-6-
その男は、悠然と玉座に腰を下ろしていた。
金と銀で装飾された玉座の肘掛けを、愛撫するように触れ、もう何年も前から朱翔が来ることだけを待ち続けていたかのように、凋華清は高い位置からこちらを見下ろしている。
玉座の間へ入る寸前に縄を解かれた朱翔は、紫の痣が残っている手首をそっと撫でた。その格好のまま立ち止まり、惚けたように男を見上げる。
深々と玉座に腰を下ろした華清は、雹鸞に連れられて来た朱翔を興味深そうに見つめていた。不健康なほどに窶れた顔の輪郭を、胸の中程にまで伸びた黒髪が縁取っている。身に着けている衣裳は質素にまとめられていたが、額の中央を横に伸びている帯の装飾だけが、豪奢に輝いていた。
筆で描いたような形のいい眉の下には、髪の色よりも僅かに薄い灰色味を帯びた目が、前髪の影から覗いている。湖の水底を映し込んだようなその色に、朱翔は目を奪われた。
容姿が優れているというわけではない。それなのに、向けた視線を反らすことができないのだ。まるで、魅入られるようだった。
「こちらへおいでなさい」
男にしては高いその声が、朱翔をもっと近くへと手招いた。
朱翔は、追い立てられるようにして玉座へと近づいていき、無理やり膝を地に付ける格好を強いられる。心のない平伏に何の意味があるのだと思っている朱翔の隣で、雹鸞が静かに跪拝をした。
「よくやってくれました、雹鸞」
「華清様が命じられることならばこの雹鸞、いかなることでも」
「後ほど極上の褒美を授けましょう」
「ありがたき幸せにございます」
「今は席を外してください」
呆気なく断ち切られた会話にも、雹鸞は深く頭を下げると、すぐに従った。その場に立ち上がり、膝をついた姿勢のまま呆然としている朱翔を一瞥すると、踵を返す。
背後で扉が閉まると、この瞬間を待ち侘びていたかのような顔で華清が微笑した。
「もっと近くへおいでなさい」
なんて耳に心地の良い声なのだろうかと、朱翔は足を進めながら思った。
見えない手に導かれるよう進んだ先は、既に玉座の目の前だ。そこで足を止めると、玉座から伸ばされた手が、朱翔の腕を取る。
「あなたの手は酷く冷たいのですね。環笙王の手は、日溜まりのようにあたたかかったのに」
少し残念そうな声が、朱翔の手の甲を親指の腹で撫でながら告げた。
その手を振り払うことは、容易なことのように思えたが、そうはしなかった。その目は、近くで見れば見るほど深く、美しい色をしていた。
しかし、その目が朱翔を見つめることはなかった。焦点の定まらない目が、左右に揺れたかと思うと、ふと華清は微笑んでみせる。
「私は目を患っているのです。お見苦しいでしょう? まったく見えないというわけではないのですが、残念ながら、あなたがどのようなお顔をされているのかは分かりません」
そっと伸ばされた手が、今度は朱翔の輪郭に触れた。一つ一つ、確かめるように撫でていく。頬の瘡蓋になっている傷に触れると、その手がぴたりと止まった。
「手荒な真似をしてしまったことは謝ります。どうか許してください。私はどうしても、あなたとお話しをしてみたかったのです」
「……それだけのために、何の関係もない雪姫さんたちを攫ったとでも言うんですか?」
「そうでもしなければ、あなたをここへお連れすることは難しいだろうと判断しました。この二十年間、あなたはご自身では想像もつかないほど厳重に、大切に守られていたのですよ」
「あの人たちを今すぐに解放してください」
「もちろん、解放はいたします。すぐに、というわけにはいきませんが」
優しく微笑んだその顔には、微塵の邪気も感じられなかった。
本当に、この男が滅王派の頂点に立つ者なのかどうか、朱翔には判断することができない。穏やかそうな横顔からは、知性が滲み出ているようにすら感じられる。
ただ、灰色の目に深淵が見えないように、底のない男だと思った。
実際には何を考え、何を望んでいるのかは、きっと誰にも分からない。それを相手に計らせまいとしているようだった。すべての感情を微笑みで覆い隠し、相手の心に隙を作らせる。
「……なぜ、あなたのような方が滅王派に?」
「おや、おかしいですか?」
くすくすと笑い声をもらし、華清はよく見えていないはずの目で広間を見渡した。
「ここからの景色は、実に圧巻なのでしょうね。埋め尽くさんばかりの臣下たちが、たった一人の人間に向かって平伏すのですから。まるで神か何かのように王を崇め奉る姿には、虫唾が走ります」
すっと感情を消した顔が不意に現れる。先ほどまでとは、ほとんど別人の顔をしていた。
「農民は田畑を耕し、漁師は魚を捕る。商人はそれを売り買いし、旅芸人は人々に笑顔をもたらすでしょう。この国の至る場所で、大勢の民たちが存在する意味を持っています。この太刀も、椅子も、城も、下々の者が作り上げたものです」
それに対して敬意を表するように、華清は目を伏せた。
「王などおらずとも、国は成り立つのです。あの九十年続いた乱が良い例ではありませんか? ろくに政は執り行われずとも、ここは未だに、一国として存在し続けています。現在の政治体制を作り上げたのも、王ではありません。官吏たちが長い年月を掛けて改訂に改訂を重ね、そうして現在に至っているのです。百五十年以上前、王族が政を放棄した頃の国は、争いもなく、平和そのものであったという史実も残っています」
内乱終結とほぼ同時に、命を落とした王がいた。
それから二年が経過し、民草として暮らしていた朱翔は、それで何か困ったことがあっただろうか。王位が空位のままであっても、民には関係がない。それが一般的な物の考え方として、既に定着してしまっている。
こうは考えられないだろうか。王が死んだからこそ、争いは終結した。王の命が尽きたからこそ、国に平和が訪れようとしているのではないか、と。
「あなたも民草としてこの二十年を過ごしたのなら、お分かりのはずです。王がこの国に何をもたらしましたか? この町をご覧なさい。ここは争いと荒廃の象徴です。権力を欲するが故に、王がこの世界を崩壊へと導くのですよ」
「たとえそうだとしても──」
朱翔は意図せず語尾を強くしていた。
玉座の間を見下ろしていた顔が、傍らに立つ朱翔を見上げ、不思議そうに首を傾げる。
渇いた喉を潤すように、朱翔は唾を飲み込んだ。確かに華清の言っていることは理解することができる。正論を語っているのかもしれない。朱翔自身も、存王派以上に、滅王派へ気持ちを傾かせることの方が多かったのは、事実だった。
自分が王の息子だと聞かされた時、それを信じることができなかった。信じたくもなかった。王などいらないのだと、キキに向かって口にした言葉に偽りはない。
しかし、この二十年──双龍彰が、必死に守ろうとしていた朱翔の二十年が、自分を信じて生きてきたこの二十年が、すべて否定されていることに気づいて、華清の言葉に耳を塞ぎたくなった。
「──死んでいないのなら、国はまた生き返ることができます」
「王の消えた世界でも、それは同じことです」
「統治する者の消失した世界で、どうやって生きていこうと言うんです?」
「王に与えていた最高権力を一所にまとめず、いくつかに分散するのです。たった独りの人にすべての権限を与えるからこそ、過ちは繰り返されます」
「それならどうして、王の証を探し回っていたんですか?」
「あれは私が望んだわけではありません。雹鸞がそれを欲し、手に入れようとしていただけです。王の証になど、私は興味がありませんから」
結局は一つの欠片も見つけられなかったようですが、と言って、華清はなぜか面白そうに笑った。邪気のない子供のような笑みが、逆に恐ろしかった。
自分がこれまでに行ってきたすべてを、正義と思い、疑わないのだろう。純粋すぎる真っ直ぐな感情が、揺れた他人の心を惹きつけるのかもしれない。言葉巧みに誘惑し、利用するのだ。
「あの者は、私とあなたが出会うための捨て駒にすぎませんでした。こうして出会えた今は、もうあの男に用はありません」
ふわりと穏やかな笑みを浮かべて、残酷なことを口にしたその時、ごとりと鉛の塊が床に落ちたような音が、背後から届いた。後ろを振り返ると、上半身から下半身にかけて血みどろになりながら立っている、愁蓮の姿がある。
床には、黒い何かに覆われた球体が転がっていた。目を凝らしてよく見れば、鮮やかな赤に染まった中に、顔のようなものが浮かび上がってくる。目が大きく見開かれ、口を半開きにした男の――雹鸞の頭が、そこに転がされていた。
「ええ、あなたがいずれ始末してくれるだろうと思っていましたよ、露愁蓮殿」
「……自分の描いた品書き通りで、ご満悦か」
「あとはこの方を必死にお守りしていた葵狼碧の到着を待つばかりです」
「最悪だよ、こんな男に腕一本持っていかれるなんて」
朱翔は、ふと感じた違和感に、その言葉で気づかされた。
血に濡れた顔を苦痛に歪めた愁蓮の左腕が、なくなっているのだ。腕のあった場所からは、血が止めどなく滴り、背後にはどす黒い血の道が延々と伸びている。
すうっと、顔から血の気が引いていくのを、朱翔は感じた。その場に膝をついた愁蓮に駆け寄ろうと足を踏み出すものの、背後から伸びてきた腕が、信じられないほどの強さで朱翔を羽交い締めにした。
「それがあなた方流の忠義ですか。たった独りの者のために、己の命すら省みない。その余計な忠誠心が国の判断を見誤らせるとも知らずに」
「お前には分からないだろうな。裏切り者の、お前には──」
「私は誰かを裏切ったことなど一度もありませんよ。あなた方が勝手に裏切られたと勘違いをしていただけです。私の心はいつでも滅王派と共にありました」
「お前が死んでくれればいいと心底思うよ」
「その前に、あなたの死に行く姿を、陛下と共に鑑賞させていただきましょう」
その腕を必死に振りほどこうともがくのに、その細腕からどのようにして力が生み出されているのか、一向に抜け出すことができない。
そうこうしている間にも、愁蓮は自身の足下に血溜まりを作り、その中へと倒れ込んでしまった。もう起きあがる気力もないのか、ぴくりとも動かなくなる。
「愁蓮!」
「……なあ、おい、ザマないだろ? 人って案外、簡単に死ぬもんなんだ」
先ほどの妙な胸騒ぎを思い出した朱翔は、自分のあまりの不甲斐なさに、くしゃりと顔を顰めた。どうしたら助けることができるのだろう。片腕を失ってもなお生き長らえることができるのだとしたら、その方法が知りたかった。守られていた二十年を取り戻すために、誰かの二十年を救いたいと思う。
「俺、ほんとはさ、お前が王の息子だってこと、餓鬼の頃から知っていたんだ」
蚊の鳴くような声で、愁蓮が語り出した。少なくとも、それだけは聞き逃すまいと、羽交い締めにされた玉座の上から耳をすます。
「もう何年も前に、龍彰様と葵州牧が話してるのを聞いてな。内乱で親が死んで、俺はさ、全部を王のせいにしていたんだ。王様なんてやつがいなければ、内乱なんて起こらなかった、ってな。けど、結局は、王に救われてたんだ。お前が俺を拾って、だから……せめて……」
「愁蓮!」
「臣下に特別な感情を抱く王ほど、国を崩壊に導く。お選びなさい、双朱翔。平民として生きていくか、王として臣下と共に死ぬか」
頬に唇が触れるほど近く、華清が顔を寄せてくる。声を発するたびに頬の産毛が震え、全身に不快感が駆け巡った。虫唾が走ると、そう、思う。
「――だ」
「なんです?」
「嫌だと言ったんだ!」
華清の聞き返してくる声に促され、朱翔は気でも触れたかと思うような大声で、己の気持ちを吐き出していた。
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