2.教師と生徒
前回は世間を賑わせている性的接触関連に関しての怒りについて述べた。想像していたより反響があり驚いている。まさかあの怒りに任せた支離滅裂な文章を読んでくれる人がいるとは思わなかったのだ。この場を借りて感謝を申し上げたい。
重ねて述べておくが、このエッセイは個人の感情を吐露するものであり、その怒りの先に相手がいたとして、その相手を貶める為に書いているわけではない。内心そう思っていたとしても、実際このエッセイによりその相手が特定され社会的制裁が加えられることを目的としているわけではないということだ。
もし不快に思ったなら遠慮なく読むのをやめていただいて構わない。
それでは本題に入る。
今回は、もっと学生らしい話題について書かせていただきたいと思う。
学校には様々な先生がいる。
体育科、数学科、国語科、男性、女性。実にいろんな人がいて、その人たちもそれぞれの人生を歩み教師という職を選んだ。
現在、教師というのは公務員だが大変ブラックに近い職業であると私は思っている。平日朝早くに学校に行って打ち合わせをし、生徒に授業をして、放課後は部活動の顧問、さらに人によっては帰宅してからもプリントを用意するなど授業の準備。明らかに睡眠時間を削ったオーバーワークで、それら全て私たち生徒の為である事実。一生徒として感謝をしたいと思う。
あの先生は授業がわかりにくいなどの文句をつけることはあるが、基本私は、先生に対して最初から批判的態度を取るつもりはない。大学を出ている大人だ。そうおかしなことをしない限り嫌いになることもない。
そう。
おかしなことをしない限り。
好きな先生、敬愛する先生がいるように、苦手な先生、そして嫌いな先生も存在する。それは先生だからというより人間的相性の問題だ。
私は今まで学生をやってきて数多くの先生を見てきたが。
中でもずば抜けて許せない先生がいる。
それは、中学校1年生の時担任であった先生である。
彼はあまり生徒からの評判は良くなかった。理由はよく覚えていないが、つまらないものだった気がする。少なくとも、私はその理由で担任を嫌いにならなかった。
きっかけは、ある日の体育である。
授業だったのか、学年を巻き込んだ行事だったのかは忘れてしまったが、とにかく体育科以外の先生も数人いたグラウンドで、私は他生徒に紛れて1000mを走った。
ちなみに私は体育が絶望的に苦手だ。
中でも長距離が酷い。タイムを計ると学年で後ろから5番目以内に遅く、いつも走り終わるのを待たれる子だ。高校のマラソン大会では学年ビリの成績を残すくらい遅い。
運動に関して努力してこなかったから当然だ。文句を言う気もない。
だがひとつだけ確かに言えるのは、私は手を抜いた覚えはないということだ。そもそも手を抜く余裕がないのもそうだが、遅いなら遅いなりに、途中で切り上げず、友人に見守られ応援されながらビリゴールという悲しい最後になろうと走り切ってきた。
その日も私は、いつも通り手は抜かず、しかしビリに近い順位でゴールした。軽度の喘息も持っているし体力もない為、走りきった後膝に手をついて息を荒げている私。そんな時に担任が私の前に立ったので、私はハァハァ言いながら目線だけ彼に向けた。
何か言われるのだろうと思ったのだ。
多分頑張ったなとか、お疲れとかそういう類の。だって私は手を抜いてない。今まで努力してこなかった責任はあったかもしれないが、今できることは全力でやった。
しかし彼は未だ息を荒げる私に言った。
「おっせーんだよ」と。
驚くことに言われた内容そのままである。
私は別の意味でハァ? と思った。おっせーんだよ……? なにが。私がか。
もしこの時の私が全力疾走の後で疲れ切って声が出せない状況でなければ、きっと声に出して「は?」と言っていた。先生に対し表立った反抗をしない私が、声を出せないなりに睨みつけたから間違いない。
ふざけるなと思った。
担任で、体育科でもなく、私が軽度とはいえ小学生で入院したことがあるくらいの喘息持ちで、運動部でもないことを知っているお前が。何も喋れないほど疲れている生徒に対して言うことが。まるでヤンキーのような口調の「おっせーんだよ」一言で、もっと努力しろと諭すこともしない。
今まで生きてきた人生で、これほど人を嫌いになるのは初めてだろうと思った。
彼を気に入らない生徒の意見を、初めて正しく理解した。
本来その台詞を言うべき体育科の先生は、全力でも遅い私と並走して頑張れと言ってくれた。卒業式の日、アルバムに「走りきったことがすごいんだ」と書いてくれた。
だがアイツはたった一言、労いもせず、私の必死の時間全てを否定した。一瞬で。
今でも思い出せる一言だ。アイツへの怒りはきっとずっと治らない。2度と会いたくない。
先生という職業についた人間が指導をする時、普段何を考えているのか私にはわからない。自分が先生になったわけでもないし、まだ人の親になったこともない身だ。想像することしかできない。
その担任の言葉も、好意的に解釈するなら激励であったと考えることもできる。明らかに冷たい言い回しで反抗心を刺激し、憎まれ役に徹することで生徒の成長を促す。なるほど確かに教育のやり方のひとつかもしれない。
だがその方法は誰にでも当てはまるわけではないだろう。
叱られて伸びる人間は一定数存在する。だが私はその部類ではなかったし、もしそういうタイプであったとしても、走り切って疲弊している時に言われたら会話なんて成り立たないし受け止める余裕もないし殺意しか湧かない。
というか。正直これは建前だ。
あまりにもありえないことを言われたせいで、実は今でも本当にそんなことを言われたのか信じられない。しかし記憶に確かにあるから事実なのだろう。
冷静に考えてみてほしい。
教師と生徒には上下関係がある。生徒より長い人生を生きている先生、それに将来の歩み方を教わる生徒。生徒は先生の言葉を吸収して成長しそれに感謝を忘れないのが理想だと思う。
だが教師も生徒も人間である。
悪口を言われれば傷つくし褒められれば喜ぶ人間である。好き嫌いだってある。例え言っていることが正しくても、それを人格的に尊敬する人間に言われるか、嫌悪する人間に言われるかで受け取り方は変わる。当たり前だ。誰にだって平等に、それは理想であって実現可能かと言われると難しい。
私たちは人間である以上、相手に対してある程度の尊重をするべきだ。例えそれが教育の場でも。
罵声の先に更なる成長を望む心があったとしても、それをぞんざいなたった一言に込めることは、果たして良い方法であるのか。疑問である。
結果として私は、怒りの感情が強すぎて意識することは少ないが、確かにその言葉に傷ついた。
そして、今現在も、その言葉に感謝するような出来事はひとつもない。ああ言われたから学べたことなんて、教師の中には自分が想像するよりマトモじゃない人間がいるということだけ。
これが果たして正しい教育であったのか?
また、私がどうにも苦手なタイプの教師がもうひとつある。
ヒステリックに叱る女教師である。
今までの人生で2人遭遇した。彼女たちは、私たち生徒が何かおかしなことをした時、喉を痛めるのではないかというほど声を張り上げ威圧する。
「叱る」という行為は期待の裏返し。決して私たちを恨んでいるわけじゃない。それは知っているのだが、しかし、やはりヒステリックに叱られると内容を理解する前に「は?」という感想しかわかない。
言葉による教育というより、自分が不愉快に感じるという感情を発散させたいが為の行為に感じるのだ。実際はどうあれ、そうなってしまったらこのエッセイと何が違うのだろう。
確かに、開き直るようだが、私たちは子どもだ。教師にやたら反抗したい者、常識がない者、そんなのはたくさんいる。だから大人からしたらもどかしかったり不愉快に思うことだってあるかもしれない。思わずかっとなることもあるだろう。
だがそこで対話を放棄して怒鳴りつけて感情を発散させてしまったら、それは教育と言えないのではないか。
もちろん教師の中には、真剣に私たちのことを考え教育方法に頭を悩ませる人間もいるだろう。
毎日毎日たくさん叱ってくる怖い先生。
やたら規則に厳しい先生。
突然キレる先生。
嫌な先生はたくさんいるが、その行動に愛情が伴うのかくらい、なんとなく察知できるものだ。
嫌だと思っていた先生が、クラスの様子を見たら不思議と優しい先生に見えたりもする。それはやっぱり愛情の違いではないか。
昔は子どもだった大人は、いつしか子どもの気持ちを忘れる。
失敗もする。常識だってない。まだまだ世間に甘えている自覚もある。子どもに大人の気持ちはわからない。だけど。
子どもだってちゃんと物を考える人間であるということを、忘れないでほしいのだ。
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