引きこもりの少女と郵便屋 9



 ――雲ひとつない、抜けるような青空をした日のこと。


「ねぇ……ねぇ、まってよっ」


 長い長い階段が伸び続く。

 カーブした螺旋状の階段は、子供の足では無限のように思えるほどに膨大だ。

 特に、あまり運動慣れしていない少女には、あまりにも厳しい道程といえた。


「……」


 数歩先の段差を行く少年が、その声に足を止める。

 背中からだけでも、なんだか困っているのが窺えた。肩を落とし、頭を掻き、それから振り返る。

 その年ごろにしてはやけに目つきの鋭い、少年だった。


「もうすこしだぞ、なんとかがんばれねェかよ」

「むりだよぉ。もう疲れたもん」

「……おれはいちおう、この塔を毎日往復してんだぞ」

「それはしゅぎょーでしょ?」


 少年と少女が昇るのは都市で一番高い物見やぐらだった。

 単なる物見やぐらであればおよそどんな人里にも外界監視のために存在し、この宝庫都市にだって幾らか点在する。けれど、ふたりの昇っているそれは他よりもずっと高く大きな高楼だ。

 広く豊かに発展したその都市におけるあらゆる建築物よりも高く突き抜け、空に最も近い天地を繋ぐ塔。

 そんな塔の中腹にて、子供ふたりがどうして昇っているのか。

 それは少女のほうすら、知らない。


「なんでこんなの、のぼらないといけないの」

「いいから。上に、いいものがあるんだよ」

「いいものって、なに?」

「いいものは、いいものだよ」

「わかんない」


 つん、と少女はそっぽ向いて拗ねてしまう。

 少年自身も自らの説明不足を理解していながら、できれば言葉ではなく伝えたいこと。あまり言いようもなく、声もなく口を開閉させる。

 それから、理路整然とした説得を諦めて前を向く。上を向く。


「なあ、行こうぜ。もうちょっとだからさ」

「いやだよ。もう足も痛いし、動けないもん」

「……」


 少年はけれど諦めない。

 どうしても、この少女を塔の天辺にまで連れて行きたかった。

 覚悟を決め、少年は膝を曲げる。背を少女に向ける。


「わかった、じゃあ、負んぶしてやる」

「え」

「負ぶってやるから。それなら、いいだろ?」

「でも……それじゃあ」

「これもしゅぎょー、だ」


 少年は言ったように、師と仰ぐとある魔人の方針でこの塔を毎日往復していた。まずは基礎体力をつけることが大前提だと、そのための鍛錬の一環だった。

 そのため階段を昇るのには非常に慣れた調子でひょいひょいと足を動かしていたのだけど……さすがに、少女を負ぶってとなると話は別だ。

 それを心配して少女は躊躇いを見せるが、少年は強引にして意固地だった。


「ん」

「えっと」

「ん……ん、ん!」


 もはや言葉すらなく、少年はその鋭い目つきで少女を見つめる。急かし続ける。

 けっきょく、少女はいつも少年の頑固さには敵わない。

 おずおずと、少年の背に抱きつくようにして身を任せる。その暖かさに、なぜかこの上ない心地よさを感じながら。


「よし、いくぞ」



 そして、えっちらおっちら階段を昇り、ふたりはやがて塔の天辺にまで辿り着く。


「だっ、大丈夫?」

「ぜっ、全然……よゆう、だね……」


 ゼェハァ息を切らしながらも、少年は強がり続ける。

 疲労困憊は目に見えているのに、笑って誤魔化そうとする。弱いところを見せたくないという、男の意地である。

 追及を避けるように顎をしゃくる。


「ともかく、ついたぞ。下りろ」

「うっ、うん」

「ほら、見てみろよ」

「え?」


 そこは尖塔の頂上、屋上だった。

 ぶわりと痛いほど風が全身を打つ。遠く遠く、どこまでも見渡せる。空が、届きそうなくらいに近い。


「うわぁ!」


 そこから眺められる景色はたとえようもなく美しい。青く蒼く、雲ひとつない蒼穹は陽の光を存分に振りまいて輝いている。

 果てしない地平線の向こうまで見渡せ、この世界の広大さをまざまざと実感させられる。


 都市の境界線を越えた遠くには当たり前に外界が広がっていて、緑の山々が連なり、溜め池が水たまりのように小さく見える。

 舗装された道がくねって拓け、枝分かれしてどこまでも続いている。道の先には小さな人里があって、そこへと向かっているのか列をなして進行するキャラバンがあった。

 絵画のような切り取られた作為などない、そのもの見事に視界に収めることすらできない圧倒的で風光明媚な見晴らしだった。


 感動に目を輝かせる少女をわき目に、少年は屋上の反対側に座り込む男に声をかけておく。


「おっちゃん、邪魔するぜ」

「なんでい坊主、また来たのか。って、女連れかよ、まったく羨ましいねぇ」

「そんなんじゃねェよ」


 物見やぐらからの監視の役を負う男だった。

 男がひたすらに外界を見つめ、危険な災害や魔物がやって来ないかと警戒し続けているのである。


 最近、往復に際し顔見知りになったのだった。

 とはいえ勤務中、あまり邪魔にならないようにしなければならない。

 少年は挨拶を済ませれば視線を切り、景色に圧倒される少女の隣に移る。


「どうだよ、いいものだろ?」

「うん……うん!」


 さきほどまでの拗ねた調子もどこへやら。実に嬉しそうに頷いて、少年へと笑顔を振りまく。

 その笑顔がきれいだと、少年は思った。なんなら、この景色よりもずっと。

 振り払うように口を動かす。


「でかい都市だって言っても、やっぱり、狭ェもんだ」

「そう、なんだ……わたし、ここからでたこと、ないから」

「だしてやるよ」

「え」

「いつか、絶対。お前に自由をやるから……いまは、この景色だけで我慢してくれ」


 ぽかんと、少女は少年の言葉に呆然としてしまう。

 少女は、明日より屋敷に引きこもることになる。二度と屋敷から出られないように封されて、不自由に拘束される。

 今日この日は最後の自由。少年に誘われて無邪気に遊んでいられる、最後の日だった。

 それが、少年には我慢ならない。腹が立って、どうにかしたくて、でもできなくて。


「うん、約束、だよ」

「ああ、約束だ」


 今できるのは、こんなところに連れてきて、ただ拙い口約束をしてやるくらいで。

 それが酷く不甲斐ない。情けなくって、死にたくなる。


 少年が自己の弱さを嘆いているのに気づくこともなく、少女は魅入られたようにこの世界を観賞する。きっと、これがこの景色を見られる最初で最後であろうから。


「ほんとうに、きれい……広くて、遠いな。空より届きそうにないや」


 そして、囁くように。

 何の気なく思ったことを、ふと口から零す。


「――空の青より遠いところがあるなんて、知らなかったな」


 その、少女にとってはどうということもない一言が。

 隣で耳ざとく聞いていた少年の行く末を大きく変えてしまうとも知らずに。



    ◇



「……あー」


 目が覚める。

 夢と現実の境が曖昧で、混濁した脳みそが再起動するまでの数秒間、ぼうと天井を眺めて。

 ふと、苦笑が零れ落ちる。


「またぞろ懐かしい夢ェ、見たもんだ」


 なぜか。

 今もわからないのだけど、なぜか、あの一言が気に障った。

 ほんとうに、自分でも意味が分からないくらいにその一言には憤慨してしまって、ブチギレて郵便屋をはじめることにした。

 そして巡り巡って――


「……あァ。こっちは夢……じゃあ、ねェよな?」


 起き抜けで寝ぼけた頭でも把握できる。

 ここはシノギがフラウの屋敷で借りているいつもの部屋で、寝心地が良すぎて逆に寝づらいベッドの上だ。


 眠りに就いた記憶もないのにここに寝かされている理由は覚えている。ただ、それが今見た夢とは違うと言い切れず、なんだかひとりで不安感だけがせり上がる。

 ともかく誰か呼ぼうかと半身を持ち上げようとすれば――


「って、おい……ベル?」


 なんと仰向けに寝ていたシノギの身体に、童女がひとり抱き着いていた。

 情愛の感じさせるようなそれではなく、ただ寂しがり屋が抱き枕を抱くような。溺れる者が藁を掴んでいるような。そういう切迫しながら必死に繋ぎ止めようという抱き方。

 治療を、してくれたのだろう。ずっとずっと付きっ切りで、もしかしたら、本当に抱き続けたまま、シノギが死なないようにと尽力してくれたのだろう。


「すまねェな……」


 なんとか痺れる腕を動かして、ベルの銀の髪の毛を梳いてやる。

 すると、ばちりとスイッチでも入ったようにベルの瞼が開く。すぐに首を上向け、シノギと目を合わせ――


「シノギ!」

「って、ぐわぁー!?」


 力いっぱいに抱きしめてきた。

 幼女の力は高が知れている。けれど、まだまだ全身が傷ついて苦痛がある鋭敏な身にひしと腕を回されては、


「痛い痛いたいたい!」

「シノギ、シノギっ、シノギっ!」


 もんどりうつシノギなど気にせず、ベルは額をぐりぐりと胸板に押し付ける。それもやっぱり痛い。


「落ち着けー! 痛いから! 頼むから落ち着けやベル!」

「……は」


 必死の叫び声が届いたのか、ベルは不意に力を緩める。

 我に返って落ち着くと、ゆっくりと手を離し身体をどける。無言のままベッド脇の椅子に座り、すこし気まずげな表情をする。

 とはいえ沈黙しても仕方なく、僅かばかりの思案の時間ののちに意を決するように口を開く。


「その、なんじゃ……うむ、よくぞ生きておった」

「……おう」

「うむ……」

「…………」


 シノギのほうも反応が薄い。どこかギクシャクして、継いていく発声がよどむ。

 常ならぬことだが、ふたりの間に奇妙な沈黙が敷き詰められてしまっていた。


 シノギもシノギでなんとなく言葉に迷った風情だ。怯えたようにすら感じられ、それがベルにまで伝播してしまっている。

 その迷いを問いとして差し向けるのに、シノギにとっては非常なる勇気と思い切りが必須であった。


「で、よ。おれは……おれは勝ったんだよな?」


 恐々とした消沈の体――シノギは夢にまで見た勝利が、そのもの夢ではないと断言することができないでいた。

 夢とは泡沫。手にしたはずが、その手元にはなにもない。

 ベルは、そんなシノギの態度に腹を立てる。そんなくだらないことを怯えていたのかと眉尻がつり上がる。


「この戯けめが。決まっておろうが、紛うことなく、文句の余地なく――おぬしは勝った! それを疑うなぞ侮辱じゃぞ!」


 協力して勝利に貢献した人たちに。ともに勝利に感激して涙した者たちに。

 下した相手に――侮辱甚だしい。失礼千万であろう。


 ぴしゃりと言い放たれ、シノギは再度の確認の言葉すら引っ込んでしまう。ほんとうか、とでも訊こうものならぶん殴られるのではないか。それほどベルの気迫は凄まじく、怒りに燃えていた。


「ふ――」


 そんな童女の険しい顔つきにも気おされず、今更になって。


「ははっ」


 シノギはなんだかとても、笑えてきた。


「ははははははははははははは!」

「む、なんじゃいきなり、わしは怒っておるのじゃぞ」

「いやァ、そうだよな。おれの勝ちだ、勝ったんだよな……そりゃ笑うだろ、最高じゃねェの」


 笑って笑って笑う。

 それはシノギにとって、夢にまで見た勝利だ。念願の、望外の、切望し続けた祈りだ。それが叶ったのならもう、笑う他にないだろう。

 うれしくて、楽しくて、愉快で愉快で。腹の底から衝動がこみ上げてきて抗う必要もない。

 しばらく笑い倒して、笑いすぎて病み上がりに響く。


「はー、笑った笑った」

「大丈夫かや、傷に障るじゃろ」

「問題ねェ。痛いだけだ」

「それが大問題じゃろうに」


 むしろベルのほうが心配になっておろおろしてしまう。

 シノギの傷を癒したのはベルで、その深手のほどを当人よりも理解している。ともすれば死んでいたのではと、深刻に泣きそうになった記憶はまだまだ新しい。


 ――ちょっと思い出しただけで、凍えたように身が震える。

 ベルは想起される記憶にごく丁寧に蓋をして、二度と出てこないようにと厳重に鍵をした。

 それから、疲れたように息を吐く。


「はぁ、もうよい。勝ったのは確かじゃ、文句は言うまい。痛めつけられた同胞を見ているしかできなかったわしの腹立たしさも、言うまいよ」

「あー、なんだ、心配かけて悪かったな」

「ふん。わし心配なぞしとらんし! 信じておったし! 勝つと信じておったのじゃから、心配は無用なのじゃ!」


 そっぽ向いて頬を膨らませる。まるで童の所作。強がりが丸わかりなのは、ちょっとシノギに似ていて微笑ましい。

 あまり言い募っても恥ずかしがって素直に受け取るまい。奇縁で通ずると信じて感謝と謝罪は深く念ずるだけにとどめる。


 シノギは話を変える。わざとらしくきょろきょろと周囲を窺い、疑問を伝える。


「そういや、フラウとリオトは?」

「知らん」

「おい」

「いや、わし、おぬしに掛かりっきりで治癒しておったからのぅ。ここ二日この部屋から出ておらんぞ」

「えっ、そりゃ苦労かけたな、ありがとよ」


 存外に、知らないところで治癒をがんばってもらったらしい。というか二日間昏睡状態であった事実が驚愕である。

 まあ本当に、自分でも死んでないのが吃驚のダメージだったからな。魔王の手並みとはいえ、よくぞあそこからこうして後遺症もなく生かしてくれたものだ。


 そこでノックが響く。次いで落ち着いた声が続く。


「サカガキ様、バトでございます」

「おお、バトさん。入ってくれ」

「失礼します」


 扉の開閉音すら立てず、黒い執事が部屋に恭しく入る。

 一礼して、すぐに先の問いかけに答えを申す。


「お嬢様でしたらただいま、シュプレヒド様と会談の最中です。トワイライト様には伝心でお伝えしましたので、間もなくお見えになるかと」

「なんでい、聞こえてたかよ」

「ええ、失礼ながら」

「むっ、ではわしの声も……」

「……」


 にっこりと、バトは完璧な笑みを浮かべる。

 というか、そもそもシノギが目覚めたことを知っている辺りからして、ベルの歓喜の声が廊下まで響き渡ったからで。

 途端、ベルは恥ずかしくなって顔を覆う。


 紳士として、恥じ入る淑女からは目を背けるのが礼儀。バトはなにごともなく言葉を続ける。


「サカガキ様、体調はどうですか? 空腹であれば食事を用意いたしますが」


 言いながら、バトはベッド傍のサイドテーブルに向かう。そこに置かれた水差しをとって、コップへと注ぎ、シノギへと手渡す。あくまで品よく丁寧に。

 

「悪ィな。けどメシは、まだいいや」

「かしこまりました。ですが、ご入用になりましたらすぐにお知らせください」

「わかってるよ……で」

「はい」


 シノギはぐいと水を飲み干し、コップを返却してから。


「バトさん、なんかねェのか? おれァ勝ったぜ」


 悪ガキが悪戯を自慢するような笑みでせがむと、バトは微笑まし気に笑い返す。

 そしてただ一言だけ、念入りに思いを乗せて告げる。


「お見事でした」

「……へ、へへ」


 シノギは言葉もなく、ただ嬉しそうに笑みを深める。

 三馬鹿の同胞ともまた違う喜び。かつての師からもらった賞賛は、感無量となるに相応だった。

 バトもそれ以上は言わず、またこうべを垂れる。


「では、トワイライト様が近いようなので、私はこれで失礼します。なにか御用がありましたら何なりとお申し付けください」

「おう、また頼んま」


 ひらと手を振って見送れば、扉は閉じられ――すぐに再びドアが開く。

 ノックもないほど焦って、入れ違いに現れたのは誰あろうリオトである。


「シノギ!」

「無事だぞ、生きてるぞ」


 先んじて、問われるであろう内容を読み取って返答を置いておく。

 そんな風に機先を制されては当のリオトはたたらを踏んでしまう。


「あっ、あぁそうか、よかった」

「おう、あんたのお陰だ」


 珍しく殊勝な礼を素直に言う。

 リオトはハラハラしながら観戦していた先日を思い起こし、ああと得心する。


「やはり最後の剣術は、俺がモチーフか」

「ああ。やっぱ一番強ェ剣ってのを考えると、どうしてもあんたのそれになっちまう」

「それは、光栄だけどね」


 こそばゆそうに笑い、リオトはようやくそこで室内に入る。ベルに断って隣の椅子に座す。

 それから肩を竦める。


「でも、最強だなんて決めつけちゃいけない。俺だってまだまだ未熟だ」

「おれの知ってる限りは最強であってるだろ?」

「む」


 どうにも自己評価の低いリオトへの対応が固まってきたシノギである。

 言い返す言葉を探し出す間も与えず、シノギはまたも先に頭を下げる。


「でもまだまだ拙ェ、脆い。以後も頼むぜ」

「ああ、君が強さを求める限りにおいて、俺が先を行く者としての務めを果たそう」


 剣の道は遠路どこまでも続く無限の研鑽。

 リオトが謙遜するのもある意味では頷けること。そこに終わりがない以上は、どこまで行っても道半ばであって極めることはない。

 だからこそ、継ぐことが大事となる。自らの至った領域を、誰か別の者にも届いてほしいと教授する。師たる者はそうしたサガをもつのだろう。

 いつか自らの背を抜いてほしいと願いながら。


 丸く収めたところで、シノギはさてと本題を切り出す。


「で、勝ったおれになんか言うことねェか?」

「え、ああ。それは……うん、いい戦いだった。血を熱くさせる、剥き出しの魂のぶつかり合い。久しく俺も、燃えたよ」

「そーか、そーか」


 満足げに笑うシノギに、横合いでベルが呆れたと額に触れる。


「しかしおぬし、目撃した全員から誉め言葉をもらうつもりかや」

「おう、コンプリートしてやるよ」


 そのためにも。


「もうひとり、会わねェといけねェ奴がいる」


 シノギはこれで結構、褒められて伸びるタイプである。

 そして、だいぶしつこい。



    ◇



 屋敷の地下の、奥まった隅にある部屋。

 そこでは孤独に幽閉された少女が、静かにただひとりの訪問を待つ。

 瞑目は、ノックの音に期待とともに開眼される。


「――よぉ、来たぜ、ハク」


 ドアを開いて挨拶がてら皮肉気に笑ってみせる男は、誰あろうサカガキ・シノギ。

 そうと確認できれば、すぐにベッドから静寂の少女は飛び出す。

 が、


「……っ」


 こけた。

 勢いづきすぎて、足がもつれて床に顔面から突っ伏す。

 さすがに驚いてシノギは駆け寄る。膝を曲げて身を寄せる。


「おっ、おい、大丈夫かよ?」


 ほら、手ェ掴め。

 シノギはズッコケたハクに手を伸ばし、白い少女はそれをすこし気恥ずかしそうに掴んだ。

 すると回路が接続される。字幕が流れてくる。


(サカガキさま……すみません……)

「意外とそそっかしいな」


 笑って手を引く、立たせてやる。

 すぐにハクから文が届く、恥ずかしいところを見られたのを誤魔化すように。


(そっ、その……お怪我、とかは?)

「そりゃこっちの台詞だ、大丈夫かよ」

(あぅ……わたしは問題ありません)

「そうか、そりゃよかった。おれのほうも、もう大分治ってるよ。まあ完治とまではいかねェが、リハビリに歩くくらいはって状況だ」


 本当はベルに酷い渋面をされたのだが、押し切った。

 シノギは割と都合悪い話題をあっさり横に置き、こちらにとって重要な点を選んで前面に押し出す。


「んで、そういう質問がでるってこたァ、やっぱあんたも見てたな?」

(はい。ニグレド様が視界共有を施してくださいまして)

「そうか、じゃあよ。おう、どうだよ――勝ったぜ?」

(はい……はい……しかと見届けました)


 深く深く、ハクは頷いた。

 直接ではない、魔術による遠見。けれどその鮮烈な戦いを一切のよそ見なく目撃した。


 圧倒的な逆境を諦めないその不屈も、雷帝の恐ろしさに立ち向かう勇気も、しっかりと、その目で見たのだ。

 一から十まで、微に入り細を穿って、バトの視点ゆえにどこまでも厳密にだ。

 しかし そこまで細かに観察されたとなると、シノギとしてはちと居心地の悪さを覚える。


「まあ……あんまり格好のいい勝ちじゃねェけどな」


 相手のことを熟知して、その対策を三人で頭悩ませて練って、対抗装備を準備して。

 その上でシュプレヒドの油断を誘って不意を討って、かつ甚振いたぶるために敗北を先延ばしされて、そして立会人の判官びいきがあって、それでやっとこさの勝利だ。

 考えてみれば控えめに言っても、勝ったと断ずるのは難しいように思えた。辛勝というのも図々しい。勝ったというより、引き分けでも負けでもないだけだ。


「まあでも勝ちは勝ちだ。存分に勝ち誇ってやるから褒め称えてくれていいんだぜ?」

(あはは……)


 前言撤回が早すぎて、そのノリについていけないハクである。


(でも本当にすごいです……英雄エインフェリアに勝つなんて……)


 その強さは伝聞でしか知らなかったからこそおとぎ話のようなデタラメな力を妄想し、しかも実際に垣間見たそれは想像を絶していた。

 雷帝の怪物は、直視しない遠見であっても身震いし、相対しない観客であっても心底恐ろしかった。

 それを直視し、真っ向相対し、打ちのめされながらも――勝利するだなどと、そんな奇跡を目の当たりにして、ハクは感動にも似た衝動に打ち震えた。

 それを成し遂げた男に――憧れた。


(サカガキ様、わたしも、欲しいと思いました。自由というものが)

「へえ?」


 驚いたように片眉を上げ、シノギは黙する。余計な茶々を挟まずに聞き手に回る。

 伝文の魔術を介し、ハクの思いの丈が文字となって送られてくる。


(わたしは、逃げていました。奴隷の身で、大それたことなんか言えないと、口を噤んで諦めていました)

「そりゃ不自由だな」

(はい、まさしく)


 不自由とは自らで自らに強いる限りにおいて、決して悪いものではない。

 己の見栄や矜持を守るために自らを不自由で縛るのは生き様だ。


 見栄を張って自縄して、矜持を守るために自縛して、誰かのために自重する。

 選択肢が自由であるなら、自ら選んだ不自由の形はその人物の魂そのもの。


 けれど誰かに押し付けられた不自由というのは理不尽だ。悪い不自由だ。

 だからこそ、自分以外の誰からも自由であろうとするのは、自分であろうとする意志だ。


 やりたいことはやりたいように。欲しいものは欲しいまま。

 ただそれだけがシノギの一番大事なもの。


 ハクには、それがとても眩しいものに思えた。憧れたひとの生き様に、自らのつまらなさを気づかされた。


(わたしは、歌を歌いたい。わたしの声で、わたしの歌を、気の向くままにいつまでも――そうであるための自由が、わたしは欲しい)

「そりゃあいいな。おれも、あんたの歌を聞いてみたいもんだ」

(だから、サカガキさま。どうかフラウラリーネさまを救ってください。わたしを、自由にしてください)

「あぁ。約束してやる。おれがあんたをここから出してやる」


 断じる言葉に迷いはなく、伝える意志に衒いはない。

 真っ直ぐ見つめて、揺るぎなく確約する。

 ハクは、花咲くように笑って、その言葉を少しもズレなく受け止める。大事に、抱くように。


(はい。信じて待ちます)「――どうかその旅路に幸いを」

「え?」


 聞き違いかと思わずシノギは目を丸くするが、ハクはなにも言わずに微笑んだ。



    ◇



「それで、わたくしが最後ですか」


 ハクの部屋を辞して、自室に戻ってみればベルもリオトも既にその姿はなかった。

 ベルはおそらく部屋で眠りに就いているのだろう。随分とまた、無茶をさせてしまったようだし、ゆっくり休めとは伝えてあった。

 リオトのほうはどうだろうか、わからないが、ベルに付き添っているのかもしれない。


 ともあれ、ふたりがいないとなれば、シノギとしてはやることもない。ベッドに戻って大人しく寝ようとして。

 ドアが開いた。


 やって来たのは戦いの最後の目撃者たるフラウである。

 すぐに勝手知ったる幼馴染の部屋、当たり前のように椅子に座ってシノギと向かい合わせ。

 すこし取り留めもなく話せば、シノギがあの一戦を見た誰もに褒めろと言って回っていることを聞き出し、フラウがそれの順番に拗ねたように文句をひとつ。

 シノギはそこで腹を立てるのかと意外そうにしながら困る。


「そりゃお前がシュプレヒドと会ってたからだろ」

「あら、でしたら待ってくださってもよかったのでは?」

「妙なところで面倒な奴だな。でも、最後じゃねェぞ」

「あら、そうでしたか?」言葉の意味を瞬時に悟り、フラウはゆるくたしなめる「あなたも中々に面の皮の厚いこと」

「まァな」


 恥じることもなく胸を張る辺り、シノギの図太さは相当である。

 短く嘆息し、フラウは事を請け負う。身勝手な男に仕方がないと許せるのが女の甲斐性。


「まあ、それについてはわたくしのほうで話を通しておきましょう」

「おう、任せたぜ」


 シノギが言っても絶対に応じてはくれまい。フラウに頼む他にない。

 頼みついでに、思い出してシノギはこれからのことを少し話す。


「あーそうそう。言っておくが、完治して動いてよくなれば、すぐに出るからよ」

「……また性急ですね、なにか急ぐ理由でもありましたかしら」

「約束しちまったからな」


 やれやれとばかり言うが、その表情はどこまでも笑み。

 面白くなさそうに、フラウは目を細める。


「ハクとですか?」

「ああ、お前を自由にして、そんでハクも、自由にしてやるってな」

「まったく、あなたという人は。そんなに容易く約束してしまっていいのですか」

「おれァ守れねェ約束はしねェぜ? それが約束を破らないためのコツだからな」

「ばか」


 要巫女を自由にするなどという無理難題を約束しておいて、どの口が言うのだろう。

 本当に、シノギという男は度し難く、繋ぎ止めるに苦労する。

 フラウは疲れたように息を吐き、それから懐からあるものを取り出してシノギへと差し出す。


「これをどうぞ」

「なにこれ」

「見てわかりませんか? 手袋です」

「手袋。そりゃわかるけど、それがなんだよ」

「差し上げます」


 言われて、シノギはフラウの手のひらで畳まれた白い手袋をつまむ。窓から差し込む陽光にすかせば、絹地が美しい。

 ちょうど手袋を焼き焦がしてしまって代わりを今度買おうと思っていた。くれるというなら喜んでもらう。装着する。

 シノギはニッと笑って手のひらをかざす。


「どうでい、似合うか?」

「ええ、とても」

「んで、なんか意味のある品か?」

「ええ、お守りの魔道具です」

「お守り?」


 つけた手袋を顔の前に持ってきて観察してみる。その白の手の甲にはなにやら読めない文字紋様がうっすら刻まれていた。

 なぜお守りなのだろうと不思議そうなシノギに、フラウはその反応にこそ腹を立てて不機嫌を言葉にする。


「先の戦いを見ていて、わたくしも血の気が引きまして」

「ああ、そりゃ、悪かったな」


 たしかにだいぶ、ショッキングな光景ではあったかもしれない。

 血みどろの男たちの純粋なる殺意の応酬は、箱入り娘には堪えたのだろう。

 そうではない。フラウは頬を膨らませて最も大事なことを突きつける。


「あなたに死なれては困ります」

「わかってるよ」

「本当にわかっていますか? ぜったいに、絶対ですよ?」

「あぁ、当たり前だろ」

「あなたが死んでしまったら、わたくしも死にますからね?」

「いきなり重ェよ」


 冗談めかして答えるが、実際シノギはその真意を理解しながらはぐらかしているのか。それとも単に気づいていないのか。

 それはフラウでさえ見極められていないシノギの本意。彼は見栄を張って隠すのが巧妙だから。

 今回もまた判別つくより前に話を推し進めてしまう。


「で、じゃあこの手袋は?」

「だからお守りです。あなたの命が続いていることをわたくしに常に伝え、かつ生存反応が薄れていくと込められた魔力分だけ賦活ふかつさせます。もちろん、以前あなたがつけていたそれと同じく様々な耐性を付与してあります」

「おー、おれが死んだらわかるってことだな?」

「……そちらも重要ですが、わたくしとしては後者についてもう少し反応してほしいのですが」

「ああ、一回くらいなら死にかけても大丈夫ってことか?」

「違います!」


 あまりにあまりなシノギの発言に、フラウは思わず立ち上がって叫んだ。

 本当にこの人は自分の命をなんだと思っているのか。大事なものだろう、守り抜くべきものだろう。どうしてそんな使い捨てみたいな扱いなんだ。

 フラウがこうして必死に繋いでおかないと、あっさりと死んでしまうのではないか。


 ああならば、奇縁の呪いというのは、すこしだけ役に立つ。

 自分を大事にしないシノギでも、誰かのためなら生きようとしてくれるはずだから。重しは、ひとつでも多いほうがいい。

 フラウの内情を知る由もなく、想像すらできず、シノギはあっけらかんとして言う。


「まあともかく、よさげなもんをありがとよ。でも、礼は口からしか吐けねぇぞ」

「おや、お礼を下さるのですか?」

「そりゃな、こんな高価なモンもらって、ありがとで済ますのも気が咎めるし」


 思ったよりもシノギの態度が神妙で、むしろフラウのほうが驚いた。

 とはいえチャンスは逃さない。

 フラウは余裕を繕い、鷹揚な微笑をたたえる。椅子に座り、胸を張り、命ずるように口を開いて――そこで恥ずかしくなって声がでない。

 けっきょく俯きがちになってしまい、おずおずと、フラウは見上げるように願い出る。


「で……でしたら頭を」

「あん?」

「頭、撫でてくださるかしら?」


 そこで空いた間は、いわく言い難く。

 数拍後に、シノギは肩を落とす。


「……そんなんでいいのかよ」

「十二分に元はとれると思いますけれど」

「そうかよ」


 なにも言うまい。

 手を伸ばし、フラウの蒼さ薄れた白髪を撫ぜる。できるだけ優しく、なるだけ感謝をこめ、暖かに。

 とはいえやってると気恥ずかしくなってくるもの。シノギはぶっきらぼうにわざと悪態をつく。


「しっかし、頭ナデナデがお好きとは、まだまだガキだな」

「あら失礼な、わたくし他人が髪に触れるだけでも怖気が走るタチですが?」

「それもそれで極端だな、おい」


 そんなお嬢様の頭を撫でることを許されたことに、光栄と思う。

 絶対に、それを口に出したりはしないけれど。

 だとて当然にフラウは察していて、心地よさそうに目を閉じて身を任せている。


「どれだけ離れても、どれだけ遠くても、わたくしとあなたの縁故は繋がっています。彼女や彼のように確かなる繋がりではないけれど、縁というのはそういうものでしょう?」


 目に見えず、不確かで、存在自体が疑わしい。

 けれど信じている。

 フラウはそっと撫でる手を取り、握り締める。


「あなたがた三人にあるのが奇妙な絆の奇縁なら、わたくしとあなたにもきっと似たものが結ばれています。だって、寄り添い繋ぐ手のひらだって、立派なえにしでしょう?」

「ああ。そうだな、そうだ。違いねぇ」


 ぎゅっと、祈るように手のひらを自らの胸に寄せて、抱きしめる。互いに縁を確かめ合うように。


「今はただ、次の再会を期待して小さな別れを告げましょう」


 少女は、そのひと時の幸せを噛み締めるようただただ暖かな手のひらを抱き続けた。



    ◇



 そして、それから三日後にはシノギの傷も癒え、出立を決めた。

 忙しなく慌ただしい、やることをやったらとっとと次へ――三馬鹿のいつも通り。

 彼らには目的がある。可能な限り迅速に果たすべき、大事な目的だ。

 もとより旅人、根無し草、郵便屋だ。そこが故郷みたいに大事な場所でも、ひとところに留まってはいられない。


「忘れもんはねェか?」

「わしを子供扱いするでないわい!」

「まあ常よりも長い滞在ではあったから、念のためだろ」


 三人は言葉を交わしながら部屋を出る。

 いつもの関係、いつもの会話、いつものじゃれ合い。

 ただそれだけのことが、三人揃ってうれしくて仕方がない。


「さぁて、次ァどこ行くかね」

「なんだ、決めてないのか? 郵便の仕事が入ってるからこんなに慌ただしく出立をと思ったんだが」

「いんや。別にねェな、そういうのは。久方ぶりの休暇ってやつだ」

「なんじゃと! ではもう少し観光したかったぞ! なんやかんや屋敷にばかりおって外出しとらんのじゃぞわし!」


 けっこう切実な陳情に、出られなかった原因を作ったはずのシノギは悪びれない。この都市に関してだけは、別に一期一会でもあるまいと。


「まあ、ここはまたすぐに来るし」

「わし、あんまり来とうないのじゃが」

「どっちだい、ティベルシア」


 観光はしたいけど、この都市には嫌いな相手がいるから。

 我が侭なベルに、シノギは苦笑とともに提案を。


「多少の観光ならできるぞ。門までの送迎馬車と御者は一日契約のを貸してくれたしな」

「なんと! では行こう、すぐ行こうぞ!」


 率先して前へ。長い廊下を駆けていく。子どものように無邪気に、楽しそうに。

 男ふたりはそれをゆっくり追って、ふと、シノギは気づいて横を向く。

 なんともあからさまなのに、気配だけはきっちり消してあるそれ。


「ん、あぁすまね。おれが忘れもんあったわ。先行っててくれ」


 見遣れば廊下の窓がひとつ開け放たれている。



    ◇



「……それで、わざわざ妹を使ってまで私を呼んだのはなんの嫌がらせだ?」


 ふたりの気配が先に去って、シノギだけが立ち止まっていると、窓の外から声が届く。

 どうやらフラウ経由での呼びつけは間に合ったらしい――シュプレヒドだ。

 シノギは窓に歩み寄り、空の青さを見上げて独り言のように告げる。


「まあ遠からずだな」

「勝ち誇って私をなじるか?」

「なんだよ、なじってほしいのか? マゾかてめェは」

「よしわかった、首を伸ばせ。叩き斬ってやろう」


 別に、一戦交えて決着つけても。

 ふたりの関係は変わらない。遭遇すれば悪態をつき、顔を合わせれば刃傷沙汰。


 嫌い合ってて、けれどちょっとは認めてて、目的を一致させているけど手段で対立している。ドロドロしい悪意はなく、ただ負けたくない相手。

 なんとも言語化しにくい、その関係性はきっと一生変わらない。


 シノギはあくまで空を見上げたまま、ニッと悪戯染みて笑う。


「おれはあんたに勝ったぞ。褒めろ」

「……」


 身も蓋もない言い様に、シュプレヒドは当惑に言葉を失う。

 すぐに大きなため息が漏れ、そういえば馬鹿な奴であったと思い出す。


「貴様は阿呆か、ああ阿呆だったな」

「あんたでコンプリートなんだよ。なんでもいいから、なんか言え」

「……厚かましい奴め」

「そりゃ褒めてんのか? 勝ったことに対して褒めろよ」

「褒めてなどいるものか」


 言葉を交わしているのに、どこかズレている気がする。

 わざとだろうが、だからこそ腹立たしい。とはいえここで激昂するのもまた敗北感しかなくて、シュプレヒドは、もう一度だけ重々しくため息を吐き出す。

 此度は確かに負けた。認めたくはないが事実であり、ならば敗者として毅然と振舞おう。


「はぁ……。敗北の屈辱は、身を切られるようなもので、その雪辱はいずれ果たす。だが、負けは負けだ――貴様の勝利を、私は賞賛しよう」

「よし! やっぱ勝利は最高の美酒だな、おい」

「次は敗北の苦さを味合わせてやる。せいぜい今の内に酔っぱらっていろ」


 釘を刺すのは忘れない。

 一度の負けは認めても、最後に笑う立場は譲るつもりが欠片もない。

 それでこそで、だからこそで。

 シノギはそこでようやく首を傾げ、窓の横合いで腕を組むシュプレヒドへと顔を向ける。


「……約束するよ、おれが絶対、あいつを自由にしてやる」

「ふん。その件に関してのみ、貴様は信ずるに値する。私の期待を裏切るなよ、郵便屋」

「ああ――じゃあなァ、レヒド。息災でな」

「……」


 酷く遠い懐かしい呼び名に、一瞬シュプレヒドは目を見開いて言葉を失くし。

 すぐに童心に帰ったような笑みを刻んで言い返す。


「貴様もな、シノギ。私の許可なく死ぬなど許さんからな」



    ◇



「行ってしまいましたわね」


 屋敷より出発する馬車を窓から見送って、フラウは悩ましげに呟いた。

 本当は引き留めたかった。もっとずっと一緒にいたかった。

 フラウはその本音を自らの腕を強く握って堪える。いつものこと、彼との別離は、いつも辛い。

 それでも口ぶりだけは強がって。


「まったく、騒々しい方々でした」

「ええ、愉快な御一行でした」

「捉えどころもなく、身勝手好き勝手して」

「自由で陽気で仲睦まじく」

「いつも楽しそうに大口開けて笑って」

「本当に、清々しいほど気持ちのいい方々でした」


 主従は歌うように反対のことを唱えているようで、その本質は全く同じ。

 親愛と敬愛と――羨望だ。


「またすこし、外に出るのが楽しみになりましたわね」

「ええ、幸いなことです」


 年々、見送るのが苦しくなっていく。

 平然と淑やかに振る舞うことが難しくなっていく。

 涙を殺して笑顔を繕うことが、痛くなっていく。


 死は明確に迫っている。僅かだって遅れず、寄り道なんかしてくれず、時計のように正確な歩幅で歩み寄ってくる。

 恐怖に負けて、大声で泣きじゃくれたらどれだけ楽か。

 シノギに縋り抱きしめてと甘えられたらどれだけ甘美か。

 想像するだに心惹かれる。

 けれどできない。そんな格好悪い真似は許されない。


 ――彼女の好きになった男は、ひどく意地っ張りで驚くほどに見栄っ張り。そして途轍もなく頑固な男であった。


 だから彼女もまた、そういう女になろうと思った。

 辛くても笑おう。苦しくても信じよう。悲しくても、希望を見よう。


 瞑目は二秒だけ。

 自身を律し、フラウは淑女として相応しい微笑を刻む。そこには既に別離の悲嘆にくれる少女の面影はなく、いつもの彼女の姿があった。


「あぁ、思いつきました」


 演じた風もなくさも楽し気に、フラウは童女のように言う。

 その切り替えの早さ、そして落差に、執事は苦悩と悲哀を覚えるのだけど、当然その片鱗すら面には出さない。

 淑女の従者たるに見合うだけの不動にして洗練された所作で返す。


「なにがでしょうか、お嬢様」

「名ですよ、彼らの。相応しく似つかわしい名です」

「それは興味深い。して、その名とは?」


 実に問え問えと言葉なく急かしてくるものだから、バトは促されるまま問いを向ける。

 すると自信たっぷりの顔で、フラウは酷く稚気満ちた声音で奏でて答える。


「災厄三馬鹿」

「ほう」

「災厄三馬鹿、カラミティ・トリニティ。どうです、ぴったりでしょう」

「ええ、全く。見事に絶妙な名づけです」


 それは世辞ではなかった。

 バトをして、彼ら三人にぴったりだと心底共感できた。

 むろん、フラウは自らの執事の本音など手に取るようにわかる。確かな賛成に気をよくして、フラウはテーブルに置かれた既に何度も読み返した彼の日記を指でなぞって、いつものようにこう続けた。


「では噂を流しておいてくださいね。我らが三馬鹿、その軌跡を」

 


 ――数多の竜を蹴散らして、爆弾なんてなんのその。

 ――小鳥を囲う籠をこじ開けて、呪いの村を鼻で笑う。

 ――黒き塔をもへし折って、秘されし血痕拭い去る。


 ――千の不幸を踏破して、万の厄災と遊んで笑う。


 ――三位一体トリニティにして一蓮托生ロータス連理の奇縁ストレンジ――彼らその名を災厄三馬鹿カラミティ・トリニティ




 ――引きこもりの少女と郵便屋 了







「風の向くまま気の向くまま。どっかどこまでも、行くかァ野郎ども」

「ああ、そうだな。ふたりと一緒ならどこへだって行けるさ」

「うむ! わしらの旅はまだまだ続くのじゃ!」



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トリニティ・ロータス・ストレンジ! うさ吉 @11065nhu

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