薔薇香る憂鬱

ゆあん

儀式

 眼前に広がる都会の夜景に、華やかな店内の様子が映り込んでいる。下方を見れば街のネオンが、上方を見ればわずかばかりの星空が広がっているはずだったが、いずれも映り込んだ絢爛豪華なシャンデリアの明かりで判然とせず、そんな遠近入り乱れた煌めきは焦点を合わせることすら叶わない。ただ漫然とそれを網膜に移しながら、その光景を美しいと思うだけの感覚は覚醒させながらも、名前も知らないワインを口に運んだ。


 この夜景にしろ店にしろ、別段目新しい所は発見出来なかった。こうして通うのももう十数年になる。その間に町並みにしたって内装にしたってそこで働く人にしたって、変わって行ってはいるのだろうと思うのだが、毎回同じ心情でそこへ座す私には違いなど分からないのだった。高級で評判な料理の味が分からないのも同じだった。


 ふと腕時計を見た。時刻は間もなく二十時を迎えようという所だった。自動巻き式の流れるように動く秒針が私の焦点をさらって行く。そう言えばこの時計だけは昨年までと違うのだった。今の嫁が私の昇進祝いに贈ってくれたものだ。本当はこういう場に持ち込むことは憚れるのだろうが、何かを変えたくて、そのお守り替わりに持ち込んだのだった。


 品の良いウェイターがおかわりを薦めてきたので、「同じものを」と告げた。程なくして戻ったウェイターの片手からそれがグラスに注がれ、頭を下げ去っていく。一体この一杯でどれほどの価値があるというのだろうか。無意味に、等価で買えるもの達を頭の中で数え始めた頃だった。


「おまたせ、待った?」


 懐かしく、しかし聞き慣れた声がした。顔をあげると綺麗にめかし込んだ玲香れいかが、ウェイターに引かれた椅子に腰掛けているところだった。艷やかな黒髪が鎖骨を撫で下ろし、ベージュのワンピースに添えられた。


「いや、待ってないよ」


 彼女は良かったと言ってにこっと笑い、ドリンクメニューに目を通すと手際よくオーダーする。私はその影で手元の時計に目を落とし、分針が十二よりわずかに左にあることを確認して息を吸った。このやり取りも、こうして彼女が待ち合わせ時間ギリギリに来る所も、昔から変わっていなかった。それが彼女なりの気遣いなのだという事は当時は知らなかったことだった。


「時計、新しくしたの?」


 好奇心ともいたずら心とも取れる彼女の目が私と時計を交互に見た。私の胸の中でくすぶっている何かが、チクリと痛んだ。


「最近ね。気に入ってるんだ」

「ひょっとして奥さんから?」

「んー、まぁ、そんなとこ」

「そっか。いいじゃない、センスいいね」

「ありがとう」


 ワンレンの髪を耳に掛けながら彼女が半眼する。こういう時、その本心が分からないのはいつになっても変わらないのだなと思った。


「それじゃあ、今年も」


 運ばれてきたシャンパングラスを掲げて、私達は乾杯した。一杯目を口に軽く含んだら、二人で夜景を眺める。そしてそのまましばらく無言のまま、それぞれの想いを噛みしめる。これが私達のこの場所で最初に行う儀式だった。


「もう十二年も前か。過ぎてみると時間と言うのはあっという間ね。来年は中学生になっちゃうんだから」


 彼女は頬に手を添えて夜景を眺めている。その目に映る夜景は、彼女のように美しいのだろうか。


「そっか。もうそんなになるのか。その分、二人も老けたってことだな」

「嫌ね、年齢の話なんて」

「年齢の話をしてたじゃないか」

「成長と老いは別よ」

「そういうもんか」

「そういうもんよ。相変わらず、張り合いがあっていいわ」


 自称するように笑う彼女はシャンパンを飲み干した。その薬指で白銀の指輪が光り輝く。ずっと失われていないその輝きが、相変わらずこの場所に不釣合いだった。


「君も、変わらないよ。相変わらず、綺麗だ」

「ありがとう」


 彼女のその笑顔に憂いが陰るのはいつの頃からだっただろうか。


 私と彼女は激しい恋に落ちた。不倫だった。

 お互いに結婚が早かったのがその一線を越える原動力になったのかも知れない。子供が居なかったのもその一因だろう。とにかく私と彼女は出会い、恋に落ち、そして燃え上がったのだ。それは理性という枷が機能しなくなるほどに、本能的に、動物的に、感情的に、あるがままに深く深く求めあった。私達は幸せだった。背徳感などという陳皮な価値観では表現しきれないほど全身を巡る充実感がそうさせていた。


 しかしそれは長続きしなかった。彼女の妊娠という現実が突如牙を剥いたのだ。信じていた絆はあっさりと引き裂かれ、堕胎という事実と共に闇に葬られた。


 これは二人が行う、弔いの儀式なのだ。

 あの日暗闇に突き落とした我が子の命と、二度と取り戻す事の無い恋慕の感情の。

 その命日にこうして会う。そんな事を続けて十二年になるのだ。


「今思えば、名前をつけてあげればよかったなって」


 ふいに彼女がそう言った。


「名前?」

「あの子のよ。いつまでもあの日のあの子じゃ、呼びづらいし、可哀想だわ。生きていたらもう十二歳なのよ。そんな不憫なことってある?」


 堕胎は文字通り闇に葬られた。私の妻はもちろん、彼女の夫も知らないことだった。この事実は私達以外に知っている人間はいない。だからこうして私達が闇へと手を伸ばす時以外は誰もあの子の事を呼んだりはしない。


「必要無いんじゃないか。俺たちだってこうして会っている時にか口にしないんだ。呼ばれない名前なら意味が無い。それに男の子か女の子かも分からない」

「ならどっちでも通用する名前にすればいいんじゃない。それに、少なくとも私達が呼ぶわ。こうしてね」


 玲香には子供がいなかった。中々妊娠しない妻を夫は案じていたが、年齢を考えて断念し、今は二匹の猫と暮らしていると言う。あの日以来、彼女は妊娠し辛い体質になってしまったのかも知れないと私は思っている。もちろんそれを口にしたりはしないが、彼女にとって、あの子は最初で最後の子供だったのだ。


「それじゃあ、来年までの宿題。良い名前を考えてきて、ここで発表しあうの。良い名前を付けたほうがその日の食事代を持つ。どう? 多少は張り合いが出るでしょ。私はもちろん本気で考えてくるから、そのつもりで」


 おかわりをウェイターに促し、シャンパンがグラスに注がれていく。うっすら染まった玲香の頬と同じ色。確かこんな色のものをロゼと言うのだったと思い出す。少女のように無垢にはにかむ笑顔が眩しく、今の私には直視出来なかった。


「もし、あの子が生きていたら。今の俺たちを見て、どう思うんだろうな」


 そんなことを口にするなんてろくでもない事を、私は認識していた。それでも言わずにはいられなかった。あの日以来、ずっと考えていたことだった。何故全てを投げ出し受け入れることを選択しなかったのだろうか。強く賢く美しい彼女の子供が、幸せになれないなんてことは無かっただろうにと。それがどんなにも醜い心の持ち主と共にあっても、私という半人前と共に歩む道であっても。私はあの日、彼女の強さと優しさに甘えたのだ。


「もし何々だったら。たらればにロマンを感じる歳じゃ無いでしょう、私達」


 私が落とし込んだ視線に入り込もうと、彼女の手が私の左手に添えられた。細くしかし僅かにやつれた手が、新しい時計を覆い隠していた。


「そうだったな。ところで年齢の話はしないんじゃなかったっけ」


 どちらが主導だったのかは分からない。気がつけばその指先が絡み合って、強く握られていた。その感触が私の胸に突き刺さった何かをいたずらに刺激して、チクリと痛んだ。


 眼前には綺羅びやかな夜景が広がっていた。

 間違いなくそれは美しかった。

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