Marine Blue⑧


「海原さん」


 プールサイドに立ちイルカたちに魚を食べさせていた海原に、蒼衣は声をかけた。


「おっ、蒼衣君。順番はもう決まったのかい」


「ええ。俺は最後です」


「あらら、そりゃ責任重大だね。緊張するかもだけど頑張って」


「はい。ところでこのイルカたち……名前ってあるんですか?」


 プールのへりに立つ海原の前に、行儀よく横一列に並ぶ四頭のイルカ。きゅるんと潤んだつぶらなひとみで、海原の手にある魚の入ったバケツを凝視している。

 さっきはすごい存在感だと思ったが、今は餌をねだるだけの、なんてことないにゆう動物だ。そんなに賢そうにも見えないし、これと一緒に演技なんてそう簡単にできるのか。蒼衣に一抹の不安がよぎる。


「もちろんあるよ。右からモモ、トト、ララ、それからビビちゃんだ」


「見分けつくんですか!?」


 まさか即答されるとは思わず、蒼衣は驚きの声を漏らした。四頭は見た限り全て同じ種で、恐らくはポピュラーなバンドウイルカ。サイズ感もほとんど一緒だ。こんなのを一体どうやって見分けるというのか、検討もつかなかった。


「簡単だよ、みんな全然違うじゃないか。ほら、僕と蒼衣君だって全然違うだろ?」


「そういうものですか……」


 釈然としないながらも納得しておく。


「四頭いるってことは、丁度一人一頭ずつのペアができますよね。俺のパートナーはどの子なのか、もう決まってるんですか」


「あぁ、そういえばまだだね。みんなそろってから適当に割りふろうと思ってたけど……まあ、なんなら早い者勝ちで選んでもいいよ。トリは大役だし」


 思惑通りの展開に蒼衣はほくそ笑んだ。どのイルカがパートナーになるかは最も重要な問題だ。下手なイルカをつかまされてはそれだけで大きな遅れをとることになる。


「いいんですか? じゃあそうだな……海原さんのオススメは?」


「うぅん、みんなかわいいのに選べないよ」


 かわいさを聞いてるんじゃないんだよ! 蒼衣がどうにかその言葉をこらえていると、断腸の思いとばかりに海原は左端のイルカを手で示した。



 それがビビだった。



「ビビちゃんはみんなのリーダーで、賢くてとにかく優しい子だよ。初めてイルカに触れるなら、最初は彼女にフォローしてもらうのが一番じゃないかな」


 フォローという言葉に、蒼衣は面白くない気分になった。確かに自分は素人だが、演技をするのはイルカだけだろう。

 蒼衣が望むのは指示通りかんぺきな演技ができる、優秀な運動能力と知能を持ったイルカであって、そこに性格の良さなんてなんの足しにもならない。

 だがビビがこの中のリーダーだというなら、その点で申し分はないかもしれない。他の三頭がビビに勝る保証もないし、迷う理由はなかった。


「じゃあこいつに決めます。よろしくな、ビビ」


 海原の後ろを回ってビビの真正面につくと、蒼衣はかがみこんでビビにあいさつした。ビビは一瞬だけ蒼衣を見ると、すぐにプイッと海原の持つバケツに向き直ってしまった。ひく、と蒼衣の笑顔がひきつる。

 イルカは人懐っこい性格をしてると聞いたのに、まったく懐かないじゃないか。ビビの態度に腹を立てつつも、どうせ今日限りの関係だ、と思い直す。


「……期待してっからな」


 つれない横顔に吐き捨てて立ち上がると、戸部たちの順番ぎめもようやく終わったらしく三人が歩いてくるところだった。


「よし、全員揃いましたね。それじゃあ今から、最終試験のエキシビションを始めます」


「……エキシビション?」


 元の隊形に整列した蒼衣たちが、口を揃えて疑問を発する。


「いきなり演技をしろと言われても難しいと思いますので、まずはウチの両エースが見本を見せます。参考にしてください。じゃあなぎちゃん、あらし君、よろしくー!」


 海原が背後に向かって手を振る。それで気づいた。いつの間にかプールの対岸に凪と黒瀬が並んで背筋を伸ばし立っている。四頭いたイルカたちも、やがて二人のすぐそばの水面に顔を出した。

 イルカたちの表情が、先ほどと打って変わってせいかんに引き締まっているような錯覚を蒼衣は覚えた。凪と黒瀬が同時に右手を掲げる。そして、凪の口にくわえたオレンジ色の笛が、鋭く高らかな音を響かせた。

 笛の音に合わせ、一糸乱れぬ動きで凪と黒瀬が手を伸ばす。下に向けたその手のひらに、吸い寄せられるように二頭のイルカが勢いよく飛び出し、キスをした。


 目を疑った。


 イルカたちが助走をつけた様子は全くないのに、胴体の八割以上が水から浮き上がったのだ。あんな細っこい尾びれ一本でそんな力が出せるものなのか。

 沈み込んだ二頭がみなそこに消えると、残る二頭も同じようにして後を追う。プールをのぞき込むと、多少の屈折はあるが、透き通った海水の向こうで四頭が優雅に群泳する様子が確認できた。


「みなさんおはようございまーす! 本日は当海鳴水族館にご来館いただきまして、まことにまことにありがとうございます! 当館自慢のイルカちゃんたちの頑張る姿、ぜひ目に焼き付けて帰ってくださいねー!」


 ──びっくりした!


 すぐ近くの海原が、拡声器なしとは思えない声量で突然叫び出したのだ。高くてよく通る声だ。


「まずはぁ、イルカちゃんたちからみなさんへ挨拶がわりのー……」


 ハイテンションで海原がこぶしを突き上げた瞬間、静かなすいめんから、一斉に生命の塊が飛び出した。

 蒼衣の全身を突き抜けた衝撃は、通った先から肌をあわたせた。鳥肌なんていつぶりだ。優に五メートル以上も舞い上がった黒い獣は、最高点で鮮やかに弧を描いて水面にダイブした。大量の水飛沫しぶきが跳ねる。


「すっ……げ」


 これがさっきまでのなイルカか。とてつもない存在感と迫力に、ただただ蒼衣は圧倒された。ほうけているうちに四頭は再び十分な加速を得ていた。


「特別サービス、もう一ぱーつ!」


 水面から発射された巨体は先ほどより一メートル近くも高く空を舞った。この屋内プールの天井がやけに高い理由がようやく分かる。蒼衣たち四人は、無意識にえていた。


 一際すさまじい水飛沫が全身に降りかかるのも構わず、蒼衣はイルカの次の挙動から目を離せなくなっていた。四頭は凪たちの元に戻ると、ご褒美とばかりの魚を与えられてご満悦の様子だった。

 イルカの能力は蒼衣の想像をはるかに超えるものだった。キャッチボール、フリスビー、時間差ジャンプ。その後の演技のどれを取っても大迫力。

 かと思えば、ピンポイントで蒼衣たちに向け手を振りながら水面に顔を出して泳ぐ、という可愛らしいパフォーマンスも合間に挟まれ、その芸達者ぶりには舌を巻かざるを得なかった。


 海原の進行も見事だった。どれだけ高速で入り乱れていても四頭を正確に見分け、それぞれのイルカを適切に紹介していく。時には軽快なジョークを飛ばし蒼衣たちを湧かせた。

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