異世界で幸せになるために

@HUYUHOTARUwomiyou

第1話

 グラングラヴィエール王国の東端に位置するセアソン地方の大樹林地帯。


 その巨大な針葉樹の密集地の奥地にあるログハウスのベッドで、なんとも言えない不快感に襲われて少年は目を覚ました。


「うわ…」


 少年—ノアは意識がはっきりとするに連れて、妙な肌寒さを感じ始めた。

 壁に掛かった時計の時刻を見ると、まだ朝の4時だ。真夏日のこんな時間に目覚める原因は何だろうと考えて、すぐに体でわかる。汗が、シャツを異様なまでに濡らしていたのだ。


(何でこんな…悪い夢でも見たのかなぁ)


 というより、問題は洗濯と着替えだ。夜中に川に行って落ちて死ぬなんて洒落しゃれにならないし、寝巻きの替えは外で干している。

 上半身裸で寝たらいいのかもしれないが、そもそもベッドもびしょ濡れだ。夏風邪をひいたら世話をしてくれる人がいない以上、それは避けるべきだろう。


 念のために干しているシャツを触ってみたが、脇の部分がまだ濡れていた。乾季のおかげで乾きはいいはずなのに、肝心なところで乾いてない。…あれ?梅雨つゆは…いや、今は乾季…


 浮かんだ疑問が何かに結びつこうとしたところで、ノアは思考を止めた。寝起きで混乱しているのだろう、と、そう判断したのだ。


 もう2時間も待てば水気もなくなるのだろうが、さすがにそんなに長く裸でいるわけにもいかない。

 仕方なくノアは普段着に着替えた。いつもならまだ寝てる時間だが、すっかり目が覚めて二度寝をする気が起きなかった。


 暑さから逃れるように、冷たさのある壁に寄りかかる。

 窓から太陽の光が差していないところを見るに、まだ日の出の時刻ではないらしい。


(そりゃそうか。福岡って夏は5時半以降だし、あと1時間以上ある)


 …いや、確かセアソン地方だから…あれ?


 先程から感じる違和感に、寝ている間にかいた汗とは別の冷や汗が垂れる。頭から血が引いていって、夏の暑さとは反対の寒気を感じた。


「いや、そう、僕は…僕は……」


 ノア。平民故に苗字は持たない。ただのノア。


 そうである。そうであるはずなのに、そこには別の記憶があった。


「あ…れ…?えっと、僕は……黒瀬くろせ 直央なお、だ」


 違う。ノアだ。あれ?いや、違う。ノア…いや、直央で…


 少年であるノアはグラングラヴィエール王国のセアソン地方の樹海から生まれてこのかた、このログハウスと最も近い小さな町にしか行ったことがない。捨て子として捨てられたのを子を持たない夫婦に拾われて、育ての両親が亡くなってからは1人でここで過ごした日々の記憶がある。

 それなのに、直央はもっと別の場所を知っている。大きな鉄の塊かたまりが建ち並ぶあの街を、自分の理解できない技術で動く世界を、鮮明に覚えていた。

 そして、自分の死も。


 混乱をときほぐすように飲用のぬるい水を飲みながら、椅子に座った。

 こんなに意識がはっきりとしているのだから、夢ということはないだろう。これは現実だ。


 自分はノアで、直央だ。少なくともこの体はノアであり、その記憶もしっかりとある。現にノアは来年で13歳であり、この体はそれに相応しい発展途上の体つきをしていた。

 一方で直央は24歳で人生を終えており、最後の記憶では今の体よりももっとしっかりとしていたはずだ。手も足も指もこんなに細くなかった。


 直央の記憶にはない、しかしノアの記憶にはある、天井についた光の魔石でできたランプをつけると、寝室の大きな鏡に自分の姿が写った。


 全体的に、整っている方だろう。勉強一筋で黒縁メガネだった直央とは違ってかなり整った顔立ちで、12歳としてはかなり高めの身長だ。目測だが、160センチ近くあるように見えた。

 細い脚が長く、反対に胴は短い。男は後で胴が伸びるというが、この様子だと胴長になることはないだろう。

 そして何よりの違和感は髪と瞳だ。ノアの髪は染めたことがないのにほとんど白に近い銀色で、瞳はわかりずらいが蒼色だ。


(異世界転生、みたいなやつだっけ)


 あまり詳しくはないが、そのようなジャンルの本があった気がする。実際に読んだこともあるし、充分に面白かったのだが、それが現実になるとは欠片も思っていなかった。


 小説の世界に入ったような気分になって興奮するノアだが、同時に冷めた部分も持っていた。

 ノアが住むのは世界でも技術や経済などでトップをいく大国だが、それも中心部だけの話だ。ノアが住むような辺境の大森林の奥地の文化など、数世代前のものでしかない。

 いわゆる田舎いなかであり、そもそも他人との接触など年に数度町に買い出しに行くときぐらいでしか起きない。そのような場所で生を受けたところで、嬉しさに舞い上がることもできなかった。


 かといってノアが派手な活躍かつやくをして皆の注目を浴びたいかと問われれば、NOという答えになる。

 コミュニケーション能力にはある程度自信があるノアだが、目立ちたがり屋ではない。むしろ学校で友達と話すより、家で趣味の読書かゲームをしている方が楽しいと思うほどだ。

 だが、この家にはゲームはもちろん本もほとんどない。いや、正確には本はあるのだが、魔法関係の教科書のようなものしかないのでノアは別に読もうとは思わなかったのだ。


 退屈で退廃的な、ただ生きるだけの生活。ついさっきまでは何も思わなかったのに、今日も退屈な時間を過ごすと考えると憂鬱ゆううつな気分になってきた。


(まぁ…することといったら魔法の練習ぐらいしかないしなぁ)


 ノアが転生した世界には魔法があり、自分が産まれながらに持っている“クラス”に応じて魔法が使えたり使えなかったりする。ノアは【時空間魔術師】のクラスを持っていて、時間と空間を操る魔法が使えた。

 時間と空間を操るとは言っても派手な大規模魔法などはほとんどなく、ただでさえ少ない【時空間魔術師】に時間の遡行そこうなど大それた魔法を使える人などいない。

 それはノアも例外ではなく、時間の進みを少しゆっくりにするのが限界だ。


 魔術師の戦いにおける存在意義は兵士を大規模魔術の遠距離攻撃で兵士が普通に倒すよりも多くの人数に攻撃をすることにある。攻撃手段が『空間斬スペース・セパレート』という多人数を一気に攻撃できない魔法ぐらいしかない以上、【時空間魔術師】に繁栄はないのだ。


 いや、そもそも【時空間魔術師】は人数が少ないから、どうしても魔法の数が少なくなって———


 コンコン


 ノアが自分のクラスの不遇に軽く怒っていると、早朝のログハウスに来客を告げるノックが鳴った。

 時計を見るとまだ5時前であり、とても人の家を訪ねるような時間ではない。というより、樹海の奥地のこの家を家族以外がノックしたのは、ノアが知る限り初めてのことである。


 山賊がこんな家を襲うとは思えないが、可能性としてはなくはない。

 警戒心を持ちながらノアが待機を続けていると、数秒して高いソプラノの少女の声がした。


「夜分遅くに申し訳ありませんが、誰かいらっしゃいませんか?」


 無感情で事務的とも言える声だが、怯えや恐怖は含まれていない。山賊などに脅されて言わされているという線も消えた。単に森で迷っただけなのだろうか。

 階段を降りて扉の前に立って、ノアはノアが使える数少ない魔法を発動させた。


 時空間魔術、『空間追跡スペース・チェイサー』。自分を中央にして最大で700メートルの距離までに存在する物体を感知する補助系魔法だ。

 より上位の魔法である『次元探索ディメンション・シーカー』とは違って劣っている——魔力を感知できなかったり、情報量が少なかったり、高度の隠蔽スキルを見破れなかったりする——が、日常生活で警戒する程度のときに使っている。『次元探索ディメンション・シーカー』よりも消費魔力量が低いので、使いやすかったりするのだ。


『空間追跡スペース・チェイサー』を発動させると同時に近辺の情報が圧倒的濃度でノアの脳内に入り込んでくる。それを『思考演算加速オペレーション・アクセラレート』で対処しながら、目の前にいるはずの少女を調べる。

 身長は160センチと女子にしては高めの身長で、剣や槍はおろかナイフのような武器も持っていない。

 着ているのはドレスだが、構造が異様だ。布と布の間に金属板が入れられており、その他にもいくつか魔法道具がつけられている。まるで鎧のような装備だが、当然のように外見には現れない。


 意味がわからなかった。なぜ、こんな訳のわからない格好をした少女がこんなところにいるのか。そんなドレスアーマーを着ているのに、なぜ武器を持たないのか。


 扉の前でノアが悩んでいると、少女が独り言を呟いた。


「いらっしゃらないのでしょうか…最悪、扉を壊してでも入らないと…」


 それは困る。


 数秒悩んだノアだが、『空間追跡スペース・チェイサー』で少女が家の外に置いていた斧おのを持ち始めた時点で決心がつき、しかたなく返事をした。


「この家の者ですが、どちら様でしょうか?」

「ああ、いらっしゃったのですね。私は…すみません、事情があって自分の身分を語ることはできないのですが、ユーフィリアといいます。この森で迷ったのですが、一晩泊めていただけないでしょうか」


 恐ろしくなるほど平坦な声。機械的と言っても過言ではないだろう。イントネーションがおかしいわけではないが、あまりの感情のなさが人間らしさを見せなかった。


 返事をした以上、顔も見せずにどこかに行けと言うことはできない。諦めて嘆息したノアは、渋々扉を開けた。


 斧を片手に無表情の金の瞳でこちらを見る少女。瞳と同じ金髪は肩のあたりで切り整えられており、どこかの貴族の令嬢のような雰囲気を醸し出している。ノア以上に顔のパーツは整っていて、内臓が入っているのか心配になるほど体は細い。標準ほどの大きさを持つ胸部は露出の少ない漆黒のドレスで隠されているが、それでも確かな膨らみを見せている。


『空間追跡スペース・チェイサー』である程度わかっていたとはいえ、その異様な美しさにノアは息を呑んだ。

 まるで、作り物めいた美しさだった。


「…どうかしましたか?」

「え…あ、ああ…いえ、何もありませんよ。それより、どうぞお入りください」


 斧を元の位置に戻して家に入ってくる少女を前に、ノアはただ笑みを浮かべるしかない。

 家族以外の人を初めて家に招き入れる。ましてやその相手は正体不明の美少女。

 緊張でどうにかなりそうだ。


 ノア暗い部屋に明あかりを灯ともすべく、蝋燭ろうそくに火をつけた。

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