4

「う~ん、」


 寝返りを打つ。ごつん。痛い。触れた床の感触から布団の上でないことが分かった。フローリングでさえない。この反発の強さと床の冷たさを考えればコンクリートだろうか。


「なんでこんな所で寝てるの?」


 誰かが俺にそう訊いたようだった。寝惚け眼を軽くこすりながら俺は体を起こす。いつの間にか寝ていたようだ。というかここは何処だ?


「ふぁ~、おはよう」


「おはよう、じゃないよ。君を先輩に紹介しようと思って連れてきたのに、ふらっといなくなったと思ったらこんな所で寝てるんだから。自由過ぎじゃない?」


 御炬は呆れ気味にそう言った。


「……? あれ、御炬じゃん」


「御炬だよ。なんでそんな不思議そうなの。さっきまで一緒にいたじゃん」


「ん、そうだっけ……」


 眠気に囚われながらも思い出そうと考えてみる。でも、覚えてない。何か大切なことを忘れているような気がする。


「ごめん、覚えてない。何だっけ? というかここは……学校?」


 辺りを見回してみると、俺は渡り廊下のど真ん中で寝ているのが分かった。大帝徳高校一階の渡り廊下。新校舎と旧校舎を繋ぐ廊下。良く見知った廊下だ。以前、よくここを通った。なんでだっけ。それも覚えていない。


「もう、こんなすぐに忘れる? 頭でも打ったの? こんな所で倒れてたし」


「さあ……。特に頭痛はしないけれど」


「まあ、大丈夫なようで良かったよ」


「で、今日は何を?」


「私達さ、もう二年生じゃん。せっかくだし、そろそろ部活に入らないかって誘おうと思ったの」


「……ん? 二年? 部活? そうだったっけ?」


「まだ寝惚けてるの?」


「……そうかも」


 頭を手で押さえる。今、俺達は二年生らしい。高校に二年通ったと思うから今は三年生の筈なんだけれど、あれ、気のせいかな。いや、そもそも御炬と知り合ったのって三年生になってからじゃ――


「ほら立って! 先輩待たせてるんだからねっ!」


「お、おう」


 御炬に急かされて立ち上がる。とりあえず先輩とやらに会いに行こう。考えてたって始まらないしな。


 旧校舎の中に入って階段を上がる。三階に着いて右に曲がると教室があった。3‐1という数字が書かれた板が扉の上部付近にかけられていた。


「教室じゃん」


「今は部室なんだって」


「そういえば、ここは何部なんだ?」


「もう、言ったじゃん。ここは――文芸部だよ」


 御炬が引き戸の扉を開けながら言った。


 そして扉が完全に開くと、




「やあ、こんにちは」




 扉の向かい側。窓際の机の上にその人は座っていた。


 机の上に座るという行儀悪さがありながらもそれを感じさせない爽やかなオーラを身に纏い、柔和な笑みを浮かべながら、彼は挨拶した。


「来たね御炬君。その子が君の言っていた新入部員候補かな?」


「ええ、そうです。――必木先輩」


「……必木?」


 御炬が呼んだ名前に聞き覚えがある。それもかなり近しい範囲にそんな名前の知り合いがいたような気がする。親戚だったかな? 珍しい名字の筈なのによく覚えていない。


「やあ、初めまして。僕の名前は必木然徒。文芸部の部長をしている。この旧3‐1教室を部室として借りて活動しているんだ。活動と言っても小説を書いたり本を読んだりしているわけじゃなくて、部員の皆で雑談ばっかりしているだけだけどね。気楽に考えてもらえれば嬉しいかな」


 机から降りて必木先輩はそう説明してくれた。高い身長にすらっとした体躯。顔立ちは良く、優しそうな雰囲気が彼の人の良さをアピールしてくる。


 眩しい。なんだこいつ。一緒にいると眩暈で倒れそうだ。


「あの、今日はしんどいのでもう帰っていいですか」


 思わず口に出してしまった。だって仕方ないじゃないか。劣等感というのはけっこう強く心に来るんだぜ。


「あはは。ごめんね。今日は絶対家に返せないかな」


「……え?」


 あまりにも爽やかな笑顔で言われた所為で一瞬何を言われたのか理解できなかった。


「――事情があってね。皆をここから帰すわけにはいかないんだ」


「事情って?」


「それは後で。皆が集まった時に話すよ」


「……そうですか」


 とにかく、何か重大な問題でもあるらしい。笑顔は崩さないが必木先輩の表情にはどこか焦りを感じた。


 よっぽどのことがあったのだろう。俺には分からないけれど、ここは一旦従った方がよさそうだ。勝手な行動をして何かあったら御炬にも迷惑をかけてしまう。それは嫌だった。


「あ、ところで、まだ君の名前を訊いていなかった。教えてもらってもいいかな?」


「そういえばそうでしたね。えーと、俺の名前は――偶象然盛」


「グウショウツレモリ?」


「――え」


 今、俺はなんと言った?


 明らかに自分の名前ではない単語が口から洩れた。グウショウツレモリ? 誰だそれは。


「それは、どんな字を書くんだい?」


 必木先輩が興味深そうに訊くが、俺にも分からない。


「『偶像』の偶に動物の『象』に『徒然』の『然』に『盛る』で偶象然盛です」


 すらすらと説明が口から這い出た。自分でも驚いている。俺はこの名前を聞いたことがあるのだろうか。


「ふうん、中々面白い名前だね。僕は好きだよ」


 言葉だけを見ると社交辞令的だが、必木先輩は本当に感心したように頷きながらそう言った。しかし、だからこそそれが胡散臭い。これは俺の偏見だが、この人はきっと、俺がどんな名前でも同じことを言っただろう。名無権兵衛と名乗っても僕は好きだよと言ってのけそうだ。おそらく人の名前なんか最初から気にしていない。


 ……おっと、初対面の人間に言い過ぎだな。さすがに偏見が酷い。思い込みも大概にしろという話だ。でも何故だろう。多分俺は、この人のことが好きになれそうにない。良い人なんだろうとは思うけれど、なんとなくそう感じてしまった。


「では偶象君、一つ質問なんだけれど、ここまでどうやって来たんだい?」


「え?」


「旧校舎にどうやって君は来たのかな?」


「そりゃ、普通に一階の渡り廊下からですけれど……」


「……ふうん。そうなんだ」


 含みを持たせて必木先輩は頷いた。なんだろう。


「私も一緒にいたので嘘じゃないですよ」


 御炬が横からフォローを入れる。


「いや、疑っているわけじゃないんだ。ただ、少し不思議だなと思って」


「不思議?」


「うん、だって――」


「戻りましたよー」


 必木先輩の言葉が遮られた。振り返る。近藤と上辻君と名張さんの生徒会メンバーとあともう一人の生徒がいる。もう一人は誰だろう。バッヂの色からして一学年上であることは間違いないだろうけれど、顔を見たことがない。先輩とのコネクションがないので当たり前といえば当たり前だけれど。


「偶象がどうしてここに?」


 近藤が俺を見て不思議そうにそう言った。俺からすればお前がここに来る方が不思議なんだけれどな。


「ああ、彼は新入部員候補として見学に来てくれたんだよ」


「よりにもよってこんな時に……。運がないな」


 近藤が溜息を吐いて俺を見る。え? なになに? 何があったの?


「先輩、どうやって中に入ったんですか?」


 名張さんが俺に必木先輩と同じ質問をしてきた。渡り廊下を歩いて来ただけなんだけれど、おかしなことでもあっただろうか。


「……名張君がそう訊くということはつまり、脱出経路はどこにもなかったんだね?」


「ああ。窓も扉も嵌め殺しになったかのように開かねー。勿論渡り廊下の通用口もそうだったよ」


 名前の知らない先輩が俺を見る。


「つまり、君が来てから扉が何者かによって閉ざされた、ってことになるな」


「俺が?」


「偶象君が来たのがさっきだったから、あと少しだったんだけれど、手遅れだったね……」


 残念そうに必木先輩は頭を押さえる。


「必木先輩、これで皆揃いましたよ。一体何があったんですか?」


 御炬が必木先輩に向かって問いかけた。俺も気になっていたところだ。さっきから何の話をしているのか分からない。


「花道君が殺された」


「――え」


「今、なんて?」


 口が開いたまま塞がらなくなる。今、この人はなんと言った?


 花道良太が殺された。


 そう、言ったのか?


「偶象、立つのが辛いなら保健室に行こう。ベッドで横になれば少しはマシになるかもしれない」


 近藤が、ふらついて倒れそうになった俺の肩を支えてくれた。


「だ、大丈夫だ。眩暈がしただけ、だから」


 足に力を入れてしっかりと立ち上がる。しかし、まだどこかに意識が流れ行きそうな感覚は残っていた。


「俺は、大丈夫です。続けてください」


「……君がそう言うなら。えーっと、とりあえず今までの経緯を話そう。二人が旧校舎に来る前、僕達五人がこの部室で談笑していたところ、花道君が予定時間の午前九時になっても来なかった。それから三十分経っても来ないので、じゃんけんをして負けた人が花道君を探すことになった。全敗した荒屋君が僕達四人を部室に残して旧校舎を見回ると、一階の1‐2教室で倒れている彼を発見した。そうだね?」


 必木先輩がもう一人の先輩に向かって確認するように問いかけた。名前の知らない先輩は荒屋という名字らしい。


「ああ、そうだよ。最初は豪快に寝てるのかと思ったが、ぴくりとも動かないんで様子がおかしいと思い脈を計ると既に死んでいることが分かった。この時が九時四十分くらいのことだったな。そして慌てて3‐1教室に戻って四人に事情を伝え、俺と必木の二人で1‐2教室に向かい、再び花道の死を確認した。そん時に必木が花道の首筋に小さい穴が開いているのを発見して、死因は毒かなんかを注射されたんじゃないかということになった」


「花道君の遺体はとりあえず理科準備室から新聞紙を拝借し、被せて見えないようにしたよ。刺激が強いだろうしね。僕達だって、実際ちょっと、堪えたよ」


 眉を寄せて必木先輩はそう言った。荒屋先輩も思い出したのか、顔を伏せている。


「……あれ? そういえば荒屋先輩は花道先輩を呼びに3‐1教室を出たんすよね? どうして旧校舎の中を探したんすか?」


 上辻君がふと疑問を口にする。そういえばそうだ。普通なら人のいない旧校舎内を探すんじゃなくて教師や他の生徒がいる新校舎に向かうはずだ。旧校舎にいるならそもそも3‐1教室に来ている筈だし、誰かに呼び止められているなら教師のいる新校舎の方が可能性が高い。


「近場から探したんだよ。入れ違いになるのも嫌だしよ。もしかしたら近くに来るだけ来てトイレに籠ったのかもしれねえと思ってな。そしたら1‐2教室の扉が開いてるんで不思議に思って中を見てみたら花道が倒れてたんだ」


「そうだったんすね。疑うような質問をしてすみません」


 上辻君は頭を下げた。荒屋先輩は手を軽く振りながらいいよいいよと言ってみせた。


「まあ、一番怪しいのは第一発見者って言うしな。気にしてねえよ」


「ちょっと待ってください。この中に犯人が……いるっていうんですか?」


「……」


 御炬の言葉に全員が黙る。


 先に重たい口を開いたのは必木先輩だった。


「その可能性もあるけれど、僕は外部犯だと考えている。まず、僕達四人と君達二人にはそれぞれアリバイがあるだろう。お互いが相手を犯人ではないと言い切れるはずだ。荒屋君は時間的には花道君を殺害できそうだけれど、そもそも花道君を探す人を選んだ方法がじゃんけんというランダムな方法では、狙って最下位になるのは難しい。だから彼も犯人である可能性は低い。つまり、現状は侵入者がやってきて、それが花道君を殺害したと考える方が自然だろう」


「侵入者、ですか……? それが花道先輩を?」


 名張さんは怯えた様に肩を震わせた。


「だから俺達に脱出経路を調べさせたんですね?」


「うん。もしも侵入者がいて花道君を殺害した場合、次には僕達の誰かが狙われる可能性がある。だから近藤君達にはあちこち調べて回ってもらったんだ」


「結果は無駄だったけどな」


 溜息を吐いて荒屋先輩は額に手を置いた。


「でも私達が来た時には開いてたよね?」


「……そうだな。いつも通りだった」


 頷く。俺達が旧校舎に入った時は通用口が開いていた。


「つまり、偶象君達が来た後、侵入者は通用口を塞いで出られなくしたんだろう」


「えーっと、気になったんすけど、なんでその侵入者とやらは俺達を旧校舎に閉じ込めたんすかね?」


「花道の遺体を発見した俺達を口封じするため、か?」


「そうかもしれないね。旧校舎は普段出入りがない。入るとしたら僕達文芸部員だけだ。犯人はそれを知らず人がいないと考えて旧校舎に花道君を呼び出し殺害したけれど、中に僕達がいることに気付き、僕達を閉じ込めることにした。ってところかな」


「……でも、手口が粗末じゃないですか? 人がいない所を選んで殺害するのはわかりますが、旧校舎じゃなくていいでしょう。新校舎から歩いていける距離だから、全く人目につかない場所じゃありません。実際俺達に見つかってますしね。毒殺なんですし、もっと他に場所があるような気がします」


 近藤の言う通りだ。わざわざ旧校舎を選ぶ意味がない。


「もしくは、旧校舎じゃないといけなかった、とか? 犯人にとって旧校舎で殺すことに何かしらの意味があるのかも」


「旧校舎で殺す意味……。もしかすると、最初から犯人の狙いは僕達なのかもしれない」


「……え?」


 必木先輩の一言に場の空気が凍る。


「僕達が旧校舎にいることを知りながら花道君を校舎内で殺害し、それを見せつけた上で逃げられないように閉じ込めた。それなら偶象君達が旧校舎に来てから通用口が閉じられたのも説明できる」


「私達が来るのを待った? 閉じ込めて――殺すために」


 誰かが息を呑む音が聞こえた気がした。もしかすると、それは俺自身のものだったかもしれない。


「動機が、分からないっすね」


 上辻君が言う。


「そうだね。そこが問題だ。実際の動機なんてものは当の犯人になってみないと分からないけれど、考えに客観性を持たせるならそれが何かを知ることは大事だね」


「うっ……」


 頭を抱える。


 頭痛が酷い。


 ずきずきというよりも、ぐわんぐわんと頭を振り回されているかのような不快感と痛み。何かに必死に肩を揺さぶられているかのような衝撃が体に走った。


 思わずふらつき近くの机に腰をぶつけてしまう。


「偶象、やっぱり体調が悪いんじゃないか。保健室に行ってベッドで横になったらどうだ?」


 近藤が提案する。確かにこの状態じゃ起きているだけでも辛い。


「……そうだな。保健室に行ってくるよ」


「じゃあ、私が送ってくよ。一人じゃ辛いでしょ?」


「あっ、私も行きます!」


 御炬と名張さんが声を挙げてくれた。嬉しく思うけれど、今は頭痛とふらつきで素直に喜べる余裕がない。


「待て。侵入者とやらがいるかもしれないんだ。女子二人では危険だろう。俺が連れて行こう」


「お? セクハラかな近藤。私は確かに女子だけれど腕っぷしには自信があるよ?」


「わ、私も戦えますよ!」


「そういう意味でいったんじゃねえよ。あと名張も御炬に張り合わなくていいからな?」


「それなら皆で保健室に行こう。保健室にならベッドだけじゃなくて救急道具もあるし、何かあった時に役立つだろう」


「何かあった時って……。怖いっすね」


「あることに越したことはないだろ。……だが、ちょっといいか?」


 荒屋先輩は顎に手を当て、何かを思いついた様子でこう提案した。


「三手に、分かれないか?」


「え?」


「考えたんだが、このままここに居てもしょうがない。もう一度脱出経路がないか探してみよう。脱出経路以外にも何か発見があるかもしれないしな。俺と上辻で四階から上を、必木と近藤で三階から二階を。御炬達はそいつを保健室に連れていくついでに一階を軽く見てきてくれ」


 それぞれに指を差しながら荒屋先輩は指示をする。先程皆で行こうと言った必木先輩も「……確かに。このままでは埒があかない。効率を上げるためにも分担行動をした方がいいかもしれないね」と肯定の色を示し、三手に分かれることになった。


「気を付けてね」


 必木先輩が俺達に向かってそう言った。この状況で一番侵入者に狙われやすく危険なのは俺達三人だからだろう。


「任せて!」


「が、頑張ります!」


「……」


 二人が元気よく返事し、俺は軽く頷いた。こうして俺達は一階の保健室に向かうことになった。


「……肩、貸そうか?」


 3‐1教室を出た後、おぼつかない足運びで階段を降り始めた俺を見て、御炬は言う。


「私の肩もどうぞ!」


 まるで肩でタックルするかのようにこちらに身を出す名張さん。元気がいい。いや、元気がいいというよりも、少し焦っているかのような感じだ。こんな状況じゃ変な感覚になるのも仕方ないだろう。


「……ありがとう。じゃあ、頼むよ」


 普段なら絶対断っていたが、今回はその気力もなく、それに断ったところで二人は大人しく黙っていないだろうことは察せたので肩を借りることになった。両腕を二人それぞれの肩にぶらんとかける。あれ? 肩を借りるってこんなんだっけ? 傍から見れば滑稽なマリオネットに見えないかこれ。いやいやそんなことはどうでもよくて。


 近い。距離が、近い。


 当たり前だが、二人に密着する姿勢になっている。男子が、女子二人の間に挟まれて。


 両手に花なんてレベルじゃない。普通に高校生活を送っていればこんな経験は一度だってしないだろう。しかし、今の俺はこれをラッキーだとは到底思えなかった。体調が酷くてそれどころじゃないのもあるし、体調とこの状況のせいで滲み出てくるいやに冷たい汗が二人に臭っていないか心配だ。心苦しい。早く解放されたい。


 心中様々な思いでどぎまぎしながらもなんとか一階に着いた。


「保健室はあっちですね」


 名張さんが廊下の突き当りに指をさす。


「ご、ごめん。ちょっと待って」


 腕を上げて二人から離れる。


「どしたの?」


「気分悪くて……。トイレに行かせてくれ」


 階段降りてすぐ近くにトイレがある。用を足したいわけじゃないけれど、一旦二人から離れて落ち着きたかった。


「ああ、そう。じゃあ外で待ってるから」


「わかりましたー」


 二人の返事を聞いてすぐさま俺は男子トイレの中に入る。


 あー、やっと解放された。本当につらかった。俺のような小心者はあんな状況に陥ったら心拍数が大変なことになる。とりあえず顔を冷やそう。


 洗面台に水を溜め、その水を手皿で汲んで顔にかける。


「……ふー」


 それを何回か繰り返し、すっかり冷えた顔を上げて俺は鏡を見た。


「……」


 酷い顔だ。……いや、酷い表情だ。濡れているのもあるだろうけれど、雰囲気が暗い。目は虚ろで眉は下がり顔色は真っ青で生気がない。普段から活気づいてはいないけれど、ここまでひどくはない筈だ。


「いってえ……」


 頭を押さえる。また頭痛だ。しかも今回の頭痛はさっきの頭痛より重い。頭の中身が膨張して質量が増え、重くなっているかのようだ。あまりの重さに頭が下がる。洗面台に張られた水すれすれまで頭が落ちた。


「~~ッ!」


 声が聞こえる。誰かが俺を呼んでいるような気がする。それも、激昂に近い、張り詰めた怒りの声。怒声。誰かが俺を怒鳴りつけているような、そんな感覚だった。


「なんだ、一体――っ⁉」


 声が気になって頭を上げると、鏡に、俺が映っていた。


 勿論、俺が映っているのは当たり前だ。俺が見ているのだから。俺が鏡の向こう側に見えるのは当然だ。しかし、それとは別に。


 俺がもう一人、映っていた。


 背後。1メートルは後ろ。そこに、俺がいた。険しい表情で何かを訴えかける俺。しかし声がもう聞こえない。口をぱくぱくさせながら俺は俺に何かを叫んでいた。


「っ!」


 振り返る。誰もいない。まるで夏によく聞く怪談話のようだ。鏡にだけ映る人物。その人物は死者か果たして――


「……」


 もう一度鏡の方を向くと、そこにもう一人の自分の姿は映ってはいなかった。顔色の悪い自分自身と目が合う。


 恐る恐る鏡に触れても何も起こらなかった。ぺたぺたと触っていても異常は感じない。至って普通の鏡だ。


「な、なんだったんだ」


 あまりの体調の悪さに幻覚でも見たか、そう思った時、


「きゃあああぁぁぁああぁぁぁぁ‼」


 女性の悲鳴が聞こえた。今の声は、名張さん⁉


 慌てて男子トイレを出る。まさか、侵入者と鉢合わせでもして――


 そう考えた時、俺はしまったと思った。名張さんと御炬が侵入者と鉢合わせしたのであれば、悲鳴が上がった今、まさに侵入者が扉の向こうにいるのではないか。そうなったらまともに逃げられない俺から標的にされ殺されることになることは容易に予測できる。それで二人が逃げられる時間を稼げればいいが、今の体調じゃ時間稼ぎにもならないし、可能性は低いだろうけれど二人が俺を助けようと庇いに来るかもしれない。まずい、これは悪手だ――


 とそこまで俺は考えたが、それは杞憂だった。


 何故なら。


 侵入者は既にそこにはいなかったからだ。


 そこにいたのは、腰が抜けた様に座り込みながら口に手を当てて涙を流す名張さんと、だらんと両腕を垂らすように広げ力なく床に横たわるみか――がり?


 御炬は倒れていた。


 一瞬、寝ているのかと思った。争った様子はなく、衣服は乱れていない。だから、何かの拍子で意識を失っただけかのように見えた。


 御炬の、腹部を見るまでは。


 制服の上から腹が綺麗に横一線に裂け、そこから中身の一部がでろんと漏れ出している。血は飛び散っておらず、切り口とそのピンク色の漏れた臓器が赤々と染まり、そこから垂れた鮮血はじわじわと床に広がっていく。


「――え?」


 思考が、止まった。

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罪と罰(中) 人間人間 @hitohito

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