第13話 取引
水蓮寺の問いに男は目を細めた。愉快そうに、それでいてその表情は何処か冷たくも見える。
人を人とも思わない目だ、と。少女はそう感じた。
「我々にはあなたが必要なんですよ」
眉を寄せた水蓮寺に対して、舌打ちをしたのが光葉だった。どうやら「我々」と言いつつ、光葉にその意思は無いらしい。だがそれでも口を挟んでこない辺り明確に力関係があるのだろう。
兪鶴羽は気にせずに話を続ける。
「まず、見てください。この惨状を。あなた一人が生み出した、悪夢のような光景を。……もうお分かりだとは思いますが、能力というのは厄介でね。当人の精神に大きく左右され、いとも容易く暴走する」
彼はその場に屈むとガラス片を拾い上げた。それには誰の物かも分からない血がこびり付いている。
暴走。
成る程、的を射ていると水蓮寺は考えた。
元より、彼女は自身の得体の知れない力を制御出来ていたわけではない。だが、現状を表現するにこれ以上適した言葉は存在しないだろう。
「近年、能力の暴走や暴発における能力者による事件は急増していましてね。そもそも能力者という存在が明るみに出ていない以上、ほとんどが事故で片付けられています。しかし……」
男はゆったりとした動作で周囲を見回す。辺りは不気味なほどに静かだ。
照明の光すら無いこの教室において、水蓮寺と光葉が宿す黄金の光だけが妖しく煌めいている。
「書類上は事故で処理されたからと言って、犠牲者が減るわけではない。痛ましいとは思いませんか?」
嘆くように、大袈裟に腕を広げて男は言った。しかし言葉とは裏腹に、声には何処か愉快そうな響きが含まれている。
加えて、ここまで聞いてもそれと水蓮寺自身とがどう繋がるのかは見えてこない。会話すらしていないに等しいが、目の前の男がロクでもない人種だというのは理解出来た。
「……勿体ぶるんじゃねぇよ兪鶴羽。テメェの悪い癖だぞ」
いよいよ痺れを切らしたらしい光葉がひときわ大きく舌打ちする。それに合わせて兪鶴羽は肩を竦めた。
「おや、手厳しい。すいませんね水蓮寺さん。どうもあなたの妹君は気が短くていけない」
──目にも留まらぬ速さ、というのはこういう事を言うのだろう。水蓮寺の頭が兪鶴羽の言葉を理解するより先に、兪鶴羽と光葉がほぼ同時に動きを見せた。
兪鶴羽は浮かべた笑みを崩さないまま、首元に突き付けられたナイフの刀身を己の手で受け止めていた。鋭い刃を握った掌からじわりと赤い液体が染み出している。
対して、それを突き付けた──恐らくは、殺すつもりで──光葉は瞳に確かな憎悪を宿している。
「……聞こえてんだろクソ野郎が。さっさと話せっつってんだよ」
「やれやれ、全く」
気にする素振りもなく、兪鶴羽は血塗れの手を軽く振った。
水蓮寺はそのやり取りを彼女自身も驚くほど冷静に観察していた。
先程の光葉は兪鶴羽を殺すつもりでナイフを振るったのだろう。その動きは水蓮寺の目には一切捉えることが出来なかった。聞く限り、どう考えても彼女の異能力とやらは身体能力を底上げするようなものではない。つまりは彼女の素の身体能力が水蓮寺の動体視力を大きく上回るということだ。
兪鶴羽という男にしてもそうだ。そんな光葉が放った一撃を軽い調子であしらっていた。彼の身体能力が単純に光葉に勝るのか、それとも彼もまた特殊な力を持っているのか、もしくは「光葉ならこうする」と確信していた為にその動きを追えただけか──真相は彼らにしか分からないが、普通ではないということだけは分かる。
そもそもの話だ。
現状も、中学生の少女がナイフを振り回すという光景すらもまともではないのだ。
そんな中で当たり前のような顔をしているこの二人は、既に存在そのものが非日常を生んでいる。
これが。こんなものが能力者だというのなら──自分は、どう在るのが正しいのだろう?
「簡単な事ですよ」
水蓮寺の思考に割り込むように、男は囁く。
薄く、薄く笑って。その瞳に宿るものは愉悦と……狂気にも似た奇妙な色だ。
「今日で分かったでしょう。あなたの居場所はこんな場所には無いのだと」
居場所。
その言葉に心臓が軋んだ気がした。
そうだ。全部この手で壊したのだ。
これまでに伸ばされた手は全て振り払って。唯一、縋った手は離されて。
今までは彼女が居場所となってくれた。ふと後ろを振り返った時には何も残っていないと知っていたけど、それでも彼女が隣にいればそれで良かった。
それを……。
「私は各地に存在する能力者を保護していまして。ええ、そうです。例えばあなたのような。居場所を失った子供達に居場所を与えているのですよ」
「……」
「能力者で構成された組織のようなものだとお考え頂ければ。私はそこのトップで、湖鷺さんは幹部のようなものでして。端的に言うとですね。あなたをスカウトしに来たのです」
お分かり頂けましたか? と兪鶴羽は笑む。
保護。居場所を与える。そんな言葉が脳内をリフレインする。
喉から手を欲するほどに欲しかったもの。それでいて、ついさっき自分で壊してしまったもの。
それを与えに来たのだと、男は言う。
「…………の、」
少女は小さく口を動かした。
そうしてからやっと、己の唇が震えていることを理解する。
感激から? ──否。
「どの口が……言うのですか?」
それは恐らく、怒りからだったのだろう。
消えかけていた憎悪が再び灯り胸を焦がす。
何が保護だ。居場所を与える? 冗談じゃない。
確かに全てを叩き壊したのは自分だ。子供のようにみっともなく、激情に駆られた。
だけど。
「この状況をセッティングしたのはあなたなんでしょう? それでまさか私が、嬉々としてその手を取るとでも……?」
ふざけるな。
光葉 湖鷺という異物を送り込み、こうなるように仕向けておいて。
虫が良過ぎるとはこのことだ。それどころか、男の態度には傲慢さが透けて見える。笑みを浮かべながらも男の本心が見えないせいか。
強く拳を握り、水蓮寺は兪鶴羽を睨み付けた。
だが男は怯まない。想定内だとでも言うようにくつくつと笑ってみせた。
「いいえ。あなたのことは色々と調べましたが……あなたは残念な事に、素直に私の企みに乗ってくれるような人ではない」
「……なら、」
「でもあなたは頷くしかない」
眉をひそめる水蓮寺への反応はなかった。兪鶴羽の隣で同じように光葉が眉を寄せたことに彼女は気付かない。
カツン、と男が一歩前へ出る。先程からぽたぽたと滴り落ちているのは彼の手から流れる血だ。その一方で、もう片方の手は初めに拾い上げたガラス片が握られたままだった。
「言ったでしょう? あなたのことは調べました。私はあなたが本当に欲しかった。私にはあなたが必要ですから」
一歩ずつ、男が歩み寄ってくる。
まさかガラス片を突き付けて脅すつもりなのだろうか。そんな事を考えて、水蓮寺は嘲りの笑みを作った。
今更その程度で何も変わりはしない。こんな命、初めから一度たりとも惜しいと思ったことなどないのだから。
「……?」
だが──違う。
男の視線は水蓮寺から僅かに外れていた。
その意味を考えようとするが上手くいかない。だってその視線の先にあるそれを、意識しないようにし続けていたのだ。見ないように。考えないように。
でも、駄目だった。男が自分の側を素通りした瞬間に答えが導き出されてしまう。そしてそれでは何もかもが遅過ぎた。
ひゅっ、と喉が鳴る。ここへ来て、初めて恐怖で体が引き攣る。
「兪鶴羽、お前、何を……!」
「静かに、光葉さん。あなたの話は後で聞きます」
鼻歌でも歌うような軽い調子で男は倒れていた少女に手を伸ばした。柔らかな茶髪を纏めて掴み上げ、強引に顔を上げさせる。
呻くような声が喉から漏れたが、彼女の意識は無いままだった。
「ねぇ、水蓮寺さん? こうなってしまった今でも、この娘が大切ですか?」
そう言って嗤った男は、その少女の首筋にガラス片を突き付けた。
夕凪 ツバメの、細い首に。
あの日望んだもの ヒヨリ @966933
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