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 悲鳴のような声が聞こえたのは、血痕の道を追いかけはじめてから、しばらくが経過した頃だった。致死量に達しているのではないかと思われるそれを辿りながら、悠玄は狼碧と顔を見合わせた。

 獄舎に辿り着いてみると、そこは既に、事を終えた後の状態だった。

 牢の錠は破壊され、幾人かの看守が折り重なるように気絶しているのを、登尊と志恒が縛り上げている。隅の方では、母親とその子供たちが、寄り添うようにして座っていた。


「私たちが到着した時には、もう」


 説明を求めた悠玄に、志恒はそう答えながら、看守の一人を床に転がした。

 その割には血生臭い臭いがすると目を眇めれば、一角に膝をついた狼碧が、こちらに背を向けて舌を打つのが分かった。立ち上がった足のその隙間か向こう側が見えた時、悠玄は不快感を露にして眉根を寄せる。

 横たわっていたのは、首から上のない死体と、一本の腕だった。太刀に付着した血は乾きはじめていたが、さほど前の惨劇とは思えない。


「葵州牧」

「仲間の腕だ。どこへ向かった?」


 先ほどまでとは一変した鋭い眼差しで、狼碧は女を見やった。女は顔を青ざめさせたまま、首を横に振った。


「その男が突然やって来て、愁蓮を斬りつけようとしたんだよ。私たちを庇おうとした時に、腕を切り落とされて……そ、その男の頭を持って、出ていっちまった」

「こちらは背格好から見て雹鸞だな。悲惨な最後だ」


 悠玄は、床に転がった腕を見て、かつて自分が止めも刺さずに逃がした敵兵のことを思い出していた。腕を失っては、もう武人ではいられない。武人であることを誇りに思っている者ならば、死んだ方がましと思えるほどの屈辱を味わうはずだ。

 すっくと立ち上がった狼碧は、女子供たちの護衛に香蘭と登尊をこの場に残し、他の者を引き連れて獄舎を出た。悠玄もそれに続き、血痕を追いかけた結果が、今だ。

 覚束ない足取りで歩いたのが分かるほど、左右に血の跡が振れていた。動かずにじっとしていれば、あるいは助かったかもしれないものを、身体からはどんどん血液が流れ出ていることだろう。

 血痕は、とある扉の前で止まっていた。力を込めて扉を開いたのか、乾いていない血溜まりができあがっている。扉も血で濡れ、切り落とされた方の肩で押し開けたのだろうと想像することができた。

 腰から太刀を引き抜いた狼碧は、後ろに控えている面々に視線だけで合図を送ると、その扉を勢いよく蹴破った。同時に視界が開け、だだっ広い広間が長く伸びる。中央には赤い絨毯が引かれ、その一番手前に、一人の男が倒れ込んでいた。


「おやおや、やっとご到着ですか、狼碧」

「……華清」


 その場に跪き、伏した男の身体を仰向かせた狼碧は、嫌悪に満ちた表情で玉座の前に立つ凋華清を見上げた。華清は一人の青年を羽交い締めにしていたが、顔を俯かせ項垂れているために、その顔を確かめることはできない。

 悠玄の背を押しのけ、自身の兄を突き飛ばすようにして前に出た凌青は、着ていた上衣を脱ぐと、男の傷口を塞ぐように強く締め付けた。上半身を抱き上げるようにして起こし、首元に手をあてて脈を確認する。


「朱翔をこちらに渡してもらおう」

「まだです。私はまだ、答えを聞かせていただいてない」

「答えだと?」

「この者が平民として生きるのか、王として死ぬのか、その答えをです」


 歌うような口振りで言った華清は、腰に佩いていた太刀を引き抜いた。

 切っ先を青年の首に突きつけ、極上の微笑を浮かべる。しかし、その青年は鋭い剣先が自分に向けられようとも、動じた様子を見せもしない。

 それを狼碧もおかしいと感じたのか、構えていた紅の切っ先を、僅かに降ろした。


「いずれにせよ、このままでは殺されるに決まっている」


 そう呟くように悠玄が言えば、華清は、おや、と嬉しそうに声を上げた。


「その声は悠玄ですね。そういうことならば、志恒もお傍にいるのでしょう?」


 悠玄の後ろで肩を震わせた志恒は、何も言わずに玉座を見上げていた。

 そして、華清もそれ以上は何も語らず、こちらの視線を一心に受けながら、色素の薄い目を細めた。


「先の乱で決着は付いたはずだ。お前たちは敗北した」

「そうですね、先の乱では、滅王派が敗北をしました。ですが、両者の長が倒れた今、新たな長同士が剣を交えることには、誰も異議を唱えないはずです」

「あれだけの犠牲の後だというのに、お前はまだ争いを続けるというのか」

「この国から王を廃することができるのならば、犠牲など些細なものです」

「たとえ王の血筋が絶たれたとしても、その意志は引き継がれる」

「それもいいでしょう。ならば、また戦えばいいだけのことです」

「誰が国を統治しようとも、間違えれば道を見誤り、国は易々と傾くだろう。その時は、今までのような歯止めは利かないぞ。王という畏怖が取り除かれた国々の向かう末路は決まっている」


 僅かな沈黙の後、くすくすと笑う華清の声だけが、広間に不気味に響いた。震えた剣先が、青年の首の皮膚を破き、一筋の血が流れる。


「言葉での説得など、私の耳には届きませんよ、狼碧。奪い、奪われることには、もう飽き飽きしているのです。これで終わりにしてしまいましょう。王が死んだ後の国が崩壊しようと、崩壊しまいと、私の知ったことではありません。私には王が存在するか、しないかの方が重要なのです」

「……何をそれほどまでに怯えている?」


 黙って話しに耳を傾けていた凌青が、唐突にそう口を開いた。


「王に何の恨みがあるのだ。王に何もかもを奪われたと感じている者は、お前一人だけではないぞ。父を奪われ、母を奪われ、兄弟を奪われた。帰る家をなくし、土地をなくし、食べるものもなく、飢えて死ぬ思いをした者の思いを、お前は想像したことがあるか?」


 それが誰のことを話しているのか、悠玄には分からなかったが、凌青は男を抱く腕に力を込めていた。玉座を鋭く睨み付け、その表情とは裏腹に、感情の欠落しきった声で先を続けた。


「僕の弟を殺してみろ。王位を継いでも、何をしてでも、この世の果てまで追いかけて行って、お前を死よりも惨たらしい姿で、王殺しの罪人として民草の前に晒してやる」

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