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 血溜まりの中に倒れていた愁蓮の姿に嘔吐感が込み上げたのは、どれほど前の出来事だろうか。涙で滲み、不鮮明になった視界の中で、愁蓮の姿が、なぜか養父へと姿を変えていた。片腕を失い、血溜まりに横たわっている父――次に瞬くと、今度は白拓に姿を変えている。瞬く度に変わりゆく人物の姿に、彼らは自分の為に死んでしまったのだという罪悪感ばかりが募る。

 もうやめてくれと、そう思うのに、横たわる身体は次々と姿を変えていった。

 大切な誰かから順番に、そして最後には、道ですれ違った名前も知らない誰かに姿を変えた。

 苦しかった。

 言いようのない圧迫感が、胸を急激に締め付け、苦しみ、もがきながら必死になって、出口を探している。


「僕の弟を殺してみろ」


 すべてを諦めかけたその時になって、耳元で囁かれたと思うほど近くに、その言葉を感じた。何も見えない暗闇の中で、声の聞こえた方向を見つけだそうと、頭を左右に動かそうとする。


「王位を継いでも、何をしてでも、この世の果てまで追いかけて行って、お前を死よりも惨たらしい姿で、王殺しの罪人として民草の前に晒してやる」


 目を覚ませと、自分に強く命じた。

 こんなものは、すべて嘘だ。聞こえてくる声だけに集中しろと言い聞かせながら、朱翔は卑屈になって閉じていた目を、ゆっくりと開く。

 顔を上げて、目を向けた先には、先ほどまで血溜まりの中に倒れていた愁蓮を両腕に抱き寄せる、キキの姿が見えた。誰も倒れてはいない。あれはただの白昼夢だったのだと確信をした時、針で刺されたような痛みを、首元に感じた。


「実に素晴らしい兄弟愛ですね、そうは思いませんか?」


 華清の生暖かい息が頬にかかり、朱翔は不快に思いながら身を捩る。


「王殺しとして史実にその名を刻まれるのならば、それもまた一興です。目の前で我が王を殺される、あなた方の顔を見られないことだけが、今の私には残念で仕方がありません」


 首に添えられていた太刀が、一瞬だけ後ろに引かれるのが分かった。

 ああ、殺されるのかと、最初に感じたのは、他人事のような感情だった。だが、次の瞬間には、どっと恐怖が訪れた。これから先の二十年を見ずに、これまでの二十年に終止符を打ちたくはないと、強く思った。


「朱翔!」


 刃が赤く色づく太刀を手にした白拓と、青白く見える太刀を手にした男が、こちらに向かって駆けてくるのが見えた。背後から振りかぶられた、鋭利な切っ先も見えている。

 この場から逃げ出そうにも、そうと考えた時には、もう既に遅かった。

 朱翔は、腹にずっしりとした衝撃を感じて、息を詰める。

 束縛を解かれると前のめりになり、腹を強く押さえたまま、数十段の階段を転がり落ちていた。下で待ちかまえていた白拓がそれを抱き留め、もう一人の男は、勢いを殺すことなく階段を駆け上がっていく。

 腹の傷よりも、階段に打ち付けられた背中や腕の方が痛むことに気づいたのは、階段の上で何かが倒れる音を聞いた時だった。

 美しかったはずの目の色を濁らせ、何も映さなくなった華清が、こちらを見下ろしているのを見つけた瞬間、朱翔は思わず目を逸らしていた。


「朱翔、傷は――?」


 階段に座らせ、正面に膝をついた白拓は、朱翔の上衣を剥ぐように取り去った。そして、切っ先が突き立てられた場所をまさぐろうとした手を、驚いたようにぴたりと止める。その視線の先を朱翔も追いかけていくと、白拓と同じように、大きく目を見開いた。


「ああ、お前は本当に最高の刀鍛冶だ、登尊」


 上衣の中で帯に差し込まれていた朧月を取り上げ、白拓はそれを祈るようにして額に押しあてた。そして、思わずというふうに、朱翔の身体を力強く抱き締める。


「痛いです、白拓さん」

「本当に刺されたかと思ったよ」

「本当に刺されましたよ」


 差し出された朧月を受け取り、朱翔はそれを見下ろした。

 登尊が以前、この小刀はこれまでに二度、持ち主の命を救っていると話していた。二度あることは三度あるのだと、朱翔は朧月を握り締めながら思う。鞘には、切っ先を受けた形跡がくっきりと残り、内側の刃が、その部分から覗いていた。

 自分のことよりも愁蓮が心配だと、朱翔は痛む身体を叱咤しながら立ち上がる。

 しかし、足を踏み出そうとすると、階段の下で白拓が跪拝している姿が目に入り、心臓の鼓動が大きく跳ね上がった。言葉にならない感情が押し寄せて、開いた口からは、声を出すことができなかった。


「どうか、これまでのご無礼をお許しください」


 朱翔を見上げた顔は、いつもの白拓の表情とはまったく違っていた。

 へらりとした印象の笑みではなく、精悍で誠実な顔が、真摯に朱翔を見上げている。切れ長の瞳は真剣そのもので、内乱時に受けた印象が、不意に甦った。

「白拓さん――」

「葵狼碧」

「……え?」

「それが、私の本当の名です、陛下。お小さい頃から、ずっとお傍におりました」


 真実を知らなかったのは、本当に自分ばかりだったのだと、その後ろに控えている者たちの顔を見て思う。急に頭の中が混乱をしはじめ、理解がどうしても追いつかなくなってしまった。


「じゃ、じゃあ、もしかして、キキがさっき言っていた──」

「はい、凌青は私の弟です。葵家の末っ子で、葵季と。王族の血筋ではありませんが、同じ母親から生まれた兄弟ということになります」


 弾かれたように顔を上げると、キキがぐったりと項垂れた愁蓮を抱えながら、立ち上がる姿が見えた。こちらを一瞥してから、広間を出ていこうとする背中と白拓――葵狼碧を見比べると、見下ろした顔が、僅かに頷くのが分かった。

 階段を三段ほどの高さから飛び降りた朱翔は、痛む身体に鞭を打って、キキの隣に並んだ。


「愁蓮は?」

「幸い、まだ息はある。図太いやつだな。王宮の専属医官たちなら、どうにかできるだろう」


 白拓とは違い、キキの態度には微塵も変化がない。そのことに安堵した朱翔は、反対側から愁蓮の身体を支えた。

 朱翔は今更になって、先ほどの言葉が歓喜となって染み入ってくるのを感じていた。対するキキは、先ほどの言葉を恥じているのか、心なしか照れたような表情を滲ま柄、朱翔と顔を合わせようともしない。


「宵黎宮へ戻るまでに、よく考えておくことだ。玉座を望むのか、捨てるのか。その選択を迫るのは、何も凋華清のような男だけではないからな」

「前に言っていたね。僕には父親違いの兄がいるから、朝廷の官吏たちも考えてみるだけのことはあるだろう、それが葵家の血族であれば尚のこと、考慮の余地はある、って」

「ああ、言ったな」


 それがどうしたとでも言いたげな顔で、キキは愁蓮を背負い直した。

 他人には無関心な人物だとばかり思っていたが、ただ、その胸に抱いている思いを素直に伝えることができないだけなのだろう。酷く不器用なのだ。だかこらそ、遠回しな言い方しかすることができない。


「僕が王になっても、キキが王になっても、多分どちらも大差ないと思うんだ」

「……それがお前の答えか?」


 不可解そうに眉根を寄せたキキに向かって、朱翔は曖昧に微笑んで、肩をすくめてみせる。

 ただ守られていた二十年を終えようとしている今、これからの二十年を掛けて、何かを守りたいと思ったのは、確かだった。

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