師匠の弱点
「こ、これは・・・・・・」
観戦者は、対局者の集中力を妨げないよう静かにしなければならない。
そんな当たり前のことが分かっていながら、その盤面を見て思わず漏れるように声を出してしまった。
雪未ちゃんの1手パスのような手から、師匠は当然のように角交換。
交換した次の手から敵陣に角を打ち込み、最強の駒の一つである馬を作る。
ほほノーリスクだ。
素人に毛が生えたような僕でさえ思いつくというより指してみたくなる手。
当然、師匠も雪未ちゃんも分かっているはずだ。
師匠もしばしの黙考から、ピシッと指す。
それに雪未ちゃんもピシリと指し返す。
当たり前の手に、当たり前の応手、そして現在。
雪未ちゃんと師匠合わせて、計13手。
そこで指したらすぐに指し返す、応手の繰り返しが止まる。
13手目つまり雪未ちゃんの手に、師匠が即座に指し返せないのだ。
素人の僕からしたら、ここからどっちを持って指してみたい?と聞かれたら、雪未ちゃんの盤面でスタートしてみたい、そんな考えがよぎる。
師匠の盤面には、最強格の駒馬がいるにもかかわらず、べつに駒損をしているわけでもない。
当たり前の応手を続けたはずなのに、いつのまにか不利に見える局面になっていた。
わずか、13手で。
これは、と呟かずにはいられない。
まるで魔法だ。
これが、
前のめり過ぎてそのまま盤に顔を突っ込んでしまうんじゃないかというほどに、顔を近づけて真剣に見る師匠。
それに対して、雪未ちゃんは余裕の表情で、パタパタと扇子で仰ぐ。
扇子に書かれた揮毫は、嵌手一生。
嵌め手、相手にわざと隙を見せて誘い込み作戦勝ちを狙う奇襲戦法。
あの師匠をして、わずか序盤にして苦しんでいる。
これが、嵌め手か。
その威力を目のあたりにして、この局面からどう手を作っていくか。
あの手、この手と考えるが、この握れば折れてしまいそうな細腕に、触れればと溶けて消えてしまうじゃないかというほどに儚い少女に、全て見透かされているような錯覚を覚えてしまう。
何を指しても、余裕の表情で、すぐに指し返されるような。
相手の応手を事前に調べて対策しているいわゆる研究範囲なんではないか。
童女のような無垢さと、子供特有の虫をいたぶって殺すような容赦のなさで、完封される想像が容易にできてしまう。
だから、師匠もなかなか次の一手が指せないんじゃないか。
あんなに強い師匠が、大人相手にだって負けたところなんて見たないのに。
いま、なんて?
師匠が負ける・・・・・・?
雪未ちゃんの賭け。
それは、つまり師匠が師匠でなくなる?
その想像した時、自分の心に言い知れぬ味わったこともないような感情が沸き上がってきて――――。
「―――ほう、トンボ刺し。それも平手ですが。はぁははははっ雪未ちゃんはあいからわず奇襲戦法が好きですな。ねぇ~?」
「・・・・・・えっ、あっはい」
と突如横合いに現れた老人、その人に急に話しかけられて思考が戻る。
無意識に、社会人のパッシブスキルでもって、なんとか返事をする。
渦巻いた感情、それが霧散していくのを感じる。
今は自分のことより、師匠だ。
・・・・・・いや、まぁ別に雪未ちゃんが敵ってわけではないんだけど。
まぁ立場上弟子だしね。今は局面に集中しようと思った。
「トンボ刺しという戦法だったんですね。知りませんでした」と素直に言うと、老人はニッコリと笑い二人の邪魔にならないように小声で教えてくれた。
トンボ刺し。
駒落ち対局(ハンデ戦)において上手(駒を落とすほう)が飛車落ち対局で使う有名な嵌め手だそうだ。
そんな有名な嵌め手であるならなぜ師匠は・・・・・・自分が先ほど戦った新鬼殺し戦法のように嵌められてなお、倒せると思ったのだろうか。
いや、雪未ちゃんの嵌め手は自分のようなニワカ仕込の定跡だけとりあえず覚えました。みたいなものとは訳が違う。
そんなことは師匠だってわかっているはずだ。
ならなぜ・・・・・・。
「・・・・・・あっ、もしか―――」
慌てて両手でもって口を塞ぐ、二人の対局を邪魔しないように。
それをまるで、生徒がひらめきをそれを喜んでいるのを微笑ましく見る教師のような顔で老人が見ていて、少し恥ずかしくなった。
いままで見てきた師匠の対局、見知らむ大人や僕を指導するとき、師匠はいつだって、全力でそれでいて、・・・・・・いつも決まっていて“平手”だった。
師匠は、駒落ち対局の経験がない?!
ここの教室でも人がすくなく実力差がある相手と戦う時は、駒落ち対局が組まれることがある。
師匠とて全くないわけではないだろうが、経験値としては不足しているのだろう。
雪未ちゃんの嵌め手・・・・・・それも平手対局でわざわざ駒落ち対局の嵌め手を起用することによって成立する確率を上げたんだ。
まさに、雪未ちゃんの作戦勝ち。
駒を落としたほうが、当然最初から不利だ。
そのハンディキャップをも埋めるために編み出された戦法。
それがトンボ刺し。
嵌め手・・・・・・決まればその時点で勝負がつくほどの差が生まれる戦法。
その嵌め手が、・・・・・・平手つまりハンディキャップがない戦いで使われ、決まっている。
当然、ハンディキャップ差がない平手で決まればそれは駒落ち対局の時の差の比ではないだろう。
平手トンボ刺しが決まった今、わずか13手にして師匠は・・・・・・。
自分程度の棋力ですら雪未ちゃんの形勢がよさそうなのは分かる。
つまり自分よりも棋力の高い師匠は、よりその差を痛感しているはずだ。
しかも今回は、15分の切れ負けルール。
時間が切れても負けなのだ。そうすると早指しを心掛けないと将棋にすらならない。
初の局面に考え込む師匠に対して、雪未ちゃんは自分の庭同然の返しだ。
ダメだ。考えれば考えるほどに師匠の負ける未来しか見えない。
そう思うと、なぜか心の一部が痛む気がした。
別に自分が負けるわけでもなければ、傷つくわけでもない。
会えなくなるわけでもなかれば、最悪約束を反故にしたっていい。
いや、そんなこと師匠が許すわけがない。
師匠・・・・・・。
胸を抑えつつ、縋る思いで師匠を見る。
背が僕のお腹がまでしかないような小さな背丈が、師匠はまだほんの小さな子供であることを分からす。
口元を隠す扇子を握る小さな手は焼けそうなほど真っ赤だ。
額には早くも珠のような汗が吹き出しはじめ、
悔しいのか、貧乏ゆすりのように体が揺れている。
盤面に落ちる師匠の瞳。
最初に会った時、いつまでも見ていたと思った、あの長いまつ毛に彩られた宝石のように輝く琥珀色の大きな瞳。
その瞳の光は・・・・・・変わらず盤面を照らすように輝いたままだった。
し、師匠?!
諦めていないのだ。
この局面は、まだ
「まぁ、時間が使ってしまっているのは少々不安ですが、まだまだでしょうね」
と肯定するように老人がつぶやく。
そうだ。
まだ、まだ勝負は終わっていない。
師匠、頑張ってください!
僕の応援、それが聞こえたかは分からない。
師匠のリスのようにぷっくらと膨らんだ頬が萎む。
それはまるで空手の息吹のようだった。
肺の中の空気を一度全部出すことによって、新鮮な空気をより多く取り込める。
再びリスのように頬を膨らました師匠は、宝石のような琥珀色の瞳を大きく見開いて、まるでここから反撃開始だといわんばかりに駒音高く打ち付けたのだった。
それはまるで福音のように響いていつまにか僕の心の痛みは消えていた。
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