終章

 その日は、前日まで降り続いていた雪もやみ、空は突き抜けるような快晴だった。

 庭院には、分厚く雪が降り積もって、葉を捨てた木々に氷の花を咲かせている。回廊の軒には、いくつもの氷柱が連なり、溶けた水滴が地面に帰っていく様を、悠玄はぼんやりと眺めていた。

 あれから一月半ほどの月日が過ぎた。宮も宵黎宮から降露宮へと戻り、滅王派関連の取締りや処罰についても、一応の決着はつきつつある。

 新たな王の意向で、一切の処刑が行われないことが決められ、望む者には朝廷にて適当な官位を与えられることが許された。それに加えて、小さな官位の移動もあり、朝廷は新たな政治体制の元で、動き始めようとしている。

 即位式は、新年に日取りを決めてあるため、まだ執り行われてはいない。しかし、噂を聞きつけた民たちが王都に戻りはじめているという噂は、官吏たちを酷く喜ばせた。廉州からの物資の提供を受け、通りの舗装や建物の補強、建て直し作業は、順調に進んでいるという。

 王の証として、四つに分けられていた石――御璽も、今では一所にまとめられ、厳重に保管されていた。

 行き先の不明だった一つは宵黎宮の奥深くに、一つは廉家にて泉介が、一つは葵狼碧、奪われたと思っていた最後の一つを所持していたのは、なんと飯堂の娘、浬琳だった。多くは語らずに、ただ古びた巾着の中からそれが差し出されたのを見た時、誰もが驚いたものだ。

 そのようなことを考えながら、悠玄がぼうっとしていると、何かが落下するような物音が、回廊の向こう側から聞こえてきた。

 何事かと思って目をやれば、誰かの後ろ姿が、回廊に蹲っているのが見える。すぐ脇の窓が開いているので、そこから出てきたのだろう。


「主上、何をされているのです?」


 突然後ろから声を掛けられて驚いたのか、朱翔は肩を大きく震わせると、後ろを振り返った。そこに立っているのが悠玄だと分かると、安堵したように息を吐き出し、その場に立ち上がる。


「廉将軍。確か今日は、城下の見回りだと聞いていますが」

「ええ、午から行ってまいります。主上こそ、今日は嵐稀様の代わりに、浪玉様からお勉強を見てもらうお約束だったのではありませんか?」


 悠玄にそう訊ねられた朱翔は、誤魔化すよう曖昧に笑うと、そっと窓を閉めた。

 警戒するように辺りを見回している様子を見て、面白そうに悠玄が笑うと、不満そうな顔で見上げてくる。


「すみません。お詫びにと言っては何ですが、午までなら私の室で匿って差し上げますよ」

「本当ですか?」

「はい。ここは冷えますので、早く参りましょうか」


 最初こそ違和感のあった朱翔の言葉遣いも、今では慣れ親しんでしまっている。

 浪玉は、王が臣下に対して使う言葉遣いではないなどと言って説教をしていたが、今では注意することにも飽いて、放っておくことに決めているらしい。嵐稀に至っては、初々しくてよろしいではありませんかと、改めさせる必要性を否定している。


「そういえば、愁蓮殿はお元気ですか?」

「文のやり取りだけですが、元気そうです。最近では、道場に出て稽古をつけているとかで」

「よろしかったですね、道場を管理してくださる方が見つかって」

「はい。閉鎖せずに済んで、父も喜んでいると思います」


 あの時、片手を切り落とされた鷺愁蓮は、半月ほど前までこの宮城で養生していたが、今は廉州に戻り、双家の道場で剣術を教えているのだという。

 廉州では、州牧が葵狼碧から斉瑤俊に代わり、既に一月ほどが経過しただろうか。空位となっていた太尉には狼碧が入り、悠玄は先ほど朱翔にもそう呼ばれたように、禁軍で将軍職を拝命している。志恒は以前と代わらず悠玄の次官として働き、今は一足先に、城下へ降りているはずだ。

 葵凌青も朝廷へ入ることを望まれたが、当主へ事の次第を説明しなければならないからと、一度葵州へと戻っていった。登尊は清朗に腰を据えようと決断したらしく、鍛冶屋を開く準備に余念がない。


「香蘭が時々そちらにお邪魔していませんか?」

「ええ、香蘭殿なら時々……」


 さすがは英雄と呼ばれる狼碧に指南されたこともあり、武人としての実力には舌を巻いた。しかし、軍は基本的に女の入隊を認めてはいないので、雇い入れるわけにもいかず、現在は後宮で女官として働いている。ただ、体を動かせないことが退屈で仕方がないらしく、時折軍の鍛錬場にこっそりと現れるのだ。


「そういえば、以前から主上にお聞きしたいと思っていたのですが」

「はい、なんでしょう」

「香蘭殿のことです。あの日、宵黎宮へお戻りになる前に顔を合わせていた時、酷く驚かれていたように見えたのですが」

「え? ああ、あれはまんまと騙されていたというか……香蘭は、私の前ではずっと妓女に変装をしていて、髪も黒くしていたので、誰か分からなかったんです。葵太尉に子供がいることは、本人から聞いて知っていましたが、まさか香蘭だったとは思ってもいなくて」


 そう言って困惑したような笑みを見せた朱翔だったが、次の瞬間には、その笑顔が硬く凍りついてしまう。そろそろ悠玄の室へ辿り着こうという時になって、回廊の向こう側からやって来る者の姿を見つけてしまったらしい。


「烟丞相」


 悠玄は道を空けるように回廊の隅へ寄ると、両手を合わせて頭を下げた。

 出仕時間内は官位の差を明らかにしなければならないため、太尉であった時のように振る舞うわけにもいかない。浪玉はそんな悠玄の姿に一瞥をくれるだけで、すぐに朱翔へと目を向けた。


「ずいぶんと楽しくお話しをされていたようだが、私との約束はお忘れですかな」

「あ、いえ、忘れていたわけではないのですが」


 まさか本人を前にして、逃げ出そうとしていたとは言えるわけもない。相手が浪玉なら尚のこと、逆らえはしないだろう。

 朱翔は諦めたように肩を落とすと、悠玄を見上げた。


「廉将軍、お時間をありがとうございました」

「こちらこそ、お相手してくださってありがとうございます。また後ほどお茶でもいたしましょう」

「それはぜひ」


 そう言って嬉しそうに笑った若き王を見て、軽く咳払いをした浪玉は、早くしろと言わんばかりに朱翔を急き立てた。

 肩を落として去っていく後ろ姿を見送りながら、自分も昔は嵐稀と浪玉に交代で勉強を見てもらっていたことを、悠玄は思い出す。巧みに飴と鞭を使い分ける嵐稀とは違い、常に鞭ばかりの浪玉が相手では、逃げ出したくもなるだろう。

 隣に誰もいなくなってしまった回廊を歩きながら、悠玄は思わず笑みを漏らした。

 これが、平和というものなのだろうか。幾月か前ならば、想像もつかなかった穏やかな心境が、未だに信じられない。

 駆け抜けるように過ぎてきた日常が、突然ゆっくりと歩みはじめ、花々が雪解けの季節を待つように、この国も徐々にだが、変わっていくのだろう。

 次の桜の季節には、城下も人々で賑わい、内乱と同じ年だけ争いもなければ、美しい町を取り戻すことができるだろうか。

 木の葉は青々と茂り、美しい花が咲き誇って、町は活気に溢れ、怯え、飢えることもなく誰もが自由に暮らすことのできる国を、悠玄は今も変わらず望み続けている。

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我が王よ 一色一葉 @shiki-666

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