【銀/君が遺棄てなくてよかった】1
それは突然だった。
いつも通り、書院に住まう獣人の検疫チェックと身体検査を済ませた後、梧と昼食の準備をしていた。ここに住んでいる獣人は、人間と遜色ない高い知能を持っているが、それでも多少元来の動物由来かそれなりに食べている。
ただここに来る人は物が食べられさえすれば問題ないからと適当に獣人と具材を切っていた。隻腕ではあるが、ミキサーは使える。住人の中にも砂嚢が本来より退化していた鳥人がいる。鳥類には歯がなく彼らもその影響があるが、こうしてミキサーで細かく砕いたものを口にすることで事なきを得ている。
喋る内容は何となく理解出来るらしいが、日本語を会得するのは難しいか、教えることはまず動きで覚えさせること。野菜を食らうのは全て丸ごと一齧りだった彼に、まずはその所作を教える。気になった言葉があれば、休憩所から獣人のテントまで出張した。そうして、昼の時間帯は日本語教室の講師かアシスタントになり、夕刻には体調検査のチェックに勤しむ。書院の住人の自律性を重んじているらしく、そこまで大勢の世話をする機会は少ないが、ほぼ海外の異文化に変わりない。
風呂は川の沐浴が当たり前、下着の臀部には穴をあけなければならない住民が数多いのがここなのだ。その人物らに、ここの教育とそして出先の価値観や元々の価値観を両立させる。それがここの仕事だ。
今日も、変わりない一日を送っていた。ただ梧と夏場考えなくていいからカレーにするの楽だよね、等と笑いあう。終わったら終わったで、獣人の男性から、ギンセンセイと呼ばれて彼のいるテントに邪魔しようとしていた。彼は、書院の中では一回り体が小さいが、働き手の中で賢い。この前、彼は派遣先にてカンスウとやらを尾の振り早く語っていた。ともかく、日本語でも自分を超えてしまいそうな、それぐらいが少しの気になることのみだった。
先日ここに初めて来てから、一族以外の人間と話をするようになったが問題はない。コミュニケーション能力に支障がないのは、姉が近くにいたからと、近くにいた喋る花のおかげだろうか。あの花は、姉が亡くなってから同時に消えてしまったが……幼馴染に会いたいとずっと言っていた。ジャンヌなら、多分一人で探しているだろう。
ここに来てから、何一つ不自由がない。
忙しさはあるが、平穏な日々であったが──ただ一つ、変わっていた事と言えば、その獣人のテントに向かう直前で、目の前の視界が暗くなった。それくらいだろうか。
「……」
手、足を動かす。問題はない、加えて周りの障害物はないらしい。
では遮蔽物は、遮光物は……それもないらしい。
重力、それはある。足は下、頭は上に。自分は、今ここで歩いているか、立っている。暗闇の中を。見渡せば、自分の体が見える、盲目の類はないらしい。
では夢か……腕を触ってみるが、あの断面の凹凸が目立つだけ。盲目。自分の姿が見える限りその線は薄いようだが、視界全てが真っ暗になるのは、異常な他ないだろう。
足、その感覚を頼りに、現在地を起点に真左に歩く。書院は、言うなればキャンプ場を一括で土地にしている。
足場が岩も少なくないのだから、必ずどこかに当たるはずだが、百歩目で止めた。変哲もない闇。なだらかな闇が眼前に広がっている。
──死んだのかな
思えば、確かに寿命が縮まる事ばかりしていた。阿片の吸引を初め、座敷牢は書院と比べて衛生環境は頗る悪い。少し顔を出すかと思いきや、部屋には出さずやれ自分の信望が足りないと強要する。
あの家から出た時は腕を叩き切ったのだから、それは無理もないだろう。梧に土産話に少し話したが、非常に浮かない顔をされたので二度と話さないようにしている。とはいえ、死因の原因に心当たりがありすぎる。あの叔父は、顔面を叩き割られながら呪い殺す、と言っていただろうか。なるほど、それも一理ある。
「……」
闇が、晴らむ。
それは原型を以って、輪郭を帯びながら、決して自分の安寧を描かないように。日差しがかかった、かつての自宅が自分の目の前にある。自分がここに来たことは極めて稀な、恵まれていた場所。望まれる人間が住まう場所。そこに家族はいないが、母がいた場所。
──悪趣味だ
悪趣味だが、自分に白い眼を向ける人物はいない。それどころか、人っ子一人いない、大広間ばかりがだだっ広く広がっていた。
これほど、広かっただろうか。いや、これは心象だろう。あの時、あの男が北条の代を務めると言った日、広間が恐ろしく広く歪んで見えてしまった。広く、外には届かず、どこにも変えられないように。そればかりが、自分の眼前にある。真新しい、自分には不釣り合いの青い畳の目をつぶし、いなし。
斧はないだろうかと見渡すが、それらしいものはない。凶器全般、明確に武器に慣れそうなものはない……なら、ポケットにあるボールペンくらいだろうか。
威力はないが、当たり所さえ悪ければ、脳への刺突も叶う。足も手も自由なら、片腕がないくらい些細なことでしかない。
「……本当、死んでも迷惑だね」
「迷惑?これがお前にとっての家じゃないのか?」
声。反響はするが、その源は自分の直ぐ真正面に。先ほどまで視界を捉えたはずなのに、目を離した隙に姿を現したのだろうか。
それが、青年が自分の真正面に立つ。灰色、役目を果たした薪の色素を持つ髪と、まだ使いまわされるであろう黒炭の瞳。黒い、粘質を帯びて光を帳へ覆うそれが、自分の方へ向く。自分を見ているのだろうか。
時代錯誤の長い外衣を纏っているのも含めて、自分に焦点が合っているのか疑わしい。
「お前から、家の様子が出てきた、家は、ヒトの安らぎだろう」
それは、普通の人間だったらそうだろう。普通の人間だったなら、自分が明確な力を持ち、魔法使いとして当たり前のことが出来る人間だったら、安らげる資格があったのだろう。そう、この家にも、適切な魔法使いとやらがいれば、それにとっては心地いい場所には変わりない。自分だけが、ここを安らぎではなかっただけなのだ。
ふと思い当たる人物が浮かんだ。目の前で腕を叩き切った男の……その側近にいた男だ。一度だけ、彼は出会った場所とは変わって芥子の花畑を自分に見せていた。ありもしない、無理やりにでも神経を侵す幻覚。人を食ったような物言いと性格。それと極めて似ているが……どこか別人にも見える。
「家には良い思い出がないんだ」
「どうして?お前はヒトだろう?」
「喜ばなかったら、ヒトじゃないのかな、俺死んでるからそうかもね」
「……違う、お前は死んでいない」
明確に、それは狼狽える。それまで乏しい動きをしていた眼球が、見開いて、縮小して。そこには行き場がない。やり場がないまま、口元を触るような仕草をする。よく、姉がしていた仕草だ。何かを遣ろうとしていた時、その行き場がないと、手は作業の代わりに口へ這う。恐らくそれだろうが……彼の様子を見るからに、強い不安がある。あの金髪の男とは違って、言われると思わなかった言葉を言われて、焦っているのだろうか。
しばし、数秒時間が経って、それは思いついたかのように目を大きく開いた。
「……飯もやろう、腹が減ったか、この茶碗が良いか?」
──その茶碗。数十年も長く長く使われたモノと見覚えのあるそれを、彼の手のひらから叩きつけた。菊。自分の家紋だったそれが、床の上で砕かれて、転がってしまう。その様を見て、心なしか気が晴れてしまう、そんな自分も嫌になる。かけた模様の部分も、直視を躊躇ってしまう。それはかの人の命日に必ず咲く花、忌まわしく、それが端にまで転がっていく様を見送らず、彼の顔を見た。
「ごめん、やめてほしい」
「……」
一瞬だが、暗く沈んでいた。罪悪感が刺すこの表情を悲しみと言うべきだろうか。何も言わず、しかし払いのけた腕を掴んだ。それも、あの男共よりは強くはない。訴えるのではなく、言い聞かせる引手だ。
「その腕は、不慮だろう?命からがら逃げ出して得られたものだろう?」
「……」
「茶碗はまた創ればいい、だがお前の傷は治らない。お前を傷つけないなら何をすればいい?」
彼の正体は分からない。
というより、自分の叔父も、周囲の人間も、獣人もどうしてかは分からない。そういうものとして、そこで完結している。そしてその浅はかな経験の中でも、彼は叔父と同じような能力を持っているか、それ以上か。分かるのはそのくらいだろう。
彼は、言っていることとやっていることが矛盾している。自分を傷つけたくないと言っている傍から、この情景を映し出し、茶碗さえ出している。自分がそれを思い出すのも憚られるそれを。
まるで自分の脳内を盗み見て、ここの景色を作っている……いや、比喩ではないかもしれない。本当にその手法でやっていたのだろう、自分がそこでどんな仕打ちを受けたかしらずに。
──それしか出来なかったか
そう、なのだろう。この男は、このくらいしか出来ない。やることは大仰であっても、その背景を読み取ることは出来ないでいるのかもしれない。それでも、自分なりに励まそうとしている、そうであるなら、この狼狽えようも、言い聞かせようも納得がいく。自分に出来ないことを、他人の理解だと合点が行くのであれば、叔父と比べて随分良心はあるだろう。
「……何も、しなくていい」
だから、適切に伝えるべきではある。あの家には戻らない事、あの家の名前を捨てて、母が残した名前で生きること。握っている手に力はなくなっているが、まだ振り払わないで良いだろう。手が冷ややかで、何も体温がない彼でも、自分の言葉を聞いている。
「君が思うより結構、酷いことはされたけど……でも今は、俺らしく生きれる所なんだ」
彼が、頷きを見せる。だんまりとしているが、存外話を聞くことが出来るのだろう。自分の思いにそぐわない言動をしたから望みを言え、ではなく、それ以外も傾聴している気がする。
少し頷いたせいか、ローブのマフラーの部分が、ぽとりと下がってしまう。それを拾い上げたかったが、忘れていた。自分にはもう片腕はない。その切れ端だけが、彼に触れることはなかった。
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