3. ルールと自覚


先日のことだ。

私は学校帰り、乗り換え駅で電車を待っていた。すると、もう扉が閉まりかかった鈍行列車から女性2人組が出ようとして、閉まる扉に挟まれた。扉はすぐに開いたので怪我をしたとかそんなことはなかったが、私が目についたのはその後の反応である。


彼女たちは、自分たちの不注意で駅に降りるのを忘れ扉に挟まって、電車に乗っている人や運転している人に多少の迷惑をかけたにも関わらず、まるで気にせずに笑っていたのだ。だから次って言ったのはさっきの駅の次ってことだよ、なんてにこにこ談笑していた。


これが正しい反応なのだろうか。

成人している女性が、マナーを破って平気な顔をする。それどころか日常風景のように気にもとめずへらへら笑う。それが正しいあり方なのか。


今回は降りる側だったが、乗る側も同じことだ。

駆け込み乗車が良くないのはみんなが知っている。

だが、それでも私はギリギリになって駆け込んで荷物が扉にひっかかり挟まってしまった人を見たことがある。確かに、時間に遅れるわけにはいかないそれなりの理由が、駆け込み乗車をした人にもあるのだろう。

じゃあ駆け込み乗車は許されるのか?


そんなわけないだろう。

時間に遅れて困るのはあなただけではない。きちんと時間に間に合って電車に乗っていた人、その先の駅で電車を待っている人、みんな同じ立場だ。程度の差はあれ遅れたことでより良い気分になる人はいない。


駆け込み乗車をした人が、自分の時間に間に合わせる為だけに電車の出発を煩わせた時間。その責任はどう取るつもりなのか。

あなた1人の為に、同じ電車を利用している人全ての時間を無駄にした。そうまでして間に合わなければいけなかったのか。自分にもっと改善できることがあったのではないか。


駆け込み乗車が許されるのは、そうでもしなければ人類が滅ぶようなタイムリミットに追われている者だけだろう。

そうでないのなら、それは自分の怠慢という原因を時間がないからなんてつまらない理由で誤魔化しているだけだ。


駆け込みで遅れるのなんて数秒じゃないかという意見も当然あるだろう。しかし全ての駅で誰かしらが必ず駆け込みをしたら? あなたは平気でも、積み重なってもっと遠くの駅に行きたい人が遅れるかもしれない。

それに、そもそもこれはマナーである。数秒しか遅れなかったとか、怪我をしなかったとか、そういう話とは別に、一般に広く知れ渡ったマナーを守るのは人間として当たり前ではないだろうか。



もうひとつ、昨年度にこんなこともあった。

私は高校までの通学に自転車を利用している。なので、その日の帰り道も、最寄り駅から自宅までの道を自転車で走っていた。


そこで私は、3才くらいの男の子とその母親らしき女性を発見した。なんてことない、よくある微笑ましい光景である。

道の先にあった横断歩道が赤になったので、私はブレーキをかけて停止した。母親と子どもも同様である。だが、その2人に気がついているのかいないのか、彼らの前を歩いていた男性が、左右を確認して赤信号を渡って行った。


赤信号は『止まれ』の合図、なんてことは、日本に住む誰もが知っている簡単なルールだ。今時知らない人はいない。その男性だってそれは知っていたはずだけれど、彼は左右を確認して、自分で安全だと判断して渡ったのだ。私はそれを見て、「ああルール違反だ」と気づきはしたものの、悲しいことに稀に見る光景で、私もやったことがないとは言えない。男性は大人であったから、その程度の安全上の判断もつくだろうとさえ思った。


しかしそれを見ていた男の子は、隣の母親にこう問いかけた。


「赤なのに渡っていいの?」


私はその言葉にハッとした。

ルールを破って平気だった男性を見た少年はどう考えただろうか。

赤信号を渡ってはいけないのは危ないからだ。だが彼は赤信号を渡ったのに危ない目にはあわなかった。なら自分も守る必要はないのでは。

自然な思考だ。だが実際そう考えた少年が赤信号を渡ったら、遅かれ早かれ事故に遭って、いつか死んでしまうかもしれない。


そんな時、信号無視をした男性に責任がないなんて誰が言えるのか。

確かに彼の行い自体はルールを破っただけで、自分が死ぬかもしれないリスクを負ったのも彼の判断で、彼を責めることができるのは彼を轢いて無駄な罪を背負ったかもしれない運転手だけだろう。純粋な少年が死んでも、彼にはなんの罪も裁きも下されない。法律の上では。


だが彼が気軽な気持ちでルールを破ったその姿を、少年は見ていた。それを真似して少年は死んでしまったのだとしたら。


少年を殺したのは男性の姿なのだ。


本人は知らなくても、誰もわからなくても、例え罪に問われなくても、少年を殺したのは男性なのだ。

そして、私たちもそんな男性と同じ過ちを犯すかもしれない。

私たちは知らない間に、その姿をもって少年を殺してしまう。


ならば誰も見ていなければいいのかと言われれば、それも浅はかな考えだろう。自分が気がつかなかっただけで誰かが見ていたら。例え誰も見ていなくても、その行動は自分が知っている。見ている。自分の怠惰を覚えたあなたは、いつしか誰かが見ていたとしても、ルールを破ることに罪悪感を覚えなくなる。


やってはいけないことというのは、やってはいけない、相応の理由がある。

例え小さく見えるものでも、やってはいけないのだからやってはいけないのだ。


私が言いたいのは、「いつもどこかでお天道様が見ているから、常に品行方正、マナーとルールを守って生きましょうね」なんてことではない。

私だって常にそうやって生きているとは言えない。程度はどうあれマナーを守らなかったりルールを破ったことはある。多分ほとんどの人にそういう経験がある筈だ。


だが、だからといってマナーやルールを守らないことを日常にするのは、別の問題ではないか。

実際に守れないことがあったとしても、守ろうと心がけながら生きようとするのが正しい姿勢であって、守らないことを反省もせずへらへら笑うのはおかしいのではないか。


私が例に挙げたマナー・ルールは、どれも小さなものかもしれない。

しかし小さなものであるからこそ問題である。それを見た誰かが、軽い気持ちで同じことができるからこそ問題なのだ。1人ではそう迷惑でなくても、10人20人と増えたらそうはいかない。例え真似したのが1人でも、それが子どもだったら想定以上の事故を引き起こす可能性がある。



私たちは、もう子どもではないのだ。

高校生も同じだ。成人こそしていないが、自分で何が良くて何が悪いのかの判断をつけることくらいできる。

ならば、常に自分の行動には責任を持つべきだ。

知らない子どもと信号待ちをしていて、時間がない為に赤信号を渡ったら、後ろからついてきたらしい少年だけが轢かれてしまった。

そうなった時に「知らなかった」「軽い気持ちだった」なんて言い訳をするつもりなのか。


ここで、そんなの大げさで、限定的で、そうそうそんなこと起こらないと笑う人こそ危険ではないだろうかと思う。

今回述べたルールの話以外にも、自分の行動が影響を及ぼす可能性まで考えられていない。現代社会で生き、現代日本で暮らす私たちは、どうあがいてもたった1人では生活できないのだ。他人同士であったとしても、同じ社会で生きる以上、どこかしらで必ず影響を与えている。いい意味でも、悪い意味であっても。


私たちに必要なのは、自分たちも社会の中で生きているという自覚ではないだろうか。

私やあなたにその自覚はあるのだろうか。

もしここまで読んでくれた誰かがいるのなら、1度自分の行いを振り返って考えてみてほしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

JKは激怒した 如月雫 @mako-773

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ