決意
あくる日の午後。経理主任のお局様に経費精算の申請書を平伏しながら、はっはーと提出しているとポケットが震えた。
スマホに通知、見れば師匠!からだった。
ついに胡桃ママに取り上げられていたスマホを返してもらったのだろう。
うんうん、よかったよかった。と思うと同時にぶるりと震える。
なぜなら師匠からの宿題、厳選詰将棋108問がまだ30問程度しかできていなかったからだ。
まずい! どうすれば・・・この捌きの構想を脳内で描きつつ、師匠のメッセージを見ることにした。
胡桃>ママが今週は行ってもいいって!!
胡桃>1時ね!
なんの主語も脈絡もなく場所が書かれていなくても、それを聞くほど僕も無粋ではない。
!マークがハートマークに見えるほどに師匠の喜びが文からあふれ出てくる気がした。
上総>分かりました、師匠!
と短く返した。師匠とのやりとりにそう長い言葉はいらないのだ、会話は盤ですればいい・・・なんつって。
今週末に久しぶりに、・・・といっても2週間ぶりぐらいなのだが、ウキウキしてきた。
・・・別に小学生に会えるからうれしいわけではないよ。師匠と将棋ができるのがうれしいのだ。
ふっふふ、今回は雪未ちゃんに教えてもらった。あの戦法もあるしな、師匠に一泡吹かせられるかもしれないと、僕が細く笑んでいると
胡桃>詰将棋やった?
という通知が・・・。
これは徹夜かな~とオフィスの天井を見上げると、安いパイプ椅子の背もたれが不満を言うようにギシッーと鳴った。
「ぜはぁー、ぜはぁー、・・・あと10問で、・・・」
ぴろん。
胡桃>2手目33玉で詰まない。
「―――っくぅ!」
これで残り11問か。
・・・これは投了やむなしだなと、12:00のデジタル時計の示す時間を見て僕は思った。
本日は土曜日、師匠との約束の時刻まであと1時間、そろそろ駅に向かっておいたほうがいいだろうと、食べかけのカップラーメンを胃に流し込んでゴミ箱にほおりながら、僕は家を出た。
EVの呼び出しボタンを押して、外を見れば快晴のようで絶好の将棋日和だ。
まぁ、室内なんだけど。
師匠からの108問の詰将棋という修行も残すところ、あと11問。
よし、11問は無理でも少しでも終わらせよう。
EVが来る少しの時間でも有効に使おうと、さきほど否定された手順から検討していくことにした。
「ええっと、33玉と躱されると詰まないということは・・・・・・・」
思考がスマホに表示された盤に集中し始めたとき―――、
「よっ、何見てんの!」
「―――っ、うわぁ・・・・あっああ先輩。驚かさないでくださいよ、って痛ってぇ!」
「驚いたのは、こっちよ。急に叫ばないでよ!」
脛を蹴りつけてきた、手もとい足が速い海堂さんこと先輩がそこに立っていた。
羽のように広がる黒い髪を撫でつかせつつ、ふんっと鼻を鳴らすのもなんだか様になっている。
明らかに僕より年下の女の子を先輩と呼ぶのは、昔転職の合間にやっていたコンビニバイトでお世話になっていた時の呼び名がそのまま定着していたからだった。
ちなみに、先輩は今でもコンビニバイトを続けており、巷ではその清楚な感じから、虫も殺せない心優しい「黒髪天使」と崇められているらしい。
実際はこの通り、弁明を言う暇もないほどの行われる、光速流のツッコミの持ち主だ。蹴られた脛をさする暇もなく、EVがほどよく到着すると「さっさと行く!」とEVに蹴りこまれた。
「痛いですよ、先輩!さすがに蹴りこまなくても」
抗議する僕に、はいはいと手をひらひらとさせながら、先輩は悪ぶれる様子もなくEVに乗り込んできた。
さらに追加の抗議を挙げようと思ったが、ふわりと甘く爽やかなシナモンのような香りに思わず鼻腔を広げてしまう。
いい香りだ・・・などと思ってしまい、ごまかすように声を大にして抗議する。
「いいですか、先輩! そんな風に人をーーーっ!いたっ!」
「声でけぇよ!」
言い切る前に、光速流が来た。
「まぁ、いいじゃん。むしろ私に蹴られるとかご褒美でしょ。お金頂戴」
「はい、百万円」
「何、これ?」
「〇―ソンで貰えるポイントシールです」
「いらんわ!こんなもんバイト先でいくらでもくすねられるし!」
―――――いやっ、くすねるのはダメでしょ。
投げつけられたシールを拾いながらそう思っていると、EVが1階に到着した。
どうやら先輩も駅に行くようでそのまま会話が続いた。
「そういえば、何見てたの?」
「うん・・・ああっ、それはですね」と僕がしまったスマホを取り出そうしたとき、
「ああっ、やっぱりいいわ」と先輩が手で制してきた。
どうしたというのだろうか。
「あの慌てようだし、どうせエロでしょ。・・・きもっ」
先輩は、アリの巣へと運ばれていく虫の死骸を見るような目でそう言ってきた。
いやいやいやいやいやいやいやいや!
「違いますって!」
僕が必死に弁明しようとすると、
「ああっ、うん。わかってるから、30過ぎの一人暮らしの童貞独身さんの楽しみ邪魔してごめんね。・・・お詫びに蹴ろうか?」
など言ってきて。いやいらんわ!
「どんな趣味ですか!それよりこれです。僕が見ていたのはこれです!」
スマホに表示されているのは、師匠お手製の学習ノートに書かれた手書き詰将棋だ。
「えっ何よ。そんな興奮して本当にJK物とかキモサ万倍・・・これ詰将棋?」
「えっ、そうですけど、先輩分かるんですか?!意外ですね、いつ覚えて、痛ってぇ!」
「顔近いし、キモイ!興奮しすぎでしょ」
日本人なら、将棋というのはなんとなくわかるかもしれないが、詰将棋という専門用語を言ってくるというのは知っているということだ!
まさか、現代日本のブームを作り出していると言われている現役JKが日本古来のゲームである将棋を知っているとは!とつい興奮してしまった。蹴られたことなどどうでもいい。
「いや、まさか。先輩が将棋を知っているとは思わなくてついうれしくて、前々から出来んですか?!」
「いや、・・・それぐらいでテンション高すぎでしょ。・・・まぁね、勝太君の影響かな。それにたまたま友達にできる子がいたから最近教えてもらった感じ」
勝太君といえば、もちろん藤井先生のことだろう。
将棋界のAI世代の超新星、400年に一度の才能などと称された天才の中の天才。
中学生にしてプロデビューするといきなりの30連勝、前代未聞の中学生にしてオープン棋戦優勝など華々しい戦歴はTVでも放映され、今日本にはプチ将棋ブームが来ているのだった。
さすが勝太先生だ。こんな現役JKまでにも影響を及ぼしているなんて!
「勝太先生の大記録はすごいですからね!」
「そうだよね。なんかあれでしょ、優勝したんでしょ、賞金が750万のやつ」
「夕日杯ですよ、先輩」
棋戦の名前じゃなく賞金で覚えるとは、将棋クラスタに見つかったら怒れるぞ。
「そうそう、夕日杯。そんな名前だった。いや~、何がすごいって優勝賞金750万の使い道ないとかインタビューで答えてるんだよ、やばくない?」
何もやばくないだろう。中学生だし。
「いや、使い道ないとか。私が一緒に使ってあげるよって感じだし」
いや、なんでお前が使うんだよ!
勝太先生!見た目に騙されないでくださいね!
こんなビッチにではなく、PCパーツでも買ってソフト検討に力を入れてください!
「てなわけで、相手も学生だし。竜姫の付き合いとかなんかの拍子で会った時に、話題になるように覚えておこうかな~と」
そんな理由なんかい!
心の中で幾度もツッコミを入れているうちに、駅を到着した。
先輩は、上機嫌にまぁ暇なときに相手してあげるよと反対路線へと去っていた。
くっ、純粋な将棋仲間が出来た!と喜んでいた純真な心に謝っってほしい。
傷ついた心は将棋で癒すしかないと僕は将棋教室に向かおうとホームへと足早に乗り込んだ。
改札を抜け、ショートカットの路地を取り向ける。
雪未ちゃんの姿は見えず、当然のようにあの3人組の姿もない。
それに安心しつつも、どこか寂しい感じがしてしまうのはなぜだろうか。
とても不思議な印象の子だった。
青みがかった色素の薄い白髪の隙間から覗く、紺碧の瞳は、雪の結晶のように美して、ふわりと消えてしまいそうな儚げな雰囲気に、まるで先週会ったのが夢なんじゃないのかとついつい思ってしまう。
でもそんなことはない。
なぜなら、僕の中にはこれから師匠に試そうとしている戦法があるからだ。
これが、僕と雪未ちゃんとを繋いでいる証だ。
雪未ちゃんは、幻じゃない。
なら、将棋を指し続けていればまた会えるはずだ。
そう思うと、自然と足が軽くなり、将棋教室への道をスラスラと進んだ。
そう思っていた雪未ちゃんとの再会は思いの外早く訪れる。
そして、それが僕と師匠の関係を変えるような、“ある事”を決意させることになろうとはこの時の僕は知りようもなかった。
いつもの将棋教室。
いつもの受付のお姉さんこと現役女子大生の久瀬さん。
いつものように菩薩のように柔らかい笑みを携えながら、「胡桃ちゃんが奥で待ってますよ~」と促してくれる。
重なりあう駒音が独特のBGMになる教室の隅、いつものように師匠がいた。
今日は誰とも対戦しておらず、勝太先生がトロフィーを抱える表紙が書かれた将棋雑誌を読んでいるようだった。
「師匠、おはようございます!」
僕がいつものように声をかけると、
キッ!と宝石のように綺麗な琥珀色の瞳が上目遣いに吊り上がる。
「遅い・・・13時から5分も過ぎてる!!」
いつものように師匠がリスのようにぷくりと頬を膨らませる。
「はっはは、どうもすみません」
いつものように僕は師匠に謝罪して席につく。
師匠は依然、機嫌悪そうに眉間に皺を寄せつつも、読んでいた雑誌を片して早くも駒を並べ始める。
「「よろしくお願いします」」
そして先ほどのことなどなかったかのようにいつもの対局が始まるのだ。
先手は僕だ。7六歩と角道をあける。
「どれだけ強くなったか見てあげるわ」とばかりに師匠が8四歩と飛車先をついてくる
そして、いつもの僕なら2四歩とこちらも飛車先をついていくところ・・・だが!
今日はいつもの僕とは違う!
なぜなら、僕には雪未ちゃんに教えてもらった戦法があるからだ!!
バチッ!と決意を示すように僕は駒を強く置いた!
3手目7五歩! 角道をあけるためについた歩をさらにつく、わずか3手目にして早石田と言われる戦法になる作戦だった。
ビキッ!と音が鳴りそうなほどに師匠が眉間に皺を寄せ、瞳は猛禽類のそれように鋭く、僕を睨んできた。
「ひゅー、ふー、ひゅー」と僕はそれを吹けない口笛で凌ぐ。
バチーン!
それを見た師匠は今まで来たこともない。叩きつけるような盛大な駒音を立てて、8五歩とさらに飛車先を伸ばしてきた。
しかし、それは想定の範囲内だ、僕は8筋を守るべく、角を77へと上げると、すかさずバチーンと師匠は角道を開けた!
すごい。ここまで雪未ちゃんの言った通りの指し手が続いてきた!
僕は禁じられた飛車を振る、師匠に勝つために!!!!
7八飛車。角の下に飛車が来たこの形こそが、雪未ちゃんが師匠をハメるもとい勝つために教えてくれた戦法。
その名も、「新鬼殺し」
よくわからないが、とにかくカッコいい!
僕が戦法の形が出来たことに満足していると、師匠の明白な指し手が止まっていることに気づいた。
うつむき、不穏な雰囲気で、頬は今にもはち切れんばかりに膨らんでいるのが、扇子の間から覗けた。
「・・・え、えっと師匠・・・?」と、僕が恐る恐ると声をかけると、
師匠は、答える代わりに、息吹きのようにこぉおおおおと深く息を吐き始めた。
みるみるとしぼんでいく頬。
それがしぼみ切ると何かが起こるのではないかという一抹の不安を感じて、額から汗が吹き上がったきた。
くそっ、なんていうプレッシャーだ!・・・ってふざけている場合じゃない。いままでの師匠の中で断トツで期限が悪い。
そんなことを考えているうちに師匠の頬がしぼみ切った!
僕は言い知れぬ、恐怖心から目を閉ざしてしまった。
パチリ、
・・・・・・・・・・・・・うん?
しかし、耳に届いたのは静かな、いつもの師匠の駒音だった。
目を開けると、77馬と指されていた。
角交換だ!僕は雪未ちゃんに言われた定跡どおりに同桂馬と角を取り返す。
師匠はパチリと、2六歩と飛車先の歩をぶつけてきた。
これはやってはいけないと雪未ちゃんが言っていたような気がする・・・ここからが若干にうる覚えになってくるがなんとか定跡の範囲内だ。
それにしても怒っているように見えた師匠だが、淡々と指してくるな。
恐る恐る師匠を見ると、扇子を広げ、目線はこちらではなく盤のみを見つめていた。
その瞳は、光彩を失ったかのようにどんよりとしていた。
「おき、しなきゃ、」と何事がぶつぶつと呟いてる。
ぶっちゃけ怖かった。師匠はどちらかというと寡黙なほうだが、わりかし意見ははっきりというほうだ。・・・時々、見栄をはるけど、そんな師匠がうつむき何事かうわ言を口にしいてる。
進む局面、嵌め手と呼ばれる定跡に嵌ればそのまま優位から勝勢になるはずの戦法がノータイムで指し続けている師匠によってどんどん差を縮められていく。
どこで悪くしたのか、無理攻めと思われた師匠の攻めで僕の玉があとわずかで詰まされるところまで来たとき、それは聞こえた。
「おしおきしなきゃ」と。
ひぃいいい!と僕が心の悲鳴を上げると同時に、ぱちりと静かにそれでいて甲高い駒音とともに僕の玉を詰ました。
「ま、まけました」と僕は礼節にのとって頭を下げると、そのさらにあまたを下げた。
「師匠、この度は、飛車を――――ぅいって!」
後頭部にスパンっと!乾いた音が鳴った。
「飛車を、振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!振るな!」
「痛い、いって、いた、痛い! 師匠、頭はだめです。定跡が抜けていきます!」
「そんな定跡はいらない!」と師匠は扇子でしこたま僕の頭をたたくと、肩でふっーふっーと息をし始めた。
僕はそれを見て後頭部をさすりながら後悔した。
飛車を振るだけ、物静かな師匠を暴力系ヒロインにしてしまうとは、・・・将来先輩みたいになったら大変だ。
今後は自重しようと。
「いるんでしょ」
「えっ、だれがですか?」
そうつぶやく師匠に答えたが、どうやら僕に聞いているわけではないようで教室の中を何かを探すようにキッ!キッ!キッ!と見渡していた。
その眼光の鋭さに見られた方々は我関せずといった感じに身をすくませ、将棋盤に目を落としていった。
さすが師匠だ。小学生にして、大人すら怯ませるこの眼光、生粋の勝負師だなと変なところで感動していると、師匠の感情はどんどんヒートアップしてきたのか、立ち上がりついには、
「で、出てきなさいよ! この泥棒猫!!」
テンプレートすぎて逆に昼ドラですら、使われなくなったセリフを叫び始めた。
いやさすがにそれはまずいだろう。案の定、なんだなんだ?と普段なら絡んだこともないような引率の先生を思わせる大人達の視線が集まってきた。
問題なりそうだ。そう思った僕が師匠をなだめようとしたとき、
ふわりと鼻を抜ける、清涼感ある・・・ミントのような香り。
この匂いどこかで・・・・つい最近嗅いだことがあるような。
師匠も香りに気づいたのか、その小さく可愛い花をふんふんとさせる。
するすると、眉間に皺がより一層表情が険しくなってくる。
「やっぱりあんたなのね!」
師匠のうわ言のようなつぶやきに声が返ってきた。
「教室叫んでみっともない。まるで子供ね」
カランと、今時珍しい下駄音を響かせて現れたのは、
透ける青みががった白い髪。
瞳は髪よりも深い、見上げった先に広がる雲一つない晴天の空よりもさらに青い紺碧の瞳。
ビクスドールのような整った顔立ちの美しい女の子――――
「――――ゆ、雪未ちゃん」
「まった会えたね」
扇子で口元を隠し、妙に艶やかに笑う少女、この間ひょんな経緯から将棋の嵌め手戦法を習った雪未ちゃんが横に立っていた。
そのまま師匠を無視して盤面に目を落とし、ふぅんと眺める。
「新鬼殺しじゃだめだった・・・というより終盤力ね。もう少し、詰将棋を解いたほうがいいわよ、た・く・み」
「―――――っ!」
それを聞いて、師匠は文字通り髪を逆立てて怒っているのが分かる。
心なしか、ミシミシと扇子の悲鳴が聞こえている気がする。
「た、巧の師匠は私なの。余計な事するな!」
「師匠ね。ここまで棋力差があるのに、駒落ちすらしないで平手でいじめて何の意味があるの? それに飛車を振ると将棋が弱くなるって・・・笑えるわ」
「じ、事実よ! 実際、振り飛車党のタイトルホルダーだっていないじゃない!」
「今は、ね。そのうち返り咲くわよ。まぁ私は振り飛車党でもないし。奇襲党だから別にいいのだけれど。重要なのは・・・」と雪未ちゃんが言葉を区切り、相対していた師匠からこちらに紺碧の瞳を向けてきた。
「ねぇ、巧・・・・・・私が将棋を教えてあげる」
「えっ、でも僕には・・・」
「そんなの関係ないわよ。将棋の師弟じゃあるまいし。乗り換えればいいじゃない」
「の、乗り換えるなんて」
「いいのよ。居飛車党から振り飛車党に移るように、飛車を振るように胡桃ちゃんも振って――――」
「――――そんなのだめっ!」
「決めるのは、巧よ」
ギンッ!と夜中に見かける猫のように光っている見える眼光が師匠から降り注がれる。
そういえば、将棋盤の裏には、血だまりというくぼみがある、なんでも将棋で粗相をすると生首をその上に乗せ血を溢れさせないようにするための窪みだそうだ・・・・・などというどうでもいい雑学が思い起こされた。
思わず、乾いた笑いが出てしまう。
そんな僕の頬にひんやりとした柔らかい手が触れる。
雪未ちゃんの手だ。
なぜか、僕の頬と頭をなでている
「よし、よし、胡桃ちゃんは怖いわね。そうやって抑え込まれていたのね、もう大丈夫よ。私ならそんなことしないから」
「で、デレデレするな!」
涼しい顔でほほ笑む雪未ちゃんに。
唸る犬のように怒る胡桃師匠。
言い争いは終わりを迎えそうになく、いよいよ周りの「お前大人だろ、早く諌めるよ」という周りのプレッシャーが物質となったかのように背中を押してくる。
さてこの場をどう諌めるか、そう僕が思考を回転させ始めたとき、僕が一日考えてもわからないような詰将棋を一瞬で解く二人の思考の回転量が最適解を導き出していた。
二人が同時に声をあげる。
「巧、そこをどいてもらえるかしら」
「巧、そこをどきなさい」
えっ、と膠着する僕に「早く!」という師匠の𠮟責に、長年培ってきた社会人スキルであるオートメーション(反射的礼節)が無意識に発動し、椅子から立ち上がり雪未ちゃんに席を引いていた。
「ありがとう」
「さっと座りなさいよ」
「もぅ、せっかちね。胡桃ちゃんは」
対して気にした風もなく、雪未ちゃんは席に座ると駒を並べ始めた。
師匠もそれに習い並べていく。
パチリ、パチリ、と両者ともに慣れた手つきですぐに将棋が始めれるように駒の配置が完了した。
・・・・・・・・・
・・・・・
・・・
しかし、駒が並べ終わったというのに両者ともに動かない。
これはと思っていると、「ねぇ、巧。振りゴマをしてくれない」
「えっ!・・・あっあはい」
「歩なら胡桃ちゃん、と金なら私ね」
「・・・それでいいわ」
振り駒、将棋を始めるとき先手と後手を決める際の将棋独自の方法だ。
といっても単純にコインように駒を振って歩(表)、と金(裏)で出た側が多いほうが先手を取るというものだ。
僕は雪未ちゃんに言われるままに歩を5枚手に取った。
うんうん、棋は対話なり。将棋を解することで二人は仲直りしようとしているのだろう。きっと!なんたって二人とも将棋が好きなのだから。
二人は慣れた手つきでチェスクロックと呼ばれる指し手の時間を図る器具を準備していた。
それを見ながら僕は特になにも考えもせずに手のなかで駒を盛大にシャカシャカと振って放おり投げた。
「さっと終わらせましょう。粘られてもやっかいだし。15分切れたら負け、でいいかしら?それっと勝ったほうが巧の師匠ということで」
――――えっ!
「それで、いい。―――私のほうが強いから」
――――し、師匠!
な、なにを話してるんだ、二人は。
僕の思考が追い付かない間にも駒を盤めがけて落下していく。
「・・・ところでなんで巧なの?」
「どういうことかしら?」
「とぼけないで。人に将棋を教えてたいなら、ほかにいるでしょ、ヨシオとか」
「冗談。やめてよ、あんな猿。そうね、強いて言うなら・・・将棋を指してて、終盤。ああっ金が・・・桂馬が・・・ああ、あの駒が一枚でもあれば詰むのにって考えることあるでしょ。それと一緒」
透ける青みががった白い髪から、覗くように上目遣いの紺碧の瞳が僕を見て、そして雪未ちゃんはこういった。
「欲しくなちゃったの」
「―――っ、潰す」
師匠の頬がぷくりとまるで怒りをため込むように膨らむと同時、駒が盤面へと落ちる。
「と金が3枚。先手は私ね」
静かにそう言って雪未ちゃんは放たれた歩をもとの位置に戻した。
「えっ、あの」
「「よろしくお願いします!!」」
深々と互いに礼をする二人。
僕が二人を止める間もなく始まってしまった。
「おやおや、胡桃ちゃんと雪未ちゃんが戦うんかい」
「あの白いの、鬼殺しとか嵌め手しか指さないやつじゃん」
「どれどれ」
二人ともこれだけ強くて可愛ければ人気もあるのだろう。
そんな二人の戦いを見ようと、いつの間にか人垣ができていた。
くっ、さきまで目を合わせないようにしていたくせに。
「さて初手はどうしようかしら、胡桃ちゃんはいつも同じ手しか指さないからな~」とわざとらしい、まるでギャラリーに言い聞かせているかのように雪未ちゃんがつぶやく。
「初手ぐらいわね」
パチリ、と雪未ちゃんは7六歩角道を開ける。オードソックスな開始だ。
いくら雪未ちゃんが奇襲戦法を得意としているとはいえ将棋は1回に1駒しか動かせない。
そんなトリッキーなことはそうそうにできないのだ。
対して、師匠はバリバリの居飛車党。もちろん追手は、飛車先をつく8四歩だろう。
そう思っていたのに。
パチリ、
「へぇ~。開けるんだ。角道」
「なっ!」
師匠が放った一手は、角道を開け返す。3四歩。
正直これも将棋としては何ら変哲のないオードソックス、テンプレートな展開で驚くこともないのだが、師匠はいつだって自分の初手には飛車先を突いてきていた。
それがなんで。
ぷくりと、師匠は雪未ちゃんには答えず、頬を膨らませる。
まさか、さっきの挑発か。
「胡桃ちゃんはいつも同じ手しか指さない」さきほどの雪未ちゃんがつぶやいた言葉に師匠が意地になったのかもしれない。
師匠も子供っぽいというか、子供だからな。
だが、角道を開けあったところでまだ2手目だ。次に飛車先を突けばいいだけのことだ。
それでいつもの将棋に戻る。
そう僕は思っていた。
侮っていたのかもしれない。
雪未ちゃんという、居飛車党でも振り飛車党でもない、自らを奇襲党と名乗る。
根っからの嵌め手大好きっ子のことを。
雪未ちゃんが角を持ちあげる。ただそれだけの動作でギャラリーから声が上がる。
「おっ、一手損角換わりか」
「いや、ここからKKSとかかも」
「こいつがそんな普通なの指すか、筋違い角とかやろ」
ギャラリーに子供が多いのもあるのだろう、みな好き好きに自分の予想を口にする。
僕はそれを見て、「すごいな」と口の中で言葉を転がした。
たった3手目の着手だけでこれだけの人たちを騒がせる。そんなことそうそう出来るもんじゃない。
悪態をつく人がいるのも事実だが、「雪未ちゃんならなんかをやってくれる気がする」そんな期待とも取れるハラハラワクワクドキドキ感がみんなをこんなにも高揚させているのだろう。
パチリ、果たして雪未ちゃんがその小枝のように白くてほしい、けれど綺麗な指でもって3手目を着手した。
ギャラリーから、歓声とも悲鳴ともとれる声が上がる。
―――――震える。
将棋を初めて数か月の僕が言っても説得力も何もないかもしれない。
それでも言ってしまう。
「こんな手見たことがない」
2二の角交換か3三角か、誰もそう予想した手をあざ笑うように置かれたのはそのどちらでもない6六角。
いくら序盤の序盤といえども将棋の常識から言えば、1手パスとも言えるような手損と言われるような動きだ。
それにこれ角交換から、「馬」。龍王に次ぐ将棋の駒のなかで最強格の駒が作れるような気がするんだけど、戦法として成立しているのか。
それに師匠も当然気づいていているのだろう。
頬を膨らませたままに、その琥珀色の瞳が雪未ちゃんをきっとにらみつける。
しかし、雪未ちゃんはどこ吹く風と目線をさらし、口元を隠すように扇子を広げた。
連想される嵌め手。対処を知らないと一瞬にして劣勢に追い込まれる。その代わり正しく対処すればやったほうが劣勢になる、初心者狩りに使われるような戦法だ。
当然、師匠にそんなもの本来なら通じるわけもないが、使ってきたのは、あの雪未ちゃんだ。
師匠の宝石のようにきれいな琥珀色の瞳映る、雪未ちゃんの扇子に掲げられた揮毫。
『嵌手一生』
揮毫に恥じず、嵌め手を好き好んで使う、嵌め手のスペシャリストなのだ。
これにどう対処する。
そんな一瞬の緊迫を打ち破ったのは、ピッ!という電子音だった。
師匠がはあっ!としたように顔を挙げる。
15分あった持ち時間は14分になっていた。
たった4手目にしてもう1分を使わされてしまったのだ。
「ふふん」と雪未ちゃんがあざ笑うように鼻を鳴らした。
それを受けてぷくっぅうううう!と師匠の頬がはち切れんばかりに膨れ、それがばちぃ!と破裂したような錯覚を受けるな高々とした駒音を立てながら、4手目師匠は着手した。
もう、迷わないと言わんばかりに。
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