僕の生きるセカイ

 しばらくすると、俺が放った『魔法』による炎上はその勢いを忽然と停滞させていった。

 それまで轟々と燃え上がっていた炎が、消火栓で薬物を吹きつけられたかのように急速にその勢いを弱めていく。

 やがて火は完全に消え去り、あとに残されたのは、盛大に燃えていたにもかかわらず、元の黄金色を保持したままの藁人形だけだった。


 ……いや、よくよく観察すれば、藁人形の一部分が黒く焦げているのが見て取れる。だが、その部分も、次の瞬間には他の部分と同じような元の黄金色を取り戻していた。


(あぁ……そうか。結界の影響か……)


 その光景を見て、俺は一人納得する。つまるところ、あれが先ほどシェリルさんが言っていた『結界』――その二つ目の効果なのだと。ならばすべて説明が付く。あの藁人形はこの辺りに張り巡らされている結界の『内部のどこかが破損した場合、それを元通りに修復する』という効果によって、炎で焼かれながら元の状態に修復され続けていたのだ。

 そして、そのような効果があるからこそ、シェリルさんはあの藁人形を的にして魔法を撃つように指示したのだと思う。だって、そうすれば、後片付けという彼女が最も苦手とする行為を省くことが出来るわけだし。


(……って、それって……ただシェリルさんが面倒を嫌っただけとも取れないか……?)


 ……うん。まぁ、なんだかパッとしない気持ちになったけど、今はそんな事はどうでもいいか。


 兎にも角にも、俺は魔法を使うことが出来たのだ。遅ればせながらその事を自覚して、何とも言い難い感慨深い気持ちが浮かび上がって来て、俺は少しだけ頬を緩ませた。けど、あからさまに喜びはしない。その程度の自制心は心の中に残っていた。

 そうして初めて魔法を使えた事の喜びをかみしめていると、少し離れた場所でこちらの様子を伺っていたシェリルさんがメイド服のスカートを静かに揺らしながらこちらに歩み寄って来る。


「ユート様、お見事でございます。初めて魔法を使用されたとは思えない程の完成度と威力でございましたね」


「あ、ありがとうございます」


 他人に褒められるのは悪い気がしない。微かに笑いを堪えきれていないのを自覚しながらも、シェリルさんの賛辞を受け取る。


 そして、


「では、次の段階に移行するといたしましょう」


「――は?」


 続いて発せられたシェリルさんの言葉に何か嫌な感触を覚え、俺はピタリと動きを止めた。それまで緩んでいた頬が、緊張を帯びてにわかに引きつる。

 何故、彼女から発せられた一言にこんなにも『恐怖』にも似た感情を抱くのか……それは俺自身にもよく分からない。よく分からないが……ただ、ヤバいんじゃないか――今から目前にいる彼女が何か非常識な事を言い出すんじゃないか……そんな、第六感にも近い『予感』が脳裏を過ぎった。


「『次の段階』って一体――」


「そんなもの、決まっております」


 こちらの問い返しに、シェリルさんは淡々とした口調で返答する。


「――戦闘訓練にございます」


「戦闘、訓練……?」


「はい。まずはこれをお受け取りください」


 シェリルさんはそう言うと、懐から何かを取り出し、こちらに差し出してきた。咄嗟に受け取って見てみると、それが刃渡り15センチほどの、鞘に納められた小振りなナイフである事に気が付く。無意識に鞘からナイフを引き抜いてみる。ナイフの刀身は刃こぼれ一つなく、鈍色の輝きを纏っていた。その切れ味は相当に鋭そうで、このナイフがおもちゃのそれのように一切の殺傷能力を排除された『紛い物』では無いのだという事を余すことなく理解させられる。


 しかし、それを理解した所で疑問はそのままに残っている。何故、彼女はこんな物を自分に渡したのか――その真意を俺は未だにつかみ損ねていた。


「あの……これは?」


「それは我が館の倉に収納されていた、何の変哲もないナイフの一本にございます。これよりユート様には、そのナイフと、つい先ほど習得されました『魔法』を用いて、とある敵と戦闘を行っていただきます」


 彼女の唐突な宣告に俺は文字通り目を点にした。


「この世界は危険に満ちております。例え一般人であろうが、命の危機に陥るリスクは一定以上の確率で常に存在しているのです。故に、この世界の者は、皆多少なりとも戦闘の経験を積み、自己防衛の技術を磨いております。これからこちらの世界で生きてゆく以上、ユート様もその戦闘経験を積んでおく必要があると私は愚考いたします」


「で、でも……いきなり戦闘だなんてあまりにも早急過ぎますし、そもそもとある敵って、ここには俺達以外は何者も近づけないはずじゃないんですか……?」


 必死に食い下がる俺に、シェリルさんは感情の読めない声色で返答する。


「ユート様、運命というものは人の都合を慮ってはくれません。危険は常に人々の隙を狙い、その者に死をもたらそうとしております。分かりますか? いざ危険に遭遇してから『いきなりこんな危険に陥るなんて、あまりにも早急過ぎる』などと宣っているようでは遅すぎるのです」


 ――その時には既に、その者は死んでいるのですから。


 そう言いきった後、彼女は闘技場に隣接する森の一角を見た。

 そして、ポツリと呟く。


「――それに、ユート様の相手を務めるモノは、既にこの地に呼び寄せております」


 直後、俺は森の奥から忍び寄ってくる獣の影を捉えた。

 それは、薄い灰の体毛を持つ、体長1メートルほどの一匹の狼。瞳が赤色に爛々と輝き、口の隙間から垣間見える長い犬歯は遠目でも分かるほどに鋭く尖っている。


「なんで……ここは結界に囲まれてるんじゃ……」


「私はマスターより、ここ一帯に展開された結界の管理を行う権限を下賜されております。その権限を行使し、あの狼――『グレイウルフ』を結界内に招き入れました。ユート様には、あのグレイウルフと戦っていただきます」


 嘘だろ?

 俺に、いきなりあんなものと戦えと?


 ……冗談じゃない。

 まだ、戦闘訓練をしなくてはいけない、という理屈は理解できる。いや、完全に納得し切れた訳じゃないが、生き残るために必要ならば無理矢理にでも納得するしかないのだろう。郷に入っては郷に従えという言葉もある。


 だが、初めての戦闘訓練の相手が『アレ』っていうのは正直どうなんだ?

 これって、最早、戦闘訓練っていう領域じゃなくない?

 普通、戦闘経験がある人に稽古を付けて貰うものなんじゃないのか?

 それとも、これがこっちの世界での常識なのか?

 もしかすると、こっちの世界の人間は、皆、初めての戦闘でこんな奴相手に剣を振るったり、魔法を放ったりするのだろうか。


 ……分からない。

 何も、分からない。

 俺はこの世界について、ほぼ無知であると言っても良い程に、何も知らない。


 ――だが、今は、そんな俺にでも分かる事がある。


「……こいつ……マジで俺を殺す気なのか」


 森からやってきた狼は、まず俺とシェリルさんを見比べるように視線を動かし、やがてこちらを睨みつけながら、ガルルル……と低いうなり声を上げ始めた。俺の方が弱いと判断されたのか。それとも、俺が弱腰になっているのを感じ取って、こちらの方が与しやすいと思われたのか……いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。


『奴』から感じるのは、こちらを刺し貫くかのような鋭利な気配だけだ。ただただ俺を殺そうとしている気配。それに当てられ、半ば本能的に手元のナイフを握りしめる。

 そうしなくちゃ、いけない気がした。

 そうしなくては、こちらが殺される……そんな予感が頭を支配した。


(そうだよ……殺される……いや、本当に勝てっこないって、普通に考えて)


 俺は縋る様にシェリルさんを見た。しかし、彼女は首を横に振って答えを返してくる。


「今回、私は基本的に手を出しません。勿論、ユート様が命の危機にさらされた場合はその限りではありませんが……ともかく、その獣はユート様お一人の力で打倒してくださいませ。――それが、今後この世界で生きてゆくための大きな糧となるはずです」


 そう言って。シェリルさんは一歩身を引いた。

 どうやら、本当に彼女は手出しをするつもりがないらしい。


(くそっ……何が『冗談だよ』だ。あの『神』、嘘ついてやがったな……相当危険な世界だろ、ここ……)


 胸中で自分をこの世界に転生させた張本人へ呪詛を吐きながら、俺はシェリルさんから視線を外し、今にもこちらに飛び掛かってきそうな狼と相対する。


 狼は相も変わらず、こちらを見つめている。全身に奴の鋭い視線を感じるが、特に首筋――喉元に一段と強い視線を感じた。

 それで分かった。


 ――奴は狙っている。俺の首に己の牙を突き立てようと、こちらの隙を伺っている。


 嗚呼。怖い。無茶苦茶怖い。だって、目の前の狼は俺の命を狙ってる。そりゃ、怖いに決まってるさ。


 その証拠に心臓はバクバク煩いし、上手く力が入らなくて、今にも腰が抜けそうだ。


 だが、今は何とか腰を抜かして尻餅を付かずに済んでいる。奴の気配に耐え、真正面に立ちはだかっていられる。それどころか、こうして互いににらみ合っている間に、少しずつ心の中に余裕が生まれてきている気がする。


 それは、何故か――理由は簡単だ。


 確かに、狼から放たれる敵意、殺気は凄い。

 だが、『神』と共にいた時に現れた『黒い影』――あれから感じた禍々しい気配に比べると、幾分か迫力という物に欠ける。何というべきか。一度経験した『あれ』に比べれば、狼のそれはまだ常識の範囲内という気がするのだ。


 そうだ。狼から感じる気配は、あれに比べれば――大したことは無い。耐えられる。絶望しか無かった……発狂するのを堪えるしかなかった、あの時よりは全然マシだ。


 だから、落ち着け。

 緊張を紛らわせるように、自分に言い聞かせる。


 焦るな。必要以上に相手を恐れるな。

 確かに、これは俺の初めての戦闘だ。命のやりとりだ。

 だけど、さっきのシェリルさんの言葉を鵜呑みにするなら、これが、この世界の常識。これが、日常の光景の一部。


 だったら、いずれは乗り越えなくちゃいけない。いや、いずれとは言っていられない。今。……今、この緊張感を乗り越えなくちゃ。


 この新しい世界で生きていく為に。

 両親から貰ったこの命を、出来るだけ長く繋ぐために。

 ……そして、もし俺が死んで、もし死んだ先に死者の世界があって、もしその世界に『あの娘』がいたとして、もし運よくその世界で『あの娘』に再会できた時。胸を張って、

 ――俺は生きたよ

 そう、『あの娘』に言えるように。


「来いよ……」


 俺は、まだ戦いを知らない。本気で誰かを殴ったことが無ければ、殴ろうとさえ思った事は無い。誰かを殴る覚悟を決めた事が無かった。


 だが、今決めた。覚悟――戦う覚悟を。


 目前の敵を打倒する覚悟を。


『ガアアアアアアア!!』


 狼が突進してくる。

 俺はナイフを握り、不格好な構えを取った。

 これが、始まり。これが、今までの終わり。


「アアアアアアァァァァァァァアアア!!」


 咆哮する。

 弱気な自分を吹き飛ばすために。

 相手を威圧するために。


 そして、俺は我武者羅にナイフを一閃した。


 ――激突。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 少年と狼が戦っている……その様子を、メイド服を着た魔導人形であるシェリルは、一定の距離を置いた場所から見つめていた。


 両者が戦い始めておよそ三分が経つ。

 現在、形勢は狼が有利。当たり前だ。少年は転生者――いずれは大きな力を手にする可能性がある存在だとは言え、今はただの戦闘素人な一般人に過ぎない。


 ナイフを持つ構えは何処か頼りなく、突撃して来る狼を躱す際のステップには、目に見えて無駄が多い。その戦い様はどうにも危なっかしく、いつ狼に捕まり、マウントポジションを取られてもおかしく無い状況のようにも思えた。


 だが、そのような状況でも、少年の目に灯った覚悟の火は消えていない。

 拙いながらも右手でナイフを振りまわし、狼の体表を切り裂こうとしている。先ほど覚えたばかりの魔法を放とうと、狼の隙を伺っている。そして、そのナイフの精度、相手の隙を見出す観察眼は、こうして戦っている間にも徐々に向上しているように見えた。


 実際、戦況は僅かずつではあるが、少年の方に傾いてきている。


 間違いない。シェリルは確信を抱く。

 少年は成長しているのだ。この戦いの中で。それも、本来ではあり得ない程の速度で。


「この分ですと、私の手助けは必要無いようでございますね……」


 少年の雄姿を眺めながら、シェリルはポツリと呟く。


 ――正直なところ、彼女はこの戦いで少年が相手を打倒できるとは思っていなかった。

 相手と相対し、『戦う』という事が出来れば御の字。最悪の場合は、少年の心が折れてしまい、相手と対峙することさえできない可能性もあると想定していた。

 確かに、この世界において『戦う』という行為は最早日常の一部となっている。だが、少年が元いた世界ではそうでは無い。それは、彼女のマスターから教えられ、分かっていた事であった。


 故に、彼女は想定していたのである。

 初めて闘争の空気に触れ、少年の心が折れてしまう事を。そして、そうなってしまった場合は、ある程度の時間をかけ、少年を闘争の空気に慣れさせる必要がある――とも。


 面倒な仕事ではある。だが、それがマスターに任された彼女の仕事。

 心折れた少年を再び闘争の中に放り込むことに気後れする気持ちが無いでも無かったが、彼女は自分の私情よりも、与えられた任務の遂行を優先する事を決意していた。


 だが、結局。その決意は無駄に終わった。

 少年はシェリルの想定を上回り、初めての戦闘であるにも関わらず、一歩も引かず、大立ち回りを演じて見せている。

 その様は途轍もなく不格好だ。その様は途方もなく拙い。

 だが、その様はどこか尊く、そして猛々しい。

 目を見張る何かがその光景の中にはあった。

 そこでシェリルは、遥か遠い昔に自らのマスターが放った一言を思い出す。


『ここにやって来るのは……最後の一駒だ。最も可能性があり、正しく才能の塊だろうね。シェリルには、そんな彼の旅立ちを手伝ってやってほしい』


「なるほど……我がマスターが才能の塊だと――そう評されるわけです」


 過去を思い返すシェリルの視線の先――少年と狼の戦いは既に終幕を迎えつつあった。


「『紅、猛き赤、我が意に従う火球と成りて、滅焦せよ』」


 相手の一瞬の隙を突き、掲げられた少年の右腕から一抱え程の大きさの火球が射出され、狼に直撃。


『ガアアアァァァァァ?!』


 小規模な爆発が起き、狼の姿が黒煙に包み込まれる。爆心地から発生した熱波がシェリルの頬を撫でた。


「……やった……のか?」


 黒煙で見えなくなった狼の方をボーッとして見つめ、そんな事を呟く少年。その様子はさっきまでの張り詰めたような、どこか鬼気としたそれとは違い、明らかに気が抜けてしまっている。


 その少年の様子を見て、シェリルは溜め息を突いた。


「――これは……前言撤回、でございますね」


 シェリルが地を蹴る。メイド服に包まれた、戦いとは遠くかけ離れた彼女の姿が一瞬の内にその場から掻き消える。

 それと同時、黒煙の中から飛び出す影があった。――グレイウルフ。少年と対峙していた獣は、魔法の直撃を受けても尚、そのダメージを意に介する様子も無く、ただただ目前の少年の首を狩ろうと黒い煙の壁を突き破りながら跳躍したのだ。


「――――ッ?!」


 対して、直前に緊張の糸が切れ、気を抜いてしまった少年は、狼の唐突な突貫に対応できない。己の身に迫る長く白い犬歯を唖然とした表情で見つめ、それが自分の首に刻一刻と迫りつつあることを悟り、少年は身を捻る事も忘れて咄嗟に目を瞑った。


 ――しかし、想定していた痛みが襲ってこない。代わりに、ガキンッ! と、硬い物同士がぶつかり合う甲高い音が少年の耳朶を打った。


「え……?」


 異変を感じた少年は固く閉じた瞼を開けた。そして、自分の目前に立ちはだかり、狼の牙をナイフよりも少し長い短剣一本で受け止めるメイドの姿をその視界にとらえる。


「――し、シェリルさん?!」


 目を閉じていたのはたった一瞬だけ。にも拘らず、いつの間にか自分の目前に現れた魔導人形オートマタのメイドに、少年は目を見開いて驚愕を露わにする。


「――ユート様」


 シェリルは涼しい顔で狼の攻撃を受け止めながら、自分の名前を呼ぶ少年を横目で伺う。

 そして、少年に目立った怪我がない事を確認すると。


「如何なる時も油断大敵……にございます。例え敵を打破できるであろう必殺の一撃を叩き込めたとしても、緊張を途切らせるのはいただけませんね」


 そう、少年に諭しながら。

 彼女はいとも簡単そうに狼の牙を弾き、無防備に晒された彼の者の首筋を短剣の刃で刺し貫いた。


『ガァァァァアア……?』


 一瞬、何が起こったのか分からないと言った様な声を漏らし、狼は首から赤い鮮血を吹きだしながら地に倒れ伏す。その赤い瞳からは――既に命の灯が完全に消え失せている。


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マジックライフ!~異世界で調合師となった少年が英雄に至るまでの物語~ 二十字 悠 @nijuuzi-yuu

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