中距離恋愛

土御門 響

第1話

 親愛なる読者諸兄の皆様、《遠距離恋愛》というものをご存知でしょうか。

 互いに惹かれ合う恋人同士が、そう簡単には会えない距離に置かれる状況を指す、あれです。

 対義語として存在してもおかしくない、《短距離恋愛》という言葉が世で使われない(私の知らないところで使われているのかもしれませんが)理由は、その言葉が《恋愛》という単語の意味の中に含まれてしまっているからだと、私は予想しています。

 では皆様、本題です。

 この世に、《中距離恋愛》は存在するのでしょうか?


 私は、存在すると思っています。


 ***


 今年の春は、どこか虚ろなものだった。

 心のど真ん中に穴が穿たれたような、魂を置いてきてしまったような、そんな気分で毎日を過ごしている。

 進学し、慣れない新生活で忙しなくしていても、新たな友人と語らっていても、どこか物足りない。いや、虚しさに襲われるのだ。

 自ら望んで進学して何を言う、と思われるかもしれない。けれど、この身から虚無感が消えることはなかった。

 いま、私は電車で大学から自宅へ帰る途中だ。

 都会のビル群が目の前を高速で通り過ぎていく。少しずつ緑が増えていく風景の移ろいが、心に響くことはない。もう慣れたという現実も原因の一つだが、何よりそんなものに心を動かされるほど、いまの私に感受性はなかった。

 増える緑。落ちる日。

 いつもと変わらない、車窓からの景色。

 私は、一つ瞬きした。

 それとほぼ同時に、電車が駅に停まった。

 扉が開き、仕事で疲れたような、それでいて安心したような表情のサラリーマンが数人、電車から降り、その代わりに疲れ切った様子のサラリーマンとOLが車内に入ってくる。

 だが、この駅の近くには高校があるのだろう。制服姿の学校帰りと思しき男女も数人、乗車してきた。

 友人同士であろう男子と女子のグループ、それぞれ一組ずつと、カップルと察せられる男女が一組。

 高校生という名の青春を彼らは皆、謳歌しているのだろう。キラキラとした彼らの瞳には、抜けきらない子供っぽさ、無邪気さが映っている。

 私の目に、カップルが談笑する姿が視覚情報として映った。

 楽しげだ。嬉しげだ。幸せそう、だ。

 そう思った刹那、私の視界がぐにゃりと歪んだ。両目から一粒ずつ、比較的大粒の涙が溢れたのだということは、さすがの私でもわかる。

 しかし、なぜ私は涙したのだろう?

 他の乗客たちに、涙を流していることがバレないよう、私はそっと目を擦った。疲れて眠いのを我慢している、そんな感じを装って。

 仲睦まじい様子の彼らを見て、なぜ私はこんなにも胸が痛いのか。

 わからない……訳がなかった。

 理由なんて、よく理解している。自分自身のことだ。最もよく、わかっている。


 彼らの姿は重なるのだ。昨年までの、自分らに。


 ***


 ここまで聞くと失恋したのかと思われるでしょうが、それは違います。

 私達はいまでも、それなりに仲良くやっているつもりです。

 なら、なぜと思われて当然ですが、私達は進学してから一度も顔を合わせていないのです。

 だから、不意に心が締め付けられるのです。

 彼がいま、私の隣にいてくれたら、と。


 ***


 高校時代に私が好いた人は、物静かな人だった。同じ年頃の男子とは少し思い難い、そんな落ち着きある雰囲気の人だった。そういう私自身も賑やかな性格ではなかった。

 私達は気付けば会話を交わすようになっていた。お互い、似た雰囲気の相手のことが、いつの間にか気になっていたのだろう。

 彼と話していると、親に抱かれる感覚に似た、深い安堵感が得られた。彼と一緒にいるだけで、私は安心できていた。

 告白は彼からだった。けれど、私も何とも言えない曖昧な関係性に、きちんと名をつけたいと思っていたから、要するに私達は長いこと両片思いをし続けていたのだった。

 卒業のタイミングで告白するのが王道だろうが、彼は違った。

 雪の日だった。その日はセンター試験で、私達は同じ会場、同じ教室で試験を受けていた。その帰りに、告げられたのだ。

 会場から最寄り駅までの短い道中を二人で歩いていた時だ。その時だけは雪が止んでいて、傘を片手に白い息を吐きながら、私達は歩いていた。

 彼と帰りを共にすることは、交際していなくても当たり前になっていたから、緊張も何もなかった。けれど、いきなり想いを告げられた時は、私も驚いたものだ。


「付き合いませんか?」


 真面目な話をする時だけ、彼は敬語になる。

 そんなところも愛しいと思えてしまうくらい、私は彼に首ったけだった。

 断る理由なんて、もちろんなかった。


「私で良ければ」


 幸せだった。

 付き合う前も幸せだったけれど、付き合ってからは更に幸せだった。

 交際を申し出たのは彼だったけれど、好きと先に伝えたのは私だった。受験を終えた後の初デートの時だった。

 私が好きと呟いた時の彼の反応は男前というより可愛らしいもので、本当に愛おしく感じたものだ。


 それなのに。

 それなのに、いまでは会うことすら、顔を見ることすら、声を聞くことすらできていない。


 辛い。寂しい。恋しい。

 そんな感情を彼に訴えることも私はできず、胸の奥に溜まっていく鬱屈とした重いものは、新米学生たる私の心に大きな虚を作っているのだった。


 ***


 会おうと思えば会える。

 簡単に会えないほど離れているわけではないから。

 それでも家が近いという訳ではないから、呼んですぐ会うこともできない。

 微妙な距離感。

 手を伸ばして届くところにいない。けれど、一歩踏み出せば届く距離。

《中距離恋愛》なんて言葉が、お似合いかもしれない。

 想いは募るばかり。


『次は……』


 また電車が駅に停まる。

 私は座席の背もたれに寄りかかり、電車の揺れに身を任せた。瞼を閉じて、持て余した寂寥に心を委ねる。

 電車が停まって、また人が出て、また人が入ったのだろう。目で見なくても、気配でわかる。


「……」


 ふと鼻の奥に、随分と久し振りな匂いが蘇ってきた。すっと鼻の奥を通り抜ける、芳ばしい匂いだ。

 私は彼の肩に額をつけることが好きで、そうやっていると彼の匂いが胸いっぱいに広がった。卒業した春休みには数回会えたが、その時は必ずどこかしらのタイミングで、彼の肩や二の腕に額を押し付けて、大好きな主人にゴロゴロと喉を鳴らす猫のように甘えたものだ。彼はその行為に対して何も言わなかったけれど、拒むことはなく、むしろ満更でもない様子で好きなようにさせてくれていた。

 嗚呼、なんでいまに限って、こんなことを思い出してしまったのか。不意に蘇ったそれによって膨張した寂しさが万力のように胸を締め上げ、一筋涙が流れる。


 そして、私の頭に何かが乗った。


「っ…………うそ」


 私は頭に乗せられたそれが何なのか、すぐに察して目を開けた。目の前に立つ人物が、なぜここにいるのか。どうして、音もなく泣いていた私の頭を無言で撫でているのか。さっぱりわからなかった。

 疑問と驚愕が頭の中を埋め尽くしたが、そんなことは正直どうでもいい。


 いまは、この瞬間を。

 彼が傍にいる事実を。

 味わっていたい。ただ、それだけ。


「……久し振り」

「ああ」

「会いたかった」

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