雨脚が強くなってきたの。

 帽子をかぶっていたから、髪はまだよかったのだけれど、買ったばかりの白いワンピースがずぶ濡れになっちゃった。

 上からカーディガンを羽織っていたから、下着が透けて見えるなんてことにはならなかった。それでも、せっかくのコーデが台無しになるのが悲しかった。


 そんな時だったわ。

 貴方が傘を差しかけてくれたのは。


「大丈夫ですか?」


 それが初めて聞いた貴方の声だった。

 こうしていても、つい今しがた聞いたみたいにその声を思いだすことができる。

 耳に心地よいテノールで、ちょっとビブラートが掛かっていた。

 あとで、そのビブラートは緊張のせいだと分かったけれど、私にはとても好ましく聞こえたの。


 自分の講義を遅刻してまで、貴方は私を目的の建物までエスコートしてくれた。

 あの時からずっと貴方に夢中なの。

 こうしてそっと貴方に触れていると、傘の中で偶然手が触れあった、あの時の感覚が蘇ってくる。

   

 貴方の手は少し冷たかった。

 自分が濡れるのもお構いなしで、私の方に傘を差しだしていたから。

 私はその冷たさが嫌ではなかったの。

 貴方、私に触れる時、いつも自分の手が冷たいのを気にしていたでしょ。

 

「冷たくないかい?」


 二人きりになると、いつもそう囁いてくれた。

 すぐに全身が燃えるようになるから、気にしなくてもよかったのに。

 火照った身体に触れる冷たい手。

 それを感じると、なおさら自分が熱くなるのを感じたわ。


「君は、薔薇のような香りがするね」


 貴方は、よくそう言っていた。


 私が旧華族の娘だと知って、戸惑ったあなたの顔を今でも覚えてるわ。

 口に出して言わなかったけれど、そのことで貴方はいつも引け目を感じていた。

 自分が小さな八百屋の息子だということにコンプレックスを感じていたのかもしれないわね。


 私には、あなたしかいなかった。

 だから、そんなこと気にする必要なんてなかったのに。


 私の家族は、いい顔をしなかった。

 父様も母様も、お兄様さえ、貴方が家に来ると、身分の違いを思い知らせようとしていたわね。

 幸い、あなたは相手の言葉をそのまま受けとる性格たちだったから、彼らの嫌味は意味を成さない事が多かった。

 それでも、ここを訪れる度に、貴方は少しずつ表情が動かなくなっていった。

 薔薇の棘にひっかかった蜂のように。

   

 そしてあの日が来たのよ。

 両親と兄様は、親戚の結婚式に出かけていた。

 ああ、そうね、思いだしたわ。

 ちょうど、この季節よ。

 だって、庭の薔薇が元気に咲き乱れていたから。

 

「僕は君にふさわしくない」  


 ちょうど雨上がりで、雫を宝石のように身にまとったバラの前で貴方が言ったの。

 小鳥のさえずり、空に掛かる虹、立ちこめる花の香り、それは余りにも非現実的だったわ。


 そのことがあってからしばらく、私は沈みこんで食事も喉を通らなかった。

 薔薇の香りをかぐたびに心が沈むの。それは憂鬱な日々だったわ。


 だけど、なりふり構わない私の行動で、貴方は再び帰って来てくれた。

 手に触れる冷たい感触も昔のまま。


 あら、物思いにふけってしまったわね。

 窓辺でいつも座っている貴方。


 今では、ただの器となった貴方でカフェオレでも飲もうかしら。

 地中に眠る父様や母様、そしてお兄様を糧に育った薔薇を眺めながら。

 

 

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薔薇香る憂鬱 空知音 @tenchan115

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