第2話東原亜紀、母親について苦悩する。
失ってその大切さに気づくというのはよくあることだ。例えばペットボトルのキャップ。ちゃんとあるときはそんなに気にもならないが、実際無くなってみると結構不便だ。そう言ったものは他にもある。ブックカバーのしおり、昔よく通っていた駄菓子屋さん、小学校の時の通学路、知らない間に引っ越していた友達の家、学生時代、そして…
家族もそうだ。
人は気づかぬ間に大切だったものを失い、その大切さを思い知る。なぜもっと大事にしなかったのだろうと悔やむ。しかし悔やんでも仕方がない。なぜなら、人は失って初めてその大切さに気付くのだから。
自分の弁当を作り、弁当箱に詰め込んでいく。今日の亜紀の昼食はピーマンの肉詰めメインで、それにポテトサラダ、タコさんウインナーを付け加えたものだ。できたばかりのピーマンの肉詰めからは、肉汁が滴り、ケチャップと肉のにおいで今すぐかぶりついてしまいそうになる。お昼時がもう楽しみだ。弁当は、小学校に通っていた時から自分で作っている。亜紀は早くに親を亡くし、頼れる親戚もいなかったため、自分で作るしかなかったのだ。不幸中の幸いは、親が万が一の時のためにと言ってかなりの額を貯金していたため、亜紀の生活は成り立っているということだ。おかげで生活費のためにバイトに明け暮れる必要もなく、亜紀は勉学に勤しむことができている。
「意外としっかりしてるのねぇ…。」
「まだ帰ってなかったのか…。」
亜紀の学校へ行く支度をしている姿を見て、佐倉母は感心した口調で亜紀を褒めたが、今は午前七時、この時間に家にいるのは迷惑というものだ。
「帰ったわよ。で、心配だったからまた来たの。」
幽霊は眠らなくても平気だが、人間は違う。亜紀は大きくため息をついた。
「退屈だったから来たの間違いだろ。」
「あ、ばれちゃった?だって寝なくていいから暇なんだもん。死んでるから話し相手があなたしかいないし。」
「他の幽霊がいるだろ。わざわざ人間の俺のとこ来なくても。」
亜紀の言う通り、幽霊は基本人間とは会話できないが、幽霊同士なら可能だ。しかし…
「嫌よ、だって他の幽霊みんな怖いんだもん。」
成仏した幽霊は、だいたいみんな向こう側に行ったきり帰ってこない。成仏すればどちらの側にも行き来可能なのだが、こちら側に来てもやることがないのだ。そのため自動的に、こちら側には成仏していない幽霊だけが残る。そういう幽霊たちのなかで、佐倉母のような明るい幽霊は本当に珍しい。成仏できない幽霊はほとんどが落ち込んでおり、暗い雰囲気をまとっている。佐倉母が怖がるのも無理はない。
「まあ、そうだよな…。あいつらはみんな生に未練がある者たちだ。あんたが怖がる気持ちもわからなくはないよ。あんたみたいに明るいのはほんとに珍しい。まあたまに、俺に成仏の助けを依頼してくるくらいは希望を持ったやつもいるけどな。」
亜紀は、遠い過去を思い出すかのような目をしてそう言った。
「成仏かぁ、考えたことなかったな。私もあなたが私の依頼を解決してくれたら、向こう側に行っちゃうのかなぁ。」
「まあ、そうなるだろうな。こちら側との行き来は可能だが、普通はこっちには帰ってこない。あんたもきっとそうなるさ。」
「そういうものかなあ。」
「そういうものだ。」
亜紀はそう言って、佐倉母のほうを見、衝撃の事実を知った。
時計 八時十分
「遅刻だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
佐倉母との会話に一生懸命になりすぎて時間のことをすっかり忘れていた。学校の開始時間は八時二十分、学校までは普段に二十分かけて自転車で学校に行く。亜紀の家は、学校から少し遠いのだ。亜紀は一瞬でアパートから出て、自転車に乗り、全力でこいで学校へと向かった。途中、佐倉母が全力猛スピードの亜紀の自転車に浮きながら追いついてきて「がんばれー」とか言ってきたが無視した。
「はぁ…、はぁ…。」
本気のサイクリングにより、亜紀はぎりぎり遅刻せずに済んだ。激しく息切れをしていると、ただでさえ亜紀を気味悪がっているクラスメイトが、さらに異質なものを見るような目でこちらを見ていた。
(明日からは幽霊との会話に熱を入れすぎずにこまめに時計を見るようにしよう…。)
亜紀はそう決意し、教室後方に目をやった。佐倉母がこっちを向いて手を振ってきた。授業参観のつもりだろうか。教室の後ろの方、授業参観の時に保護者が立つ場所あたりに佐倉母は立っていた。見ると、沙羅のほうと亜紀のほうの両方に目が行ったり来たりしている。
(俺のほうは見ずに娘のほうだけ見とけばいいのに。昨日学校の話したのがまずかったか…。)
なにしろこっちまで心配そうに見てくるのだ。どうやら、昨晩亜紀の人間関係を知ったことで、亜紀を心配しているようだった。亜紀としては人間関係など知ったことではなかったが、こうも心配されるとなんだか変な気分になる。たまらず、亜紀は佐倉母に目配せして人気のない場所に呼び出した。
「そんな心配そうに俺を見るなよ…。」
「だって…、昨日あんな話聞いたらやっぱり不安にもなるわよ…。」
「俺のことはいいから自分のことを心配しろよ。あんたのほうが辛いだろ。」
「それでも!自分の娘が一番心配だとしても…、やっぱりあんたのことも心配くらいするわよ…。」
佐倉母は、悔しそうな表情で亜紀にそう言った。それは、この幽霊が人の母親であるということを亜紀に思い出させ、同時に自分の母親のことを想わせるほどの、母親らしい表情だった。
(ああ、この幽霊は幽霊である前に良い人間なんだ。自分とは関係の無い他人の心配をするほどに。)
自分が大変な時に、他人の心配をできる人間と言うのはそうはいない。結局は皆自分が大事で、他人のことは自分の二の次にする。人助けもたいていは自分に利とする時のみという場合も多い。しかし佐倉母は、本当に自分にとってさほど影響のない男子高校生の人間関係を心から心配している。それは決して普通ではなく、だからこそ亜紀は、やっとこの幽霊に、この人間に、心を許した。
「うん、ありがとう…。あんたの心配は素直に嬉しいよ。こういう風に誰かに気にかけられたのは久しぶりでちょっと戸惑ってしまっただけだ。でも、あんたにはあんたの心配をしてほしい…。俺はまだ生きてるし、どうにでもできるけど…、あんたはもう死んでいる…。それはどうしようもなく、どうしようもないんだ…。」
「人の死ってのは仕方のないものよ。生物はみんな死んじゃうんだし、形あるものはいつか滅びるもの。でも私はもう死んだらどうなるかを知った。幽霊になってその続きがあるってことを知れた。だから死を恐れる必要がなくなった分幸せだと思うの。」
「あんたはそうやって考えることができるのか…。まあ、あんたの心配は本当に嬉しい。でも、今は俺のことよりあんたの依頼のほうが大事だ。そっちの心配を優先してくれ。」
「私にとってはどっちも大事よ。あなたも私にとって無関係じゃなくなったしね。まあそれでも私の依頼を考えてくれてありがとう。確かに中途半端はだめよね。今は私のことに専念することにするわ。」
「ああ、そうしてくれると俺も嬉しい。じゃあそろそろ授業が始まる。さっきみたく遅刻しそうにならないようにもう行くよ。」
亜紀はそう言って、佐倉母との会話を終わり、教室へと戻った。
佐倉母はもちろんついてきた。
東原亜紀、死について苦悩する。 雪霧 @yukikiri3880
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