引きこもりの少女と郵便屋 8



 ――やはりもう駄目なのではないか。


 そう言いたげな、不安感に今にも泣きそうな顔をする。そんなティベルシアに、リオトはなにを言えばいいのか途方に暮れた。

 まだ負けてない、大丈夫、逆転できる。

 そう声高に、声を荒らげて断ずるのは簡単だ。

 けれどどうにもその言い方は負けを認めているような心地に陥る。


 感情的な発言だと静かに看破されてしまって、余計に不安を煽るとわかっていたのだ。

 だから先に声をあげたのは、迷っていたリオトではなく、ベルだった。


「リオト……わしはそろそろ限界じゃぞ」


 静謐な言葉だった。

 濃密に感情が含まれた言葉だった。

 痛いほどに共感できる、言葉だった。

 だからこそ、リオトは首を振る。


「駄目だ、手を出すなよ、ティベルシア」

「何故じゃ! このままではシノギが死ぬ、死んでしまうぞ!」

「信じろ」

「信じておるとも! じゃがっ」

「信じているなら、もしもなんて思いもよらないよ」

「っ」


 いつもは自信満々で高笑いするような傲慢さを発揮しているくせに、こういう時は途端に弱い。


 ひとを信じるのが、苦手なのだ。


 彼女は個人としては強すぎて、他を頼る必要もなければ、誰かと共にあることすら枷にしかならない。

 何もかもが足手まとい。誰も彼もが遠すぎる。

 人になにかやらせるくらいなら自分でやる。そのほうが百倍早いし千倍確実。

 だから、人に任せるのが苦手。戦い傷つく大事な人を見ていられない。


 信じることで生じる辛さを、知らない。


 リオトはそう思う。無論、シノギだってそれは感じていて、だからふたりで前々から心配はしていたのだ。

 かと言ってそれを指摘しても意味がなく、自身でそれと理解してもらわないと進展がない。

 それに気づいてもらうために、今回の件は最適なのかもしれなかった。


 リオトは優しく語り掛ける。自分だって見守るしかできない苦渋にどうにかなりそうなのに、そんなことおくびも出さず懸命に伝える。


「わかるよ、信じて待つのはつらいよな。信じるってことは、つまり信じる俺たちのほうが信頼を試されているみたいなものだ。

 だけどだからこそ、信じよう」

「っ、しかし……」


 状況の不利は一目瞭然で、実力の多寡もまた明白なほどに差を見てとれる。

 勝てないと、そう考えるのは客観的に正しいのだろう。戦士として間違いのない答えだろう。


 それでも勝てると、そう言い張るのは、だから彼への信頼という奴に他ならない。

 けれど信じていても、心が痛くて痛くて仕方がない。

 その痛みに耐えることこそが、本当に信じるということなのか。

 ベルは、わからないままに、ただ自らの唇を噛み締め、握った拳を震わせるしかできなかった。




 一方で、慌てず騒がず静観する少女がその横に。

 リオトはどうにも敗北感に似た感情を渦巻かせながら、困ったように話しかける。


「あなたは、信じているのですね」

「ええ、当然です」


 フラウラリーネは至って泰然としたままに応える。

 そこにベルのような不安も、リオトのような耐え忍ぶ様子もない。

 常のままに、歌うように。


「彼はサカガキ・シノギ。英雄などではありません。まして勇者や魔王だなんて遠く離れた、ただの郵便屋。わたくしのシノギ」


 こんな劣勢においてもまるで揺るがない花咲く笑顔で、真っ直ぐに断ずる。


「彼がわたくしとの約束を破ったことなど、ただの一度もありません」



    ◇



 たまには仰向けに寝るのも悪くはない。

 だって、その体勢は色んなものを視界に収めることができるから。


 ――また、心配をかけてしまっている。


 それはシノギが情けないからだ、頼りなくって見ていられないからだ。だから不安になって心配する。

 ダメなシノギ。弱いシノギ。見ていられない、シノギ。

 ならば。不安にさせないような頼り甲斐のある姿を見せねばならない。心配などいらないのだと力強い雄姿を見せてやらねばならない。


 シノギが強がる理由はいつだってひとつきり。

 見栄を張るのはただひとつのためだけに尽きる。



 ――ただ格好つけたい相手がいるから。



 隠した弱音が真実だとして、裏に仕舞った本音が事実だとして。

 ならば、繕った強がりは。張った見栄は一体誰なのだろうか。


 決まっている。

 決まっている。

 そんなの全部だ、全部自分に決まっている。


 強がりも弱音も、見栄も本音も、両立して併せ持つことでサカガキ・シノギはできている。

 そこに嘘も偽りもありはしない。


 やはり、ダメなのではないか――そう思うのもシノギで。


「ダメなんかじゃねェ……まだ、まだおれは負けてねェ……!」


 そう断ずるのもまた、シノギである。

 その独特な思考回路は、やはり、サカガキ・シノギなのである。


 面を上げる。天を見上げる。

 そのグラス越しの視界一杯に青空が広がる。いつかのあいつの髪の毛と同じ、泣きたくなるほど綺麗な蒼穹。



 ――空の青より遠いところがあるなんて知らなかった。



「――手ェだすんじゃねぇよ、おれの喧嘩だ」


 ひとりならよかった。ひとりで、ひとりきりで、ひとりぼっちならなにも問題はなかった。

 死のうが生きようがどちらでもいい。どことも知れずいつとも知れず野垂れ死にしようとも笑って終われた。所詮自分、そんなもんかと納得できた。それが今まで好き勝手やってきた分の因果応報だ。


 サカガキ・シノギなんていつ死んだって構わない。不様に死ぬのがお似合いの三下、召されて道理だ、なんら恨まないとも。

 だけど。

 だけど、あぁ。だけど。あいつらは駄目だろう。


「信じてくれよ、頼んまァ。なァ、だってよォ。こんなところで蹴っ躓いてちゃ、笑ってあんたらと肩を並べて歩けねぇじゃねェか」


 リオト、あんたは刀の握りから斬術まで、技剣の担い手たる全てを惜しげもなく教授してくれたな。

 ベル、魔力の効率的捻出と運用法は魔刀の異能を最大限に扱うに助かってる。


 そうだ、おれは一人じゃない。


 背に負うように、ふたりの眼差しを今もしっかり感じている。

 だったら強がって見栄張って、格好つけねばならないだろう。

 助けてくれた奴らに相応しいように、手を繋いだ誰かに見合うように。

 そしてなにより――シノギの不様で大事な人たちを殺すだなんて、そんなのありえない。


「おれは勇者でも魔王でも、それ未満の英雄ですらねェ。

 おれァただの郵便屋だ。それでいい、それがいいんだ」


 さあ立ち上がろう。戦おう。

 もはやこの身は動くことすらままならない。どれだけがんばっても自力での稼働は不可能だろう。

 激痛甚大、意識朦朧、満身創痍。もうその感触がわかるほどに死に瀕して、足音がうるさいほどに死神が近づいている。


 それでも。

 それでも生きてる。生きてるからこそ痛い。死んでない。死ななければ問題なし。

 それになにより、ちゃんとしっかり縁故はこの手で握りしめている。それだけは決して手放していない。

 サカガキ・シノギは結ばれた縁故を手繰り、手繰り――それをもって立ち上がる。


「来いよ、英雄。おれァ郵便屋――英雄を打倒する、ただの郵便屋だ。

 この身はひとつなれど、そこには三つの魂が宿ると知れ」

「サカガキ・シノギ……」


 ――ありえない。

 シノギが立ち上がって驚愕に打ち震えるのは英雄である。その奇跡的な光景に寒気が走る。

 なぜ、立ち上がることができるという。なぜ、立ち向かうことはできるという。


「サカガキ・シノギ――!」


 あれだけ痛めつけたのだ。物理的に体が動くわけがない。

 あれだけ甚振いたぶったのだ。精神的に体を動かそうと思えるわけがない。

 ありえるわけがない。ありえていいわけが、ないのだ。


「サカガキッ、シノギィィィィィイイ!!」

「うるせェよ、おれの名前だ、何度も教えてくれんでも知ってらァよ」


 煩わしそうにそう切り捨て、シノギは今にも倒れそうな身を律する。操り糸を手繰るように。

 そんな死に体でありながら一欠けらも諦めの色が見えない。それがシュプレヒドには理解不能で、恐怖すら覚えた。


「貴様……っ、貴様はなぜそうまで彼女に執着する!? 惚れたか、美しいあの子に心を奪われたか!」

「誰がだ。そんなんじゃねェよ」


 なにもわかってねェな。シノギは見当違いを鼻で笑う。

 その声すらも瀕死であるはずなのに明朗で、先刻以前よりも活力に満ちて皮肉に彩られている。


「これはあいつとおれの勝負なのさ――どっちの意地が勝つか、勝負なんだよ」

「意地だと!? ふさけるな、そんなくだらない感情で!」

「はん! 意地も張れねェでなにが男だよ。意地も張れねェ女なんぞにどうして惚れるっつぅんだよ」


 意識して切れ味のいい笑みを形作る。

 なぜこの状況で、その半死半生で笑みを浮かべられるという。

 シュプレヒドは恐怖と嚇怒と憎悪、そして無数に混ざり合った混沌たる感情全部を乗せて――雷帝の真実を見せつける。


「いいだろう! 貴様を殺す他にその憎たらしい笑みは消せんようだ。遊びは終わりだ、ただただ貴様という存在を――殲滅してやる!」


 魔力が巡る。

 神威にすらほど近い純粋にして膨大な――継天者ケイテンシャの全身全霊の力が発露される。


 天が唸る。気象が乱れる。空の上で雷神が産声を上げる。

 いつの間に、仰いだ青空は雨雲――否、雷雲が押し寄せ敷き詰め漆黒に染まる。

 英雄たるの本領は、発揮するだけで天候までも巻き込んで荒れ狂う。


「我が青天の霹靂を見よ――“蒼き雷帝イヴァン・グロズヌイ極皇ツァーリ”!」

「――!」


蒼き雷帝イヴァン・グロズヌイ”の更に上。

飛蒼雷天ヒソウライテン』の英雄エインフェリアシュプレヒド・フォン・エスタピジャの全力。

 それは言ってしまえばただ力いっぱいに雷帝を行使するだけのこと。出力限界まで雷霆を放出し、最強威力の稲妻を纏う。


 しかしその威力は桁外れ。


 天候に作用し雷を雨のように降り注がせることができる。触れずとも接近するだけで人体を消し炭にできる。現実の雷速をも超えた速度で縦横無尽に駆け抜けえる。

 手袋の耐性があろうと、シノギを触れるだけで焼き殺せる。

 蒼き雷帝の全てが底上げされた、真に皇帝と称するべき術技であった。


 この時代において、雷撃の属性を得手とする勇者と魔王は存在しない――故すなわちおよそ間違いなく、シュプレヒドは現在世界最強、最も神に近い雷電遣いデミゴッド・エレクトロ


 わかっている。シノギはその事実も、その技も、知識として知っている。

 だから対策も、ちゃんとはじめから考えている。準備を整えてある。


 ――抜きん出た出足の早さ、音を置き去りにする初速の疾さ。それこそが雷帝の最大の強み。

 ――速度という戦闘における不可侵の領域で雷帝は誰よりも先を行く。


 ならば停止した時を狙う他にない。必ず、一時、立ち止まって集中するその微かを狙撃するしか手は残っていない。

 だから。

蒼き雷帝イヴァン・グロズヌイ”が発動した、その瞬間からただひたすらに。


「この時を待ってたぜ」

「これ……はっ!」


 そして。

 突如、飛来した魔刀がシュプレヒドを刺し貫いた。


「油断しただろ」


 動揺し、自らが刺されたことにも得心いっていないシュプレヒドに、シノギは安堵と共に教えてやる。


「もう動けるはずもないくらい痛めつけて、魔刀もなくて、風前の灯火みてェな雑魚だって思ったろ」


 だから隙を晒すと承知の技を真正面から堂々と使った。


 ――フラウラリーネは言っていた。

蒼き雷帝イヴァン・グロズヌイ”のもうひとつの弱点。それはフルパワーを発揮する際の、ごく僅かの間隙。一刹那の空隙。そう、つまりがここ。この瞬間。

 避けようもない、ただこの瞬間。

 知らねば隙とも見えない本当に小さな抜け穴を、魔刀は確かに貫いたのだ。


「な……ぜ……?」


 確かに、ほんのわずかに油断を晒したかもしれない。無手の瀕死の男に、妹から教えてもらわねば隙とも思えぬそこを穿たれるとは思ってもみなかった。

 だがそれはいい。理屈を理解できる。

 だが……!


「なぜ、触れてもいない魔刀が起動する……!」


 基本的に、魔道具は担い手のみが行使できるもの。その担い手としての条件は単純で、その魔道具の特定部位に触れていることである。

 魔刀で言えば、それは柄。

 刀身などでは斬りつけた際に敵が逆利用できてしまうし、そもからして担い手たるが握るは柄であろうから。魔刀の類は全て柄を握った担い手のみが行使できるものである。


 それは全てどの種類の魔刀であっても破ることのできないルールであり道理。百戦錬磨の英雄だからこそ、その真理は熟知している。

 否、その例外たる魔刀がある。


主縁シュエン

「なに?」

「我が『結線魔刀・縁』の結ぶ縁故には二種類存在する」


 ひとつは刀身に触れた対象と一時的に結ぶ縁。

 そして、もうひとつこそが。


「主縁と呼ばれる、担い手とだけ結ばれる最も遵守すべき断てぬ固きエニシ

 おれは魔刀『縁』とだけは常に繋がっている。故に、触れえずしてその能力を発動できる」


 魔刀『縁』の正しき担い手は、前任者から引き継ぐ際にある儀式を要する。主縁を引き継ぎ、魔刀と縁結びをするための儀式である。

 現代においてその事実を知るのは――元の担い手である両親が死した以上、シノギと、それから教えてやったフラウラリーネだけである。


 そこまで情報を得れば、すぐに現状の異常事態に説明がつく。経験に基づいた英雄の洞察力は戦士として最高峰。


「っ、そうか。ならば貴様が動いているのはやはり“自操縁舞ジソウエンブ”……!」

「名答だ」


 ――“自操縁舞ジソウエンブ”。

 それはやはり、『縁』の魔技戦芸が一手。


 己の体内に縁を結び、張り巡らせることで疑似的な神経系として縁故を扱うという繊細極まる技芸。自分の意志で自分の身体を操り人形のように舞い踊らせるという、シノギでなければ不可能な『縁』の超高難度の応用技である。


 死に体で死に掛けのシノギがありえぬ駆動をしているのはそれがため。縁故という糸を用いて無理矢理に自己を律して操っているのだ。

 それは手足もがれハラワタをぶちまけようとも戦い抜くと覚悟した、不屈にして悲壮なる意志だけを頼りにした技法である。


 シュプレヒドはその技を知っている。けれど、『縁』は引き離したためにそれではないと判じていたのだ。

 ――シノギはフラウラリーネから可能な限り情報を得ていたが、シュプレヒドはそれを怠った。

 この状況の遠因は、そんな些細な違いにあったのだ。


「そして――やっと結んだぞ」

「っ。今更、私と縁を結んだところで……!」

「だれがてめェだよ」


 シノギはそこで手袋を――耐電付与の白い手袋を両手とも脱ぎ去る。

 そして、ぽいと少し離れた位置にまで放り捨てる。

 これにて全ての条件は揃えた。狙い続けてきた最後の一手をここに。


「見せてやる。我が愛刀、我が半身『結線魔刀・縁』の魔技戦芸マギセンゲイが妙手」

「っ」


『結線魔刀・縁』――最初にして最愛の魔刀。

 三馬鹿一行のふたりにも勝るとも劣らない強い縁故を結んだ――もしかしたらより深く一層濃い間柄とさえ言える半身存在。共に過ごした時間だけで言うなら奇縁のふたりはおろか、フラウラリーネよりも長い付き合い。


 だからこそ、誰より何より頼りにしている。

 この土壇場、正念場――全てこの時のために組み上げられた盤面で、行使すべき魔刀は『縁』に決まっている。


「良縁だけが縁ならず。悪縁奇縁もまた縁故なり。ここに結んだ悪縁を手繰れ――“比翼縁理ヒヨクエンリ”」


『結線魔刀・エニシ』、その能力は刀身に触れたものと縁を結ぶ異能。結んだ縁をレールとし、そのレール上を走ること。縁を結んだ地点へと一目散に飛んで行く空を舞う翼剣。


 その発展形異能こそが“比翼縁理ヒヨクエンリ”――結んだ縁と縁とを引き合わせる理。

 すなわち魔刀『縁』ではなく、所定のマーカー設置存在同士を引き寄せる。出会うことを運命づけられた縁故――まるで比翼の鳥のように。


「結べ、出会え、そして羽ばたき飛び立て」


 ここで巡り合わせるべき因縁尽くの二者とは――今しがた放り捨てた手袋と、そして。


「なっ、まさか――雷そのものを!?」


 そう、“蒼き雷帝イヴァン・グロズヌイ”によってシュプレヒドが身に纏う雷そのもの!

 そのふたつを結び、出会わせ――放電し尽くす!


 瞬間、雷撃が一挙に手袋へと殺到する。落雷が避雷針に吸い寄せられるように。

 シュプレヒドの手綱を外れ、暴れ馬の如く押し寄せては爆雷が弾けて破壊力の全てを発露する。なにもかもを破壊し、誰も彼もを破滅させる甚大無比なる雷帝の必殺そのもの。


 しかし全くの無駄。


 雷の属性であると、ただその一点がある限り、完全無欠に封殺する。それでこそ魔王の施した耐電の術式である。

 流れ弾も余波も、シノギには一切合切の被害なく雷帝を無為に殺していく。絞り尽くしていく。


「馬鹿な……っ、こんな、ことが……!」

「フラウは言ってたぜ、“蒼き雷帝”は制御が難しい。制御が乱れれば周囲に無駄な放電をしちまう。そして、放電が続けば魔力枯渇を招いてしまうってな」


 その上、魔刀『縁』が刺し貫いた箇所は丹田。むろん、狙ってそこを刺した。魔力器官のあるその部位を。

 丹田に直接、別の魔力が宿る刃が刺さることで、その制御系はかき乱され歪みが生じる。

 全力全開で魔力を放出する“蒼き雷帝イヴァン・グロズヌイ極皇ツァーリ”の行使した、その瞬間に歪みが割り込んだのだ、術式が狂い、暴れだすのは必然だ。


「丹田ぶっ刺されて、『縁』に雷を誘導されて、おい――てめェの雷帝サマはまだ健在か?」


 腹の『縁』を引き抜こうにも、既にシュプレヒドとも縁が結ばれ、主縁を通じてシノギが固定している。離れない。


 ――新たに魔力を練り上げられない。

比翼縁理ヒヨクエンリ”によって纏う“蒼き雷帝イヴァン・グロズヌイ”は電力無効の手袋にとめどなく誘導される。


 ――魔力が、失われていく。

 なす術もなく、時間だけが過ぎ去って、やがて。


「これでどっこいだなァ。空っぽ同士、もう小細工はできねェぞ」

「く……っ!」


 シュプレヒドの身体から雷気が消失する。全てを放電し尽くし、魔力をも失った。

蒼き雷帝イヴァン・グロズヌイ”が――終わったのだ。

飛蒼雷天ヒソウライテン』すら行使不能で、それは英雄としての力の八割を欠落したと言っていい。


 しかしそれは――シノギも同じである。

 英雄は逆境でも不敵さと冷静さを忘れない。この程度の修羅場は幾らも潜った。


「ふ、だが、これで貴様も魔力を失った。“蒼き雷帝イヴァン・グロズヌイ”を放電させるために結線ケッセン魔刀を使い過ぎたな。――結線魔刀はもはや威を失ったということだ」


 いかに魔力を底上げしようと、いかに魔力運用を習得しようと、いかに魔刀との相性がよかろうと。

 結局、シノギの底浅い魔力総量では限度がある。

 確かにこの時、シノギの魔力も底をついた。生存のための最低限を除いて、他に回せる余剰分は完全にゼロだ。


 シュプレヒドを今なお貫いている『縁』。それを彼が引き抜かないのは、ひとえにその『縁』によって縁故が結ばれ離れられないがため。

 だが、担い手の魔力という動力さえ喪失したのなら、抜き去ることは当たり前に可能だ。

 そして、丹田を乱す魔刀さえ除ければ、多少の魔力回復を見込める。

 なによりも――シノギを今かろうじて立たせているのは『縁』の“自操縁舞ジソウエンブ”だ。それさえ途切れれば――その時点でシノギの負け。


「私の勝ちだ!」

「そりゃあどうだかな」

「この期に及んで! もはや魔力もない、魔刀は使えない! 貴様にできることなぞ――!」

「魔力か……」


 ――それは今まで一度も成功していない。


 練習に練習を重ね、先達に直に学び、けれど結局成功していない。シノギには、それは酷く難しい技術であった。

 だがここでなせねば敗北だ。

 ならばこそ、今まで一度もできなかったからなんだ、それが今この場でできない理由にはならない。

 転瞬、大きく強く吸い込む。


 ――普通は一年以上、才能ある術師であっても半年ほどの修練が不可欠な技法である。


 ああ、そうか。

 シノギは思う。


 もう、あれから半年。彼と彼女と出会って、半年以上が経過しているのか。

 自分が才気ある方だとはとても思えないが、なに、師に恵まれ過ぎただけだろう。無能を才能ある者に近しく育て上げるは流石は魔王と勇者である。


「結べ『縁』――!」


 呼吸とともにマナを吸い込み、オドへと変換して即時に魔力としてロスなく消費する。

 それは魔力を持たない者のための技法。魔力の枯渇してしまった者のための技術。


 その技能の名を「一呼吸の魔術ワンブレス・マジック」という。


「くっ、なっ……! 馬鹿な、貴様、そんな技をどこで!?」

「お節介な勇者からな」


 だが無論、魔力の回復と言っても『縁』を刺したまま維持するのに精一杯だ。繰り返し「一呼吸の魔術ワンブレス・マジック」を使い続けても“自操縁舞ジソウエンブ”を途切れさせないでいるので限界一杯だ。他にはもう魔刀を行使することはできない。

 これにて対等、ではないか。


「おっと、武器の差があったな」

「っ、それは……」


 シノギはごく当たり前のように膝を曲げ、その足元に落ちた魔刀を拾い上げる。

 いつの間に、シノギの魔刀がそんなところにあるという。


 それは先の“比翼縁理ヒヨクエンリ”の発動時、ついでに引き寄せておいた魔刀『クシゲ』である。フラウから借り受けた、第二の魔刀だ。

 言ったように能力の行使はもはや不可能だが、ただの武装として過不足なし。

 シノギは、まるで戦いがこれからはじまるのだとばかりに――魔刀を構える。


「さて。これでほんとに対等、小細工無用の真っ向勝負、だな」

「……!」


 貴様如きが対等だと、真っ向勝負だと。驕るのも大概にしろよ、この郵便屋風情が。

 本当に、本当に。

 本当に!


「貴様の全てが癪に障る! 貴様の全てが許せない!」

「ああ、そうかよ。そうだろうよ。けどな、おれだってあんたにゃ我慢ならんぜ」


 それはずっと、ずっと言いたかったこと。ため込んでいたシュプレヒドへの――憧れからくる期待と、それに伴う怒りの文句。


「てめぇ兄貴だろうが、妹の我が儘くらいなんとかしてやれよ!」

「しているだろう、代わりを見つけた。他になにを望む!」

「あいつの納得する助け方に決まってんだろうが!」

「それができないからこんなことになっているのだろう! 貴様にわかるか、それを諦めねばならなかった私の苦渋が!」


 そんな情けない言葉なんか聞きたくない。

 シノギは犬歯をむき出しにヒートアップして過激になじりとばす。


「わかるかよ、負け犬の気持ちなんざ! あぁなんならもうおれがあいつを攫っちまうか。『飛送処』なんざ知ったことかよ!」

「我が先祖の遺した崇高なるシステムを侮辱するな!」

「崇高なるだ? 崇高なるもんが犠牲を要求すんのか!」

「そうだ、崇高ゆえに犠牲がいる。だが無論、その犠牲は妹ではない!」

「そういうところが気に食わねェってんだよ!」

「それはこちらの台詞だ!」


 言い合っている内に、魂は燃え立って激情が吹き荒れる。

 もはや言葉で刺すだけでは我慢ならず、ふたりは衝動のままに動き出す。

 大きなダメージを負っているのに、全身に痛みが巡っているだろうに――構わず走り出す。


「シュプレヒド!」

「サカガキ・シノギ!」


 両者一歩も退かず、躊躇いもなく真っ直ぐに――その刃を振り下ろす。


「てめェにだけは――!」

「貴様にだけは――!」

「絶対負けねェ!」「絶対に負けない!」



    ◇



 そして、そこからはじまるのは泥臭く血生臭い命のぶつけ合い。

 互いに魔力はほとんど失われて、魔を由来とする特殊な事象は一切起こらない。ただただ物理的な刃物と暴力による武の理だけが支配する。

 派手派手しさも華々しさもない、地味で地道な剣戟の応酬だけが生死を別つ。


 だがだからこそ、その一刀一撃ごとに全身全霊を込めている。他の選択肢が失われたからこそ一所懸命、剣にのみ意を傾けて狭窄する。

 命とともに剣を握り締め、血を吐きながら振り下ろし、魂懸けて斬り開く。


 斬撃には明確な殺意がこもる。回避するのは死に物狂いで身を捻って、けれど完全な回避まではしようと思わない。多少の手傷は飲み込んで、反撃へと素早く転進する。倍返しの殺気を一刀に乗せ、やり返す。

 互いにもはや傷を厭わず、自己の損害を度外視している。

 文字通り肉を切らせて骨を切る――死ななければよいと、勝てばよいと、そう心底まで信仰して果たし合う。

 

 斬って斬られて血煙舞って。

 死に体でなおその足捌きは苛烈にして華麗。

 衝突する金属の奏でる悲鳴が彩り、瞬く流れ星のような火花が飾り、激しく剣風が舞う。

 丁々発止と斬り結ぶ様は命の奪い合いだというのに、どうして踊るように美しいのだろう。心惹かれてやまないのだろう。


 少なくともこの血みどろの剣舞が壮烈にして心震わすのは、その拮抗にある。

 偏りなく、バランスよく、見事に均等。


 舞踏はパートナーとの連携が重要で、呼吸が合うほどに洗練されるもの。それと同じく、剣舞踊もまた拮抗でこそなりゆきを危ぶんで気が気でない。どちらが勝るか、どちらが敗するか。いつこの均衡が崩れて雪崩れてしまうのか。不明で緊張で鼓動が加速する。

 要するに――現在、その剣比べにおける情勢は完全に均衡状態にあった。



 英雄の剣技は流石の一言。

 魔力を失い、異能を封ぜられ、なお残るその剣術は素晴らしい。

 その道に人生を捧げた一流の剣士をも凌駕しうる剣の鋭さは、もはや感嘆しかない。


 一方で、かつての郵便屋の剣の腕は精々が二流かそこら。

 リオトと鍛錬し、旅に鍛えられ、今では一流相手に斬り結んで食い下がれる程度にまで成長したものの、やはりシュプレヒドには及ばない。敵わない。


 だがそのシュプレヒドだって、リオトよりは下だ。

 シノギはそう確信している。

 ――ならば“自操縁舞ジソウエンブ”。


 今のシノギを動かしているのはシノギの意志そのもの。自らで自らを操り舞わせる縁故の技。

 精密に繊細に、思いのままイメージ通り、身体を駆動させうる。


 となると常の自分の動きをそれでわざわざ再現するのも勿体ない。

 もっともっと、強い誰かをモチーフにしたほうがいいに決まっている。


 そう、今のシノギのその動き、その技、その剣術――イメージするのは最強の男のそれに他ならない。


 かの剣技は目に焼き付くほどに見続けてきた。直にその手管を教わった。今も縁でつながっている。

 勇者たる男の剣を真似て、夢想して、サカガキ・シノギという器で再現する。

 付け焼刃にして模倣たる劣化、形だけの剣技、本家本元には届きえない――けれどそれでも勇者の剣。

 だからこそ英雄の技能に拮抗できている。


「くっ」


 また“自操縁舞ジソウエンブ”の厄介な点は軽微なダメージや痛苦、疲労まで含めた肉体駆動の阻害全ての無視にある。

 どれだけ痛めつけてあったとしても、これからどれだけダメージを負わせたとしても、それは肉体的なもの。舞い踊る強制操作の縁故には関係がない。


 心が不屈で諦観に染まらない限り、シノギはどんな攻撃も気にせず精彩を欠かないで動き続ける。まるで人形のように。

 ――それはつまり、シュプレヒドの望んだ絶望に、シノギはいないことになる。


「くそっ」


 とはいえ、無論にシノギは死に瀕している。

 今死んでいないだけで、もうじき死んでしまうのは明白だ。“自操縁舞ジソウエンブ”も糸を支配する者が死ねば当然止まる。

 その僅かを惜しんでシュプレヒドは斬撃に殺意を込め、軽傷の蓄積を狙わずに致命傷だけを穿とうとする。

 そっ首落とせばそれで仕舞い――わかっている。

 けれど。


「くそぉ!」

「おいおい、剣が雑になってるぞ、英雄」


 シュプレヒドの焦燥は、やはりこれまた当然のこと。

 魔力の枯渇による強烈な虚脱感。腹に突き刺さったまま苦痛と違和感を断続させる魔刀。シノギへの――認めざるをえない、恐怖。

 だがそれら全てをねじ伏せ、統率し、剣を振るい続ける。


 煽ってはみるものの、やはりその鋭さは瞠目すべきもので、まさか手負いとは思えない華麗なる剣技。英雄の底力は対峙するシノギに畏怖を覚えさせるに充分過ぎた。


 ふたりは考える。剣を交えながら、敵手を睨み殺さんと見つめ合いながら。


 ――果たして持久戦になった時、どちらが有利になるのか。


 英雄の底力をもって継戦するシュプレヒドか。

 魔刀の異能をもって自操するシノギか。


 一見。魔刀に頼るシノギが魔力不足を招いて先に脱落しかねないと思われる。その傷の深刻さや、シュプレヒドの腹の魔刀の維持まで含め、彼の魔力資質ではそう遠からぬ限りに力尽きるのではと。

 だが違う。

一呼吸の魔術ワンブレス・マジック」という技法があるのだから、その理屈は通らない。


 既に魔刀を作動させるに必要な魔力量の程度は把握した。コツは掴んだ。

 ならばここでも“自操縁舞ジソウエンブ”が、シノギの魔力運用さえもサポートして精密繊細な扱いを可能とする。息切れなしで、常に一息の魔力を吸収、運用し続けられる。



 これまでは、“自操縁舞ジソウエンブ”は自らに無理を強いるだけで、ここまで有用には使いこなせていなかった。しかも少ない魔力をばかばか使って、ちょっと身体操作性が向上するだけの技。ダメージが深い時に使うだけの余技のひとつでしかなかった。


 だが「一呼吸の魔術ワンブレス・マジック」を会得し、かつリオトという剣の最果てとともに歩んだ――その結果がこれ。


 シノギの現状なしうる最強の自分、最大の戦闘能力活用法。利便性高く巧妙で、なにより強い。

 魔刀を使いこなし、魔刀に使われ、対等。サカガキ・シノギの掲げ体現する魔刀遣いとしての最適解。

 きっと、この一戦に生き残るようなことがあれば、シノギはこの技を完成させてまた一歩――いや二歩も三歩も強さの階段を上ることになる。


「ここで、生き残ることができさえすればの話だがな!」


 英雄はそこまで見抜いて、だからこそ。


「ここで貴様は、死ぬ! 私が殺してやる!」


 持久戦はない――一撃で終わらせる。

 踏み込みは鋭い。稲妻のように。

 その殺意が形となったような剣を振り上げ、ただ満身の力を込めて振り下ろす。

 正道にして歪みない斬撃は、素晴らしいほどに綺麗に一閃する。


「――!」


 ――予兆だ、シノギ、予兆を見逃すな。

 ――目を見よ、相手の目を、よく見ておけい。


 ああ、そうだよな。そうだ。忘れてねェさ。

 ふたりに教えてもらったなにもかも、一度だって忘れたことはねェ!


 英雄の剣、その踏み込みは確かに素早い。

 だが。

 雷速ほどではない!


「な――っ」


 その時。

 はじめてシノギはシュプレヒドの剣を完全に見切って受け流した。

 その動作の流れを殺さず、あくまで握りは柔らかに――横薙ぎ。

 

「おりゃァ!」


 遂にシノギの斬撃がシュプレヒドに直撃する。

 肉を裂き、骨まで届いて、その斬痕を身に刻む。

 シュプレヒドは斬られながらもその身を退いて、なんとかバックステップの要領で距離を置く。血は噴き出るも、致命には至らず。

 

「ぐっ、まだ……だ。まだ私は、負けていない……! 私は、私は……っ!」

「負かしてやるよ!」


 一足で追走。

 一挙に攻め立てるべくシノギは追い打ちに走って、三歩目で横っ飛び。

 投擲されたシュプレヒドの剣が顔の真横を通り過ぎる。


「っ」


 間一髪。咄嗟すぎて思い切り体勢を崩したが、なんとか掻い潜ることができた。

 だがこの不意打ちを避けられたのは大きい。これでシュプレヒドの武器はなくなった。

 もはやこれで――


「貴様にできて、私にできぬことなどない!」

「なっ」


 シュプレヒドはそこで呼吸する。強く深く、まるで力を寄せ集めるように。

 呼吸とともにマナを吸い込み、オドへと変換して即時に魔力として消費する。その技法はまさしく――。


「「一呼吸の魔術ワンブレス・マジック」だと!? 馬鹿な!」


 それは、シュプレヒドにはできないはずの技法。

 まさかただの見様見真似で、この僅かで習得したとでもいうのか。ああそれは、なんと懸絶なる英雄の才気であるか。


「これで終わりだ!」


 そこで行使されたのは彼の生まれながらもった異能『飛蒼雷天ヒソウライテン』。常に使い続け、雷は既に彼そのものの一部である。

 吸収した魔力量に沿って、その規模は小さく脆い。撃ち放つことすらできず、シュプレヒドの手の内で帯電するだけ。常と比すれば不様極まる不細工な術芸。

 それでも、雷撃は雄々しく輝いて殺戮を成し遂げうる威力を秘めている。


 雷撃の拳が握り締められ、驚愕に一瞬硬直するシノギへと襲い掛かる。

 ――この拳は受け止められない。

 シノギはわかっていた。それを魔刀で防げば、通電してシノギの負けだ。


 なにせ耐電の手袋がない。両手ともを脱ぎ去ってしまって、そうでなければ英雄の全魔力全電力を奪い尽くせなかったから。

 その結果としての無防備、今ならばシュプレヒドの電力、それは阻害なくシノギの身を焼くだろう。


 今度こそ、その一撃はシノギの命を奪うに足る。


 避けようにも、体勢が悪い。

 今先ほど投擲を避けた状態で、次の一瞬で身を捻ることはできても全身での回避動作は困難だろう。

 

「っ」


 ならば。

 覚悟を決める。

 シノギは姿勢を正すことに、魔刀を構えることに一手を浪費する。回避を諦め、防御も捨て――反撃を試みる。


「!」



 その場の誰もが悟る。

 次の交錯で――この戦いの決着がつく!



「潔し! 瞬く稲妻のように死ね!」

「誰が死ぬかよ! 勝つのはおれだ!」


 その刹那――シノギは勢いよく首を振る。


「?」


 なんだ、その無駄な動作は。この勝敗を決する究極の一瞬間に――どういう意図がある。

 それはこの戦闘中、ずっと彼の顔を覆っていたものをはぎ取る所作。

 シノギのグラスが、その時、外れた。

 いや――だから、なんだという。それになんの意味が――。


 だから。

 悪瞳が見開かれる。


「っ」


 知っていた。

 シュプレヒドはシノギの悪瞳を知っていた。

 何度もその目で見たし、何度もその目で睨まれてきた。わかっている。経験済みだ。


 それでも――その神をも射殺す目つきの悪さに竦まずにはいられない。

 今の今までグラスで隠され、意識の外にあって、急に土壇場で射貫かれる。その衝撃は一体どれほどなのか。

 なによりも――。

 

「あ」


 そういえば。

 ああそういえば。

 シュプレヒドは思う。


 そういえば、一体いつから、あいつの悪瞳を見ていなかっただろうかと。

 どうしてだか、あれと遭遇する時は常にサングラスを装着していた。思い返してみるにここ数年、グラス姿のシノギしか、シュプレヒドは知らない。


「貴様っ、まさか……!」

「言っただろ、悪戯好きでな」


 そう、当初はただの悪戯のようなものだった。

 嫌いな相手に、いつかびっくりさせてやろうとか、それくらいの他愛ないもの。

 それが、いつの間にやら一年、二年と重なって、驚かすタイミングを逸したままに、彼の前ではグラスをつけると習慣づいてしまって。

 そして今――遂にその目は開かれた。


 恐れられ続け、隠し続けたその悪瞳をもって――もしかしたらはじめて――シノギは意識して目一杯に、睨みつけた。


 ただそれだけのこと。

 それだけで、肝が冷える。恐怖に打ち震え、魂が委縮する。

 その全挙動が、僅か半瞬遅れてしまう。


『悪瞳』という、勇者や魔王、英雄――どころか神すら睨み殺す眼光に怯えて!


 ああそれは、睨むだけで恐怖によって縛り付ける、シノギの担う第七の魔刀であるのかもしれなかった。


「いつか」


 半歩の遅れは明確に過ぎる致命的な敗因。

 この濃密な刹那におけるその微かな隙は、そのまま敗北に直結している。


 シノギの魔刀は、シュプレヒドの拳が届く前のリーチ差でもって斬り伏せ終える。

 決着は、ついたのだ。


「いつか、こんな日が来るのではないかと、思っていた」


 奇妙なほどの穏やかな声が、シュプレヒドの口から出ていく。拳から雷電が散っていく。花びらのように。


「私は停滞する鋼でしかなく、ならば、駆け抜ける風がそれを撫で続ければ、永遠に等しき果てに敗れ去るは道理」


 ――幸福を知らなければ不幸に気づけない。

 シュプレヒドの得た言葉には、続きがあった。


 幸福を知らなければ不幸に気づけない。

 しかし。

 不幸を理解せねば、幸福に至ることなどできやしない。


「だから私は負けるのだな……」


 その言葉を最後に、シュプレヒドは意識を失って倒れ伏した。

 そしてその決闘場には――ただひとり立つシノギが天に拳を突き出していた。


「あぁそして、おれの勝ちだ――!」


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