【番外編】海を泳ぐ小鳥─5─


(そっか、もうあれから二年も経ったんだ。時の流れはあっという間ってよく聞くけど、今ならよくわかるかも……)


 どことなく横顔が大人びた十八の今──都は、写真部部室にて静かに思い出を想起していた。

 何となく気分が乗った時限定で、活動終了後に施錠ついでに一人残り、こうしてアルバムを開く時がある。長机にて肘を付き、一枚一枚丁寧にめくっていくだけで……実に様々な記憶が甦ってくるのだ。何てことのない日常から、学校行事の全員集合記念写真、ふざけあう友人達と、野良猫と、景色と、先生方と……あの人。思い返せば──思い返さなくても──いつでも來夢は、都の傍にいた。例え写真に写っていなかったとしても、心はいつも共にある。病める時も健やかなる時も──もちろん、今この時も。


 コンコン。


「はぁい?」

「ミーーーーヤさんっ!」

「ラムちゃん! 珍しいね、こっちに来るの。生徒会のお仕事は?」

「もちろん終わらせてきましたとも! 心残りがあっては楽しくおしゃべり出来ませんからね」

「ふふふ、そうだよね。それじゃ、一緒に帰ろっか?」

「はい。……おや、アルバムですか?」


 まさに今想いを馳せていた恋人の来訪にすっかり気を良くし、都は畳み掛けていた自身の手を止めて、にこりと頷いた。


「うん。いっぱい撮ってきたなーって眺めてたの。ラムちゃんも一緒に見る?」

「ぜひ」

「じゃあここ」


 隣の椅子を引き、ぽんぽんと叩く。それだけで來夢の碧眼はキラリと光り、姿勢正しくそこへ腰を下ろしてくれるのだ。まるで良く躾けられた犬か何かみたい、と微笑ましく思ってから、いや当たらずも遠からずかもしれないとすぐに改め、勝手ながらスンッとなる。

 少なくとも、何度か頼み込んだことはあった。「怒らないから、お願いだから、何かしようとしてるなら事前に教えて……」と。それはもう、酷い時は毎日想像の斜め上から突然斬り掛かられたものだから、おっかなびっくりな平凡少女の心臓は本当にいくつあっても足りない状況だったのだ。その内に堪忍袋の緒が切れ、コンコンとお説教してからはさすがに落ち着いたので良しとしたけれども。

 という訳で、そんな破天荒コレクションの中でも特に印象に残ってるのは──


「そう、これこれ。ラムちゃんも憶えてるでしょ? 私達がお付き合いするようになった次の日の写真……ほら、広報部にさ」

「ああ、あの時の! 私、まだ記念に持っていますよ」

「……説明なしにいきなり引っ張っていくから何事かと思ったら、『大々的に結果発表をお願いします、來夢派の勝利だと!』だもんね。何の記者会見だってくらい色んな人に写真撮られて……ほんとに恥ずかしかったんだから」

「ですからあれから何度も謝ったではありませんか。……ふふ、ごめんなさい。嬉しさが抑えきれなかったんですよね」


 廊下の掲示板にでかでかと貼られた校内新聞に、小心者の都の寿命は一体どこまで縮み上がったことか。しかし、そんな二人の幸せそうな姿に対し、たくさんの祝福やからかいはあっても、危惧していたいつかのような暗い噂は聞かなかった。……文句の付けようがなかったからというより、やいのやいの言ってもしょうもないと思われるようなラブラブっぷりだったからかもしれない。


 故に、今ならこうも考えられる。もしかするとそんな風になるよう、彼女が仕向けたんじゃないかと。仮に悪い風が吹いても、全て來夢に向かうようあえて悪目立ちしたんじゃないかと。

 今更すぎて、もう真実はわからない。聞いたところで答えてもらえるはずもない。

 けれども小鳥遊來夢は、いつだって淑女の気持ちを忘れなかった。いつもいつも、約束通り橘都を第一に考えてくれた。例え想いのすれ違いで喧嘩になってしまっても、その根っこにはやはり愛があって、仲直りのきっかけもまた止めどない愛だった。

 だから都も、「このまま普通人間で甘んじてちゃダメだ、彼女に釣り合うヒトにならねば!」と自分磨きに奮起した結果が見事花開き、今では誰もが羨む学園一のハッピーカップル(※別名バカップル)にまでなったという訳である。

 ……それにしても本当に、まだあれから二年とちょっとしか経っていないのに、ずいぶんと色濃い時間を過ごしてきたものだ。


「…………ふふ」

「あら? ミヤさんてば、思い出し笑いですか?」

「え? まあうん、そんな感じ。なんかね、今はもうこれがすっかり“普通”になっちゃったなと思って」

「普通……ですか?」

「そそ。ラムちゃんと一緒にいるのが、今の私の“普通”。もう絶対、ラムちゃんがいない人生なんて考えられないもん。そう思ったら、こんな自分の変わり様がちょっとおもしろくなっちゃって」


 もしもこの世にタイムマシンがあったなら。何事もなく平穏に過ごせればそれで良しと思い込んでいたあの頃の自分に、「そんなこともなかったよ」と優しく笑ってやりたい。


 ──あのね。不思議なことにこれから『君』は、とっても花言葉に詳しくなるよ。それと押し花を使った手作りの栞がわんさか増えて、一時はとうとう文庫本の数を上回っちゃったりする。えへへ、どうしてだろうね? 考えるだけでも大変だよね? 私もそう思うよ。でもね。これまた不思議なんだけど、すぐにそれすら愛おしく思えるようになるんだよ。それくらい、人生観が変わっちゃうくらい素敵な人に、『君』はもう少しで出逢える。その時感じた想いや色を、出来ればずっと忘れないでいてほしいな……


(……って。忘れないか、私のことだもん)


 昔からの自慢である記憶力の良さを自分自身が忘れるなんて笑い話にもならない。と、そこまで色々考えてから、ふと気付く。どうしてかさっきから來夢が黙ったままでいることと、何だか自分にしてはとってもこっぱずかしい言葉を口走ってしまったような気がする、ということに。

 都は、遅れてじわじわ熱を持ち出す首筋をさすり、そっと冷や汗を隠すことにした。本当にどうしたことか……眩しい思い出の数々にアテられて、らしくもなくついうっかりと……?


「…………」

「…………っと、そろそろ帰ろっか! 鍵、職員室に返さないとだし……」

「……ええ」


 ──うう、ラムちゃんの顔が見れないよぅ。

 他でもない自分の耳が真っ先に夕焼け色に染まった癖して、そそくさと立ち上がった都は逃げるようにアルバムを棚に戻した、その時。


「ミヤさん」


 背後から、袖を引っ張られた。

 何かと思う間もなく引き寄せられ、大らかなその腕にぽふんと捕まってしまうのは、まさに一瞬の出来事。


「ミヤさん……」


 瞳が燃えている。そして濡れている。

 いつぞやは彼女に行動の事前申告化を求めたけれど、結局、今ではその青の深さで何も言われなくても察知できるまでになってしまっていた。これもとことん惚れ抜いた結果だ。

 いいや、それだけじゃない。


 ──空の青さも、海の青さも、様々に折り重なった太陽光が起因している。


 どんなに熱い光を浴び続けようと、決して離れず色褪せまいと誓ったその覚悟。

 どんなに深い愛に沈められようと、水圧に押し潰されずに泳ぎ切ったその強さ。

 それらが今の、橘都の、一番の自慢だ───。


「……ラムちゃん」


 いつかはそれも『私』に教えてあげたいな……と夢見ながら都は、世界で一番大好きな青を見上げて。

 そっと、眼鏡を外した。


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