二人の輝き
刻一刻と時間が減る。
ロウソクの炎が揺れ、蝋が溶けて、どんどん短くなるように師匠の持ち時間が減っていく。
ふぅーふぅーとぷくりとした頬から、空気が漏れる。
呼吸が短く、浅い。
マラソンでも走ってきたのか、呼吸が苦しそうで、顔はお風呂上がりのように真っ赤で、額には粒上の汗がいくつも滲み出ている。
それでも師匠は倒れることなく、椅子に座り、パシリっとしっかりと駒を指す。
だが、ピシッとすぐに指し返される。
師匠が命と同等の時間を削り、知恵熱で沸騰する頭と枯渇する酸素をなんとか全身に回そうと心臓をフル回転させ、導き出した。
今までの知識と読みとを混ぜ和せた、一打一打が、まるでバカしているかのように、指しても指しても、すぐに指し返される。
もうその手は、お見通しですよとでもいいたげに。
苦しむ師匠とは反対に、雪未ちゃんはパタパタと優雅に扇子を扇いでいる。
局面は・・・・・・駒と駒がぶつかっていないところがないくらいに混沌として、お互いの玉も囲い、まともな守備陣形も取られておらず薄い。
ようは、素人に毛が生えたぐらいの僕では、どちらが有利か分からないだ。
だが、それは、
「これ、胡桃ちゃんのほう詰んでない?」
「いや、詰めろでしょ。即詰はない!・・・・・・はず」
「むしろ雪未ちゃんのが、桂馬からいけば・・・・・・」
とギャラリーたちのひそひそ話が耳につく。
形勢は難解のようだ。もしかしたら、雪未ちゃんの早指しは空元気なのだろうか!と思った時だった。
くいっと、袖が引っ張られる。
えっと思った見れば、晴天の空よりもさらに青い紺碧の瞳。
対戦しているはずの雪未ちゃんと目があった。
なぜ?と紺碧の瞳に反射して移る間抜け顔の僕が問うている。
「わたしね、初段になるなら3切れが一番だと思うわ」
「えっ」と驚きの声を上げる。
僕の頭が混乱する意味が分からない。
それは、初段になるならとか、なぜ3切れなんだとかということではなく。
なぜ、対戦中に話しかけてくるのか。
対戦中は全身全霊を持って、戦うものだ。
けして片手間にしていいものではない、将棋はそんなに甘いものではないし。
ましてやはなにより対戦相手に失礼だ。
これは流石にマナー違反と言えるだろう。対戦中だが、大人として窘めるべきだろう。
「雪未ちゃ―――」
「それでね」
手の甲に広がるひやりとしたそれでいてモチモチとした感触。
某、凍った大福菓子を連想させるような気持のいい感触、それに思わず出かかった言葉が引っ込んでしまった。
ずっとすりすりとしていた感触だ・・・・・・じゃなくて!
雪未ちゃんのぷにぷにとした頬が手の甲の上に乗せられ、あろうことかスリスリとされている。
それと同時に、ひそひそひそという喧騒が増していくのを感じた。
盤面も終盤に入りつつある、きっとみんな寄せ方の議論に白熱しているんだな!そういうことにしておこう。
ちなみに横のお爺さんは怖くて向けなかった。
「嵌め手をいっぱい教えてあげるわ」
一体こんなおっさんの手が何がいいのか、猫が撫でてとせがむようにスリスリと頬を擦り付ける。
「先手でも、後手でも、それぞれ使い分けれるように」
僕の体温が交わるように、雪未ちゃんの冷たかった頬が徐々に熱を帯びてくる。
それだけで溶けてしまいそうなほどに繊細な肌が、ずっとこうしていて欲しいと思ってしまう手触りの良さ、それを見透かされたのか、紺碧の瞳が笑みを浮かべてこちらを見ている。
上目遣いのそれは、とても艶やかでいて、・・・・・・くっ相手は女子小学生だぞ!!
落ち着け、俺。
まずは深呼吸ついで、対局に集中するように雪未ちゃんにビシッと言うんだ!
すっはぁーすっはぁー、よし!
「ゆ、」
きみちゃんと言おうと意を決した時、「ふんっ、つまらないの」と雪未ちゃんの頬の感触が手の甲から離れる。
雪未ちゃんの目はもう僕を見ていない。
釣られるように、雪未ちゃんの視線を追うとそこには、師匠がいた。
顔はお風呂上がりのように真っ赤で、額には粒上の汗がいくつも滲み出ていて、苦しそうに息をしている。
それでもはち切れんばかりに頬を膨らませ、盤面をのぞき込んでいる。
ギャラリーたちの圧も喧騒も、さきほどの雪未ちゃんの番外戦術をも、師匠の目にも耳にも入ってない。
ただ、眼前に広がる。
9×9マスの81マス、大きさ5寸(横33.3cm×縦36.4cm)程度の小さくそれでいて宇宙のように広い可能性に満ちた盤面を延々と見つめている。
小さな女の子。
師匠の額の汗が涙のように頬を伝い、顎にたまり、雫なって落ちる。
背なんか僕の腰ぐらいまでしかない、女子小学生が、命を燃やして深淵を少しでも覗こうとするかのな、気をつけなければ深淵にさらわれるか、命が燃やし尽くされてしまうそんな危うさを感じてしまう。
そして同時に、そんな危うさが儚くも美しくも見えた。
師匠が、盤面に指を伸ばす。
小さな指が光を纏っているように見えた。
まるでオーケストラを始める指揮者のように、駒(タクト)を振るおうとしているかのうように、その指揮を舞っている。
僕も、隣のお爺さんも、周りで見ているギャラリーも、
そして、雪未ちゃんも。
いつのまにか、世界から喧騒は消えていた。
神聖で、静寂の世界。
だが、ピッとそんな世界に亀裂を走らせるように音が鳴る。
チェスクロック、無情な時の番人は、師匠の残り時間が1分を切ったことを知らせる。
師匠もそれを聞いて、駒(タクト)を思いきり盤面にぶつける。
――――残り59秒。
気合の乗った渾身の一手、王手が入る。
勝てるのか、師匠は。
ただ将棋において、王手は終わりではない。
完全に詰まされなければ、ほかの駒を捨ててでも、王さえを守れれば勝ちなのだ。
王がほかの駒を見捨てるのも、王がそうそう早逃げるするのも、勝てれば将棋としては、是なのだ。
そんななか、雪未ちゃんは師匠の王手に一番強い手で応じた。
王手をかけてきた駒を王自信で取る、いわゆる顔面受けと言われる強い手だ。
そう王は、守るべき駒でもあるが、全方位どこでも進める強い駒でもある。
「時間がないからって思い出王手っていうやつかしら。来なさいよ、受けきってあげる」
そう言う雪未ちゃんの残り時間は8分以上ある。
それなのに師匠の渾身に見えた一手をしてももうすでに雪未ちゃんは読み切っているのか、すぐに応じて優雅に2~3秒使ってチェスクロックのボタンを押す。
だめ、なのか・・・・・・そう思った時、
まるで弱気になる僕を𠮟責するかのようにピシッと駒音がなる。
この対局が始まって初めてかもしれない。
雪未ちゃんの指し手に師匠がすぐに応手したのは。
時間は残り58秒。
「ふぅ~、全駒される覚悟はあるようね。詰まないわよ」と雪未ちゃんが余裕たっぷりにその白魚のように細くきれいな指を伸ばす。
師匠のあがきを、息の根を止めるために、首にてかけようとしたとき、
「つま・・・・・・ない」
雪未ちゃんの指が止まる。
先ほどまでフルスロットルで動いていた機械が徐々にその動きが止まっていくように
、次々と動作が止まっていく。
「嵌手一生」と書かれた扇子の扇ぎ止まる。
視線は、盤面へと落とされ止まったまま、
呼吸すらも忘れているのか、先ほどまで挑発的に囀っていた声も聞こえない。
ギャラリーがその喧騒を取り戻す。
「これ、即詰なんか?」
「いや、さすがに一手あましてるだろ」
「ここは、こうで詰みだろ」
「それはこっちに逃げると?」
「そ、そっか。じゃあ詰みはないか」
「先生、先生は、どっちが優勢と見てますか?」と中学生ぐらいの年の男子が話しかけてきた。
一瞬えっ、俺と思ったが、どうやら話しかけているのは、僕の後ろの老人のようだ。
「さぁどっちでしょうね。私もまだ読み切れてませんよ」と答えた。
「まさか。志摩九段先生ならすぐでしょう。で、どうなの?詰んでるですか?」とため口と敬語が混ざり合ったような少年特有の話し方で、ワクワクとした目で見られた老人は、ゴホンと咳をする。
老人ていうか、九段ってプロ棋士の先生!!
ひゃーってただの将棋好きの爺さんかと思ってたら、プロ棋士の先生だったのか。
・・・・・・なんか失礼なことをしていないよな。と僕は今までのやり取りを一つ一つ思い出していく。
「はいはい、皆さん。白熱するのは結構ですが、対局二人の邪魔はいかんですよ。検討したいなら、ほら、あっちあっち」
軽くパンパンと手をたたくと、ささやき声ではななくなりつつあった喧騒が引っ込み、人山が一部欠けだす。
どうやら、即詰がないか盤を出して検討するようだ。
質問してきた中学生もそこの輪に加わっているようで、そんな様子を老人、志摩九段は微笑ましいそうに見ていて、なんとなく目があってしまった。
何と言っていいのか、日本人特有の薄ら笑いと会釈がしてしまう。
「えっ~と、ぷ、プロ棋士の先生だったのですが、それも九段の・・・・・・存じ上げずすみません。失礼がなかったでしょうか」
すると、老人が意外そうな顔をしてからほほ笑む。
「そんなかしこまらないでください。タイトルも取ったことがないせいぜい将棋界に長くいるだけで貰ったようなものですよ」
と笑う。
謙遜に聞こえてしまう。
将棋界には、順位戦と呼ばれるリーグがあり、ここで一定の成績を収めなければ、降格処分があり、一定の年数を持ってプロではなくなってしまうというルールがあるのだ。
そのため将棋界に現役で居続けられるということは、プロ棋士の中でも勝率をキープしているということであり、つまりすごいということだ!
ピッとチェスクロックがなる、雪未ちゃんの時間は、・・・・・・いつのまにか5分を切っていた。
それでも、雪未ちゃんは指さない。
いつの間にか、嵌手一生の扇子は閉じられ、扇子の先を甘噛みしている。
先ほどの師匠が味わったように、今度は雪未ちゃんが味わう。
死神の足音が、刻一刻と近づいてくる。
しかも、普段無音なはずのそれは、時折思い出せといわんばかりにピッとなる1分の消化を告げる音を奏でる。
一瞬はっとした表情で雪未ちゃんがチェスクロックを見れば、時間は4分を切っていた。
それを確認して、指そうと伸ばした手が虚空をさまよい、引き戻される。
戻した手を見れば、着物の裾に皺ができるほどに握りこまれていた。
新雪のように白い手が、握りこまれて今は真っ赤になっている。
ピッと、死神がその無情な鎌をちらつかせる。
検討チームも詰を発見できてないのか、何人かが戦況が動いてないかどうかちらちらと見にきている。
そしてついにピッと2分を切る音が鳴ったとき、雪未ちゃんが動いた。
玉を逃がす。
師匠が追う、雪未ちゃんは逃げる。
駒の損得とか、形勢とかそんなもの一切合切無視して、頭を抱えて逃げるように端へ端へと逃げ切る。
現実だったら、逃げきれたかもしれない。
だが、将棋というフィールドは、81マスに限られる。
ついに雪未ちゃんの玉は端に追いやられて、師匠は雪未ちゃんの玉の逃げ道に蓋する。
どんなに強い駒を使おうと、受けはない。
次で確実に雪未ちゃんの玉は詰む。
この状態を必至と呼ぶ。
これが詰めろであったならば、まだ逃れる可能性があった。
だが、必至にはない。
リーチ、チェックメイトだ。
雪未ちゃんは、あの時この状況の未来を垣間見えていたのだろう。
だから、指すことができなかったのだ。
だから、雪未ちゃんは、震える指で駒を、でもしっかりとつかんで、
盤面に叩きつける師匠の玉の真正面に、顔面を殴りつけるように。
「ま、まだ負けてない」
雪未ちゃんの叫ぶような反撃が始まった。
指すごとに、熱を増していった。
雪未ちゃんの玉は必至つまりは、手番を師匠に渡せば詰むということだ。
雪未ちゃんが勝つには、それによりも早く、つまりは即詰に追い込まなければならない。
指すたびに、二人の汗が飛び散る。
虚空に舞って霧散するたびに、師匠の命が削られて、小さくなって消えてしまうじゃないかと思ってしまう。
雫となって地に落ちて破裂するたびに、雪未ちゃんの命が溶けだして、消えてしまうじゃないかと思ってしまう。
それでも二人は指し手を止めない。
一手間違えれば、即死つながるような、王手の数々。
引き金を引き続ける雪未ちゃんに、躱し続ける師匠。
玉、命のやり取りをしているような死の舞踏を踏む二人は、語彙の少ない僕の言葉で表せないが、美しかった。
それは、周りもそうだったのだろう。
その気迫に、その魅力に、魅了され、周りのギャラリーはもちろん。
検討していた人たちや、自分たちの対局を掘っぽりだして観戦している人もいる。
いや、受付のおねぇさん、あなたは席を外れしまってはだめじゃないですか。
なんて言えない。
九段まで上り詰めた海千山千のプロ棋士の先生。
きっと僕なんかと違って、もうこの戦いの結末を読み切っているんだろう。だというのに、戦いの生末を固唾をのんで見守っているようだ。
後ろ手に固く組まれた手がそれを物語っている。
そんな場にあって、僕の胸にいいようのない感動が去来していた。
それはそうだろう。
こんなにも人を、将棋の好きな人たちを、いや将棋に興味を持たない人たちでも惹きつけられるに違いない魅力に満ちた二人。
指したら、すぐに指し返す。
剣戟にも似た殺陣の中、輝く二人の演者。
売り言葉に買い言葉で始まったかもしれない。
二人とっては実は普段のじゃれ合いかもしれない。
それでもこの二人は今、僕のために戦っているということに。
涙が出そうになる。
頭が、体が、心が、
マグマのように煮えたぎる。
自分の顔に流れるのが、汗なのか、涙なのかが分からなかった。
一つだけ、分かったことがある。
二人は、女流棋士になれる。
いやなれなきゃおかしい。
こんなにも将棋を愛していて、こんなにも魅力的な二人を将棋の神様が愛さないわけがない。
師匠、僕は頑張りますよ。
頑張って早く初段になります。
そしたら・・・・・・。
僕はある思いを胸に、決意する。
師匠と僕の未来を想像して。
「いよいよですか」と志摩九段のつぶやきに我に返る。
師匠と雪未ちゃんの対局をもっと見ないと、ポケットの中のハンカチで汗だが涙だが鼻水だが分からない何かをふき取り、盤面を見やる。
これは、師匠が防ぎ切った。
雪未ちゃんの勝負手、駒同士が連携していない所謂タダ捨てと呼ばれる手筋。
タダ同然の銀を師匠は、取らず、玉を逃がした。
玉の早逃げ8手の得という格言がある通り、師匠の即詰はま逃れた。
たいして雪未ちゃんの玉は必至、つまり師匠は勝ったのだ。
やりましたね、師匠!そう声をかけそうになった時、師匠の目が、体の姿勢が、頬も膨らんだままで、まだ戦いが終わってないことを告げていた。
どういう、
「まったく、油断もしてくれないの、ね!」
再びタダ捨て。
頭金、これは取らないわけにはいかない。
だが、文字通りのタダ捨てだ。
それで師匠が負けたりはしないし、師匠がすぐに取ってチェスクロックを押す。
・・・・・・チェスクロック、まさか。
チェスクロックに表示された残り時間は、30秒を切っている。
たいして雪ちゃんは1分弱。
そのまさかの予想を肯定するように雪未ちゃんはバシバシと駒台から、投げつけるようにタダ捨ての王手を繰り返す。
これは、ハチワンウォーズ特有の技。
僕も3級昇級の際やられた、通称王手ラッシュ。
時間切れ負けの勝負の特性上、将棋に勝てなくても勝てる手段。
だから、ネット上でも切れ負けは将棋じゃないと主張して指さない人もいるぐらいだ。
だが、そんな卑怯ともいえるような、まるで子供が負けたくないと駄々をこねるような王手ラッシュを、みんな、咎めるでもなく批判するでもなく、ただ傍観者の一人として戦いを見つめていた。
「いいじゃない、巧ぐらいくれたって」
「いや」
「ケチ!このカエル!!」
「むぅ、リス!」
「うぅ、に、人気者の胡桃ちゃんには分からない!」
「に、人気者なんかじゃない!」
「嘘、この間クラスで取り囲まれてたじゃない!」
「あ、あれ違う!」
「何が違うのよ!」
「うぅ~、違うの違うの違うの!」
「西山さんなんかいつも胡桃ちゃん胡桃ちゃんって言ってるじゃない!」
「か、関係ない!」
「これしかない、私にはこれしかないの!」
「そ、そん」
「そんなことある!」
雪未ちゃんの口撃に師匠がたじたじになっている。
これは、果たして将棋なのか、雪未ちゃんが着物袖で取った駒を見えないようにしながら、玉の8方向から不意打ちの王手をかけて時間を削る。
師匠はそれにすぐに応手する。
もはや、瞬発力のゲームと化していた。
はぁはぁとお互いの息も荒い、決着がつく前に二人とも倒れてしまうんじゃないかと思ってしまうほどに疲弊している。
それでも二人は指し手を止めない。
そしてついに、雪未ちゃんの駒台に乗っているのが残り1枚になる。
文字通り歩一枚たりとも余っていない。
これを打てば雪未ちゃんの負けは確定する。
だが、すべての駒を犠牲にしてあがいた結果、師匠の残り時間は1秒となっていた。
決まる、この一打で。
「私は、胡桃ちゃんには負けたくない!」
ビシィイイイと雪未ちゃんが叫びと共に駒を打ち付ける。
どこだ!
師匠なんでもいい、はやく駒を動かして。
雪未ちゃんの打った場所。
誰もが最後の王手をしてくると思っていた。
それは、奇しくも僕が3級に昇級するときと同じ場所だった。
必至の隙間、玉の近く、9八銀と駒を打つ。
それは、詰将棋の世界においては無駄合いと呼ばれる手で。
「9八龍」
師匠の声が、けして大きくはない。でもはっきりと将棋教室に響いた。
ビィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイと時の番人(チェスクロック)が勝負の判決を下す。
将棋は、発生でも着手したと認められる。
つまり、師匠は死神の鎌が振るわれる前に勝利をしたのだ。
ビィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイと鳴りやまないチェスクロックの音の中、琥珀色の瞳と紺碧の瞳とが見つめ合う。
そのきれいな目で何を語ったのか分からないが、負けた。
紺碧の瞳、雪未ちゃんは静かに頭を下げて、「負けました」と震える声で言った。
瞬間、「わぁああああああ!!!」という歓声と拍手で健闘した二人を支え合うギャラリー。
「やっぱり二人の対戦はすごいな!検討しよ、検討」
椅子の背もたれに倒れる師匠、おいそこのガキ、きやすく師匠の肩を叩くんじゃない!
「いいものを見せてもらいましたね」と志摩九段も優しくほほ笑む。
万雷の拍手の中、疲弊しきったはずの師匠がこちらを見やる。
扇子を広げ、恥ずかしそうに口元を隠す。
でも目はまっすぐにこちらを下からねめつけられる。
「巧」
「はい、師匠!」と社会人のパッシブスキルが発動して直立不動の姿勢を自然と取らせる。
「そう、ここれでね」
ここれで?
「わ、わたしが巧の師匠なんだからね!」
と怒ったように頬がぷくっーと膨らむ。
それはそれは可愛らしくて、思わず頬が緩みそうになる。
そんな時、ガタっと椅子が倒れる。
「雪未ちゃん!」
椅子を倒して、走り去ろうとする雪未ちゃんの腕をとる。
先ほどの熱戦が嘘のように、雪未ちゃんの腕は細くて小さくて、氷のように冷たい。
「はなして」
嫌だ!そう言おうとしたのに、雪未ちゃんの、頬を流れる涙。
それを見た瞬間、捕まえた雪が手のひらで溶けてなくなるように、雪未ちゃんの腕を離していた。
冷ややかな感触の余韻を残して、「さようなら」と雪未ちゃんは、地落ちた雪の欠片のように、溶けていなくなってしまった。
「雪未ちゃん・・・・・・」と口で呟くと、「巧」と師匠の呼ぶ声に振り返る。
疲弊した胡桃ちゃんをおもんばかってか、志摩九段がホワイトボードを持ち出し、磁石で出来た大きな将棋の駒を持って、先ほどの対局の振り返り、大判解説を始めてくれたおかげでギャラリーはみんなそっちに集まっていた。
ふぅーふぅーと息を整える小さいわが師匠を見ながら、倒れた椅子を戻して正面に座る。
そこに残された熱が雪未ちゃんの存在を肯定してくれた。
そう確かに、雪未ちゃんは存在した。
幻でも、雪でもない。
その残りの熱を感じていると、
「巧ぃ~」と師匠がじぃーっと琥珀色の瞳でこちらを見やる。
ひぃ!師匠、誤解です。
僕は決して女子小学生の残り熱を堪能していたわけではなく、
「私があんたの師匠なの」
「はい、師匠」
その師匠のまっすぐで純粋な瞳。
それなのになんて自分は邪なことを・・・・・・だから誓いを口にする。
「はい、初段になるその日まで師匠についていきます!」
宣誓、それに師匠はぷくっーと満足げに頬を膨らませながら、ぷいと顔をそむける。
「わ、分かっているのならいいの」
扇子で顔を半分隠しながら、そう短く告げる師匠。
ほんと、可愛いたらありゃしない。
「だから、巧もここにいてね」
「・・・・・・? はい、もちろんですが。まずは休憩しましょうよ、師匠。ジュースでも買ってきましょうか」
「いい。次の、対局があるから」
「つ、次の対局?!」
おいおい、いくらなんでも無茶だろ。
こんなに疲弊しているのに、師匠は勝ったが死にたいだ。
よしんば戦っても先ほどのように、まともには将棋は指せないようだろう。
だが、師匠は小さい体に鞭を打つように椅子に座りなおすと、
琥珀色の瞳で、こちらを見て「逃げないでね」と言う。
えっ、何からですか。とさきほどの誓いを撤回して逃げ出したくなるような謎の悪寒にさらされていると、コツンととがったものが床をたたく音が聞こえた。
コツン、コツン、と鳴るそれは、社会人になると自然と聞きなれたもので、
ヒールがフロアを踏む音だ。
そして、僕ぐらいの社会人になるとコツンの調子で喜怒哀楽が分かるほどだ。
ふっ、伊達にオフィスでお局様をはじめとするおねぇ様方を相手にしてないぜ。
そして、このコツンは、ある種の怒り?をひめているように思える。
つまり最悪だということだ。
うーん、どうしたものかなと思っていると、腕をガッとつかまれる。
師匠だ。
どうやら、絶対逃がさないということだろうか。
そんな風に思っていたが、師匠の手が震えている。
あの何事にも動じなさそうな師匠が。
こんなにも震えていたことがあっただろうか。
いや、一度だけあった。
それは、忘れもしない3級の昇級戦。
ファミレスで門限を過ぎた時と分かったときの師匠だ。
ということは、つまり、このコツンは、
「ああ、本田さん、お待ちしておりました。どうぞ」
「志摩先生、ご無沙汰しております。失礼いたします。」
気づけなかった。
いつの間にか現れた志摩九段が、女性をエスコートしていた。
椅子に座ると、女性がこちらをみやる。
師匠と同じ、琥珀色の髪と瞳を持つ女性が言う。
「どうしたの、胡桃。あなたも早く座りなさい」
そう告げられた師匠がビクンと体を跳ねさせる。
そして「はい、おかあさん」と僕の予想を肯定するようにつぶやいた。
やっぱりか。
志摩先生に、師匠、そして師匠のお母さん。
完全に三者面談だ。
うん、僕には関係ですよね、師匠!と師匠が僕の腕を引っ張りながら引きづるようにいく。
あっーそうですよねー。
こうして奇しくも僕は師匠とともに1日で2回目の大勝負に挑むことになったのだった。
師匠と僕 ロータス @lotes
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。師匠と僕の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます