Marine Blue⑨
濃密な五分が瞬く間に過ぎ去り、海原が名残惜しげに口を開く。
「いよいよ、最後の演技の時間になってしまいました。どうですかみなさん。これまで見て来て、最終試験の参考にはなりそうですか? まさか楽しむのに夢中だったなんてことはないですよね?」
おそらく全員が図星だったことだろう。苦笑をさらっていった海原が満面の笑みで手を挙げた。
「スタイルのいいお姉さんはともかく、最近下腹が気になり始めたお兄さんは、突っ立ってばかりいないでイルカと一緒に泳いだ方がいいんじゃないですか? というわけで……」
海原の発言に、黒瀬が自分のお腹をつまんでわざとらしく頭を垂れる。その後ろを、ぷるんとした唇に人差し指を当てながら、凪がそろりそろりと歩み寄っていく。しーっ、のポーズだ。絵になる仕草に蒼衣が
「ドボーン!」
海原の声に合わせて凪が黒瀬の背中を突き飛ばした……かと思いきや、黒瀬は土壇場でひょいっと横にかわしてしまった。代わりに盛大に水をはねてプールに落ちたのは凪だった。
「あららら……お姉さんが落ちちゃいました。まあこれはこれでいいでしょう!」
どこまでがシナリオ通りなのか、三人の演技力のせいで判断できない。蒼衣は無意識に身を乗り出していた。
イルカと人間が、同じプールに入った。それが何を意味するのか、これから一体なにが始まるのか。
ついさっきまで蒼衣の胸中を占めていた、この職場に対する否定的な感情はいつの間にか
「それではみなさん、ご唱和ください。いきますよー! 十、九、八、七、六、……」
唱和などしていられない。蒼衣の目は
洗練されたフォームで青の中を泳ぐ凪。そのすぐ後ろを、一頭のイルカが正確無比に追いかける。凪が進路を変え、真下に潜水する。
深度を深く取って上体をもたげた凪の背後を、そのイルカはぴったりと追随する。まるでホーミング機能つき魚雷だ。
ふと、凪が上昇をやめた。両足を人魚のようにぴったりとくっつけて膝を
「三、二、一……」
イルカの力強い鼻先が、精密機械の如く正確に凪の足裏を
海原の突き上げた拳と
「マジかよ……」
蒼衣の目が自然に見開かれていく。高々と舞い上がった凪は、両手を広げてくるりと旋回し、芸術的な弧を描く。光る水滴を振りまく彼女の美しさが、見事に着水した後もずっと蒼衣の網膜に焼き付いて離れなかった。
エキシビションを終えた凪と黒瀬、そして四頭のイルカたちに、受験者たちから惜しみない拍手が送られた。蒼衣は手を
何か、この体のどこにあるかも分からない心を直接握って揺さぶられたような衝撃に貫かれて、全身にうまく力が入らない。
「さて、みなさんには今からこんな感じにやってもらうわけですが……」
──できるか馬鹿野郎。
胸中でツッコんだのは蒼衣だけではなかっただろう。
「特に最後のイルカロケットなんかは、女性トレーナーでできるのは全国でも数えるほどしかいませんからね。全く真似しなくていいですよ。あくまでイルカとの親和度を見せてもらうための試験です。ここで経験していただいておけば、採用後の育成もスムーズになりますし」
海原の説明を聞きつつ、蒼衣の目は凪を探していた。彼女は
「バンドウイルカという種は温厚で人懐っこい性格と言われていますが、イルカやシャチが人を殺した事故もあります。これから三十分間の練習時間を設けますが、何かわからないことがあったり、身の危険を感じたりしたときはすぐに指示を仰いでください」
海原のいきなりの真剣な声音に一同緊張が走る。あれだけの馬力を持つ獣だけに、愛情表現でさえ人間の体はひとたまりもないだろう。
時刻は午前九時を回ったところだった。海鳴水族館は九時半開館。試験日はイルカショーの回数を午前中減らすことで、採用試験の時間を
そこまでするなら日を改めればいいのに、と蒼衣は思った。また
それとも本当に、最初から演技の出来は重視していないのか? ならなぜここまで立て続けに受験者が落ちている?
頭を悩ませているうちに、海原によって受験者たちにイルカが割り振られた。蒼衣には根回ししていた通りビビが指定される。
先ほどのエキシビションの衝撃と、不透明な最終試験の合格基準。色々な感情がごっちゃになって、蒼衣の頭の中は散らかっていた。練習時間の開始が告げられ、
あれがどうしても、忘れられない。
「どうしました?」
柔らかくも
「気分が良くありませんか? あれだけ長時間息を止めた後も、続く試験で潜りっぱなしでしたもんね」
「ああいえ、ぜんぜん、体はなんとも」
へりに手をかけて上ろうとする凪に、蒼衣は反射で手を差し出した。「ありがとうございます」とはにかんで凪が手を取る。引き上げてもほとんど重さを感じなかった。
「彼女があなたのイルカです。とてもいい子ですよ」
凪に示されたイルカと目が合う。ビビ。エキシビションの最後に凪を打ち上げたイルカは、たぶんこいつだ。イルカの見分けなど全くつかないが、あの瞬間は写真のように頭に焼き付いているから、蒼衣には妙な確信があった。
あれだけのショーを見せつけられてしまっては、もうその能力を疑うことはできない。
「ビビ、さっきは悪かったよ」
珍しく素直な気持ちになって蒼衣はビビに先ほどの非礼を
──よく見たらお前、けっこうかわいいじゃんか。
ふっと頰を緩めた、次の瞬間、ひたいにハンマーで殴られたような衝撃が走った。たまらず悲鳴を上げて
「いってぇ!?」
ビビがあろうことか頭突きをしてきたのである。正確には
「こんにゃろ、人がせっかく仲良くなろうと……」
「ふふ、今のは頭突きじゃなくて、チューですよ」
背後で凪が楽しそうに笑う。
「い、威力強すぎませんか……」
「勢い余っちゃっただけでしょう。少し顔を引き気味にして受け止めなきゃいけません。そうすると」
吹き飛ばされた蒼衣の代わりに前に出た凪が、ちゅっちゅっ、と唇で小さく音を鳴らした。ビビが勢いよくその口吻を伸ばして飛び上がってくる。凪はそれに合わせて少し体をそらし、ビビを包み込むように受け止めた。
目を閉じた凪の唇と、ビビの口先がピトッと触れた。それはほんの一瞬のことだったが、スクリーンショットのように蒼衣の頭に焼き付いた。それは写真集の見開きを飾れるほど、絵になる光景だった。
「このように、口同士をつけることができますよ。ビビちゃんはイケメンさんが好きですから、ぜひやってあげてください」
「は、はい……」
蒼衣は口をあけて
「頑張ってくださいね。応援してます」
魅惑的な笑顔を残して凪が去っていった。試験官の立場として一人の受験者と長く関わってはまずいのだろう。彼女が背をむけたのを確認して蒼衣はビビに向き直った。
「さあビビ、来い!」
凪がやっていたように唇で音を鳴らしてビビを誘う。ビビは目を輝かせると、弾丸のごとく飛び出して蒼衣の眉間に突撃した。
「いてぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
(続)
***
【続きは2018年4月25日刊行『ドルフィン・デイズ!』著:旭晴人(角川文庫)でお楽しみください】
カクヨム書籍化作品ページ: https://kakuyomu.jp/publication/entry/2018042001
ドルフィン・デイズ!【角川文庫版】 旭 晴人/KADOKAWA文芸 @kadokawa_bunko
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