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 彼、の様子は変わらない。俯いたまま、目をこちらに合わせようとしない。ばつの悪い顔をしたまま、口を結んでいる。それでも手を握りしめ続けているのは、どうにかしてやりたいから、だろうか。

 背丈は、自分と変わらない。ただ自分よりも肉はついた標準体型の、どこにでもいる成人男性に見える。どこにでもいる男性の姿をしているのに、幼い。


 ふと、ジャンヌを思い出した。喋る翠玉石。村娘だとか、ずっとこの姿で詰まらないと言っていたが、彼女と同じような物だろうか。あれから彼女の姿を見ていないが、外に出たい、幼馴染に会いたい等と、しきりに言っていた気がする。

 だが不満を口にはしていても、姉を好いていた他「姉が欲しかったけど、弟役はもういるの」とか口走っていた気がする。彼女も彼女で、我儘と言える挙動は幼く見えていたが……この男も、多少のズレがあるだけで、良心的ではないだろうか。


「俺今までですごく楽しい」


 楽しい、という言葉に呼応したのか、男性がわずかに頷く。人の話を聞く、そしてその意見を聞く時点で、極めて理性的ではあるだろう。


「だからその、よく分からないけど、帰せるなら帰してほしいなって」

「……それは、止めておけ」


 途端に、握られる手からやや力が籠っている。そこに痛みはないのなら、彼は攻撃する意思はないと見ていいのだろうが、問題はここらしい。接点はないが、彼はここから離れることをいたく拒んでいる。

 ただ、彼は悲哀を浮かべることは、自分にとっても理解はしやすい。よく分からない空間に閉じ込められたにせよ、彼は相手にとっての快不快を優先して、ここを作り上げた。その配慮は足らなかったとしても、出自は恐らくまともな方なのだろう。どんな生き方や正体かはさておき。


「どうして、俺はここから出ちゃ駄目なの?」

「彼らを殺した匂いが強い、あの匂いで皆殺された」


 成程、思っていたより壮絶な過去を持っているらしい。


 と、なると、確かに自分をここに入れる理由は説明が付く。彼は、強い匂いを発する何かを敵意と見なしているし、その匂いを纏わない自分を匿おうとしている。

 自分がここの住人でないなら、安住の地であった家を見せよう。同朋意識が強い場合、家や住処は確かに心地が良い存在に成り得る。価値観の違いは著しいが、この男は悪い人間ではない。


 ──皆殺された?


 だが、少し気がかりな点もある。例えば狼に殺されたなら「狼に鋭い爪で殺された」であって、その匂いで何かを殺せる訳ではないのだ。いや、狐に住む寄生虫が病としてではなく、呪いと捉えられて周りを全滅させているのなら……考えられる話ではあるが、なら仇敵はより明確に絞られる。


 ──もしかして


 薬効性として、吸引するだけでも中毒死に至らしめる。確かに梧はその手の薬剤を持っているはずだ。残された遺族として、復讐の感情を得ざるを得ない、が、そもそも彼に心当たりがあったはずなら、彼を先に攻撃したのではないだろうか。多少、ある程度の話は聞けたにせよ、まだ材料は十分じゃない。


「君、どこから来たの?」

「どこかは、もうない」

「どんなところだった?」

「それは一定ではないが、皆、お人好しばかりだった……皆死んでいった。何回も皆死んだ、砂の中水の中、火の中にだってだ。それで生きていた者は誰もいない。だから、渡せない」


 死ぬ人間は逆にそれで死なない者の方が珍しいが、加えて益々内容が難解になっている。ただ、彼の話やその後の挙動は分からなくもない。彼は極めて多くの人間を目の前で殺された過去を持っている。

 その中で殺害方法に阿片があるとしたら、その匂いを強く纏っている梧を強く警戒する。彼がどういった存在か、そんな難しい話はよく分からないが、目の前の態度は取り繕いではないのだろう。


 彼は、本当に自分をどうにかしようとしている。ただ過去の要因から自分をここから出すことを拒むのは、理解できる真っ当な考えではあるのだ。


 ──ただ


 つまり、過去の心因ストレスから極度の精神傷病に掛かっている。この人物に対して、直せ、と言うことは限界があるのだ。子供が、大人用の包丁で指を切ってしまった場合、それ以上にならないようにする。包丁入れに鍵を付けたり、包丁を買いに行くとしても、子供を連れないようにする。

 それがある種の学習であるが、それを通り越して強迫的行動になることは少なくない。むしろ、恐らく戦争やそれに近い経験を得ても、戦争ストレス反応が顕著に顕れていないだけ、救いと言えるべきか。


「……いや」

「ん?」

「帰るな、決して帰るな、駄目だ」


 ただし、それは|捕我≪トリガ≫を弾かなかった場合だろうか。今までにない力で引き戻され、握りしめた手が強く震えている。何かが、何かの行動が彼の琴線に触れてしまったのだろうか。そこには周囲を見渡す双眸はない、黒い底のない瞳が瘴気のそれ。けたたましく動いて、行き場ない。

 客観がない、主観ですらない。忘我。没我。ただ自分は必死に帰らせまいと、痛みを伴わせて奥へと進めようとする。彼の手は、冷たい。よく手から感じてみても、彼には脈拍そのものがない。化物、なのだろうが、指先の凹凸がやけに目立つ。


「なんで、なんで、おかしい、俺のは破られない、違う」


 ふと手元を見る、彼の爪は酷く割れている。折檻した後ではないが、明確な咀嚼痕。明らかに嚙潰した跡が、指をざらつかせて、腕を深く掻かれる。それに問答を聞く余裕もない、といった所だろうか。化物なのに、息継ぎを目一杯繰り返し、歯を鳴らし。行き場のない口元が忙しない。

 奥へ奥へ逃げようとする足は頼りない。ひとたび、足が縺れて、そのまま転げ落ちる。自分は、無事だ。掴まれた腕が離されて、彼一人だけが落ちた。圧迫して白みがかった手の跡だけが、自分の腕に残った。


「逃げろ、逃げてくれ」


 彼は化物……なのだろうか。


 それに、彼は、自分はどうされてきたのだろうか思い返す。自分は、ない腕を振り回してかつて姉に何を言っていただろうか。湿った畳と土埃の香りから、胸を掻き毟られる感情が。

 覚えていない、覚えたくもない言葉ばかりを彼女に吐き散らしたような気がする。何故生んだか。何故生かしたか。何故助けたか。姉は、どうやって自分を宥めさせたか。


 片腕が、また先端のみ動く。思い返すと、直ぐこうなってしまう。姉は、もう片方の腕で自分を抱きしめだが、自分は体がある。そのまま体を寄せ合いながら、彼の背中を片腕で摩った。


「逃げろ」

「君を置いていけないから、君が落ち着いたらね」


 身体を寄せ合えば、化物だ。彼には心臓の鼓動が感じられない。熱も、皮膚から伝う冷ややかさは棺桶にも等しい。息吹も熱はなく、潤みかけた瞳にも体温はなく。ただ人らしくぜえぜえ喘いでいる。脆い何かを、支えるようにして蹲った。


「……僕邪魔かな?」


 後方。梧でも社長でもない、ただ年齢は自分と下かもしれない男性の声がする。化物は、倒れこんだまま振り返ることが出来ない。代わりに振り向けば、見慣れない青年がここに突っ立っていた。夏場であるのに、長袖で……足元から、二本の骨組みが見えた。


「ああ、僕君みたいにないんだよね」


 嵌めていた布手袋を脱げば、その無機質さが鮮明になる。人のように、第二の手足として動いているが、無機物は鈍く光る。

 だがそれは、本人の自慢か、義手を動かせるのが好きなのか、布手袋を手遊びして見せている。無邪気そうな緑の瞳が、どこかジャンヌと似ていた。


「君が銀君だっけ、無事だね?」


 問われ、頷く。やはりあちらの方では不慮の事故として扱われていたのだろうか。


 彼が誰かは見当付かないが、自分の名前を知って無事かと聞いている。梧も根回ししてくれたのだろう。


 頷くと、男は満足げな顔をして、しかし、次に化物方へ歩み寄る。表情は変わらないが、慣れているのだろう。手慣れた笑みを浮かべながらの足取りは、重々しいはずなのに、何故か軽い。


「で、君の話は知ってる。引きこもってないで出てきてくれるかな」


 途端。化物の姿が忽然と消える。摩って、やっと落ち着かせた呼吸が、体を喪って手が空振る。転倒。そこに起き上ってもなお、彼の姿が捉えられない。


「──消えてくれ」


 その、声は後ろ。男性よりも、真後ろの。殺意を以って。


 振り向けば、男性の首に線が、いや、これは大鎌だろうか、持つ手は判然としない。そもそも心配で手を握った時は軽い後で済んだとしたら……男性に向かって、振ろうとするそれは、殺意か。明確に、躊躇いなく刈ろうとする。瞳は、男性を直視したまま。殺意。


「おててつないでほしいのかな?」


 その意思は、我儘として捕らえられたらしい。男性は刃を握り、亀裂を軋ませる。表情は変わらない、まるで慣れた笑顔をしながら。我儘な子に、仕方なく聞く母親の顔をしながら。


 その直後に、鈍い音が響いた。上顎を足で殴打する音。言うまでもなく、碧眼の青年からであった。

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さらば境界線ーShadow And Light Alive― ぽちくら@就活中 @potikura

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