第2話
四月十五日(日)
「私、女優になる」
「うん、無理」
「なんでえ!?」
唐突な橋田の宣言に鈴木は戸惑うこともなく反応した。それは橋田がわざわざ鈴木を彼女の家まで呼び出したことに鈴木が何がしかの警戒心を抱いていたからであり、そしてまた、
「だって、大体予想ついたし」
からである。
「いやいや。そこじゃなくて、『無理』のところ」
「……」
「……」
「……普通に無理だろ?」
「決めつけるなあああ!」
……。
「置き時計さん、置き時計さん。ああ、あなたは森の奥で何者の侵入も寄せつけず、何年も何十年も何百年もただただ不変の存在であり続ける深く冷たい湖のように、心を動かすということを知らないのですね」
「……」
鈴木には芝居のよしあしを量る心得など何もなかったが、どうやら置き時計が原文の「crocus」の誤訳であるらしいということは分かった。
「ああ、私は石になりたい! 石になってしまえたらどれだけいいことか! 私は鏡がごとく穏やかな湖に、波紋を広げるため投じられた一石になりたい!」
「死んじゃうよ?」
……。
「大体さ、なんで高三にもなってそんな決心をするんだよ」
「だってなりたいじゃん?」
私の実力を見せてやると意気込んで演じられた数分の演技のあと、橋田はケロッとした顔で鈴木に応えた。顔をしかめさせていかにも悲愴だといった、そんな表情からの一瞬の変わり身に、鈴木は若干の戸惑いを覚えた。
「高校卒業したら、上京する。バイトで何とか食いつないで、でもってオーディション受けまくる」
「へー……」
橋田の話を聞きながら、鈴木は橋田を応援するべきか悩んでいた。鈴木にとって橋田が友だちでもない普通のクラスメート程度の存在なら、鈴木は迷わず一言、「応援するよ」と顔に笑みを貼りつけて言うことができただろう。しかし、鈴木は本当に大事な相手が叶わない可能性のほうが高い夢を追うとなって、はたして心から応援することが相手のためになるのだろうか、分からなかった。
「置き時計さん、置き時計さん――」
「でも智花、それほど美人ってわけでもなあ……」
「言わぬが花という言葉を知れ」
***
翌日。高校の教室で多田郁仁が鈴木へ話しかける。多田はサッカー部所属で運動が大好きな熱血漢だった。
「おい、桐生大橋のそばでクロッカスが満開だってよ」
「置き時計がなんだって?」
「頭大丈夫かおまえ」
六月四日(金)
今日は高校生活最後の文化祭が十九時をもって終わった日であり、またいよいよ進路について真剣に向き合わざるをえなくなる日々の始まりの日でもあった。
「はい、プレゼント」
「おおー、ありがとう海斗!」
そして文化祭の熱も冷めやらぬままに、鈴木と橋田の二人はいつもと変わらない帰り道を並んで歩いていた。別に実行委員として多忙でありながらも充実した時期を過ごしていたわけでも、クラス委員としてみんなを引っ張っていたわけでもない。だが、二人とも普段より高揚していた。テンションが上がっていた。今の二人ならば何だって出来るかもしれないといえば大げさだが、少なくとも、もしかしたら橋田の夢は叶うかもしれないと心の片隅で思えるくらいには、二人は盛り上がっていた。
二人は酔っていたのである。
「ネックレスだ……!」
「おうよ」
どちらかが言い出してということでもなく、文化祭にプレゼントの交換をしようという約束が自然といつの間にか二人の間に出来ていた。橋田は鈴木へハンカチを、鈴木は橋田にネックレスをプレゼントした。
五千円は軽く超すくらいの、バイト禁止の高校に通う学生にはかなりきつい値段のネックレスを、鈴木は橋田にプレゼントした。
「いいか、そのネックレスは首輪の象徴と思え。智花はそのネックレスをつけている間、首輪に拘束されたかごの中の鳥だ! いつか女優として独り立ちできるようになったら、俺に返しに来い! そしたらもっと高いネックレスを買ってやる」
「……キモーイ」
そう言いながら橋田が掲げたネックレスは、街灯の光を透かして、夜空の星々よりも輝いていた。
十一月二十七日(水)
「三者面談、終わった?」
「いや、俺は明日。そっちは今日だっけ?」
「うん。卒業したら上京しますって、言うつもり。昨日お母さんと大喧嘩しちゃった……」
橋田の目元は赤く腫れていた。母親との大喧嘩が関係しているのだろうと鈴木は当たりをつける。
あまり触れてほしくなかったのか、橋田が鈴木に話を振る。
「それで、海斗はどうするの?」
「……分からん」
「分からんって……」
「智花や、郁仁、尚輝がうらやましいよ」
智花は女優に、郁仁はサッカー選手に、尚輝はミュージシャンになることをそれぞれ目指している。この三人に鈴木を加えた四人は、幼稚園からずっと一緒にいる腐れ縁だった。
その中で鈴木だけ、これといった夢が、ないのだった。
時々、鈴木は彼ら三人がどうしても羨ましくて仕方なくなる。
「うーん……じゃあさ」
本気でそうなるように勧めたわけではないのだろう。あくまでただ話の流れ上、軽い気持ちで言ったのだろう。
「海斗、公務員になりなよ」
「あ……?」
橋田は腫れぼったい目の周りなど、どこ吹く風とばかりに得意げな顔をしていた。
「もし……本当にもしもの時、私か郁仁か尚輝の誰かが夢を諦めかけたら、その時は海斗が誰かの支えになるの」
夢を追いかける不安定な進路とは真逆で、安定が代名詞になっている公務員という職業。いざ夢破れて故郷に帰ってきた時に、経済的にとはいわないまでも、何かと頼れるような存在になれ、というようなことを橋田は言った。
一般企業に勤めることと何の違いがあるのか、公務員が果たして頼りになるような職業なのか、鈴木には分からなかった。橋田も分かってはいなかっただろうと鈴木は思う。これは高校生活という日常、その一場面の中での会話に過ぎない。であるから、鈴木はそこに深い意味を求めるべきではなかったのだ。本来は「なに弱気になってんだよ、女優としての才能のなさに打ちひしがれでもしたのか? え?」と笑って返すべきだったのだ。
「分かった。俺なるよ、公務員に」
「頭大丈夫海斗?」
鈴木はこの時を境に、公務員になることを第一希望に――多少かっこつけて言えば――夢にした。
三月十四日(土)
「う~んこの辛さがたまんない!」
「……やっぱ、シマダ食堂が麻婆豆腐をいまだにメニューの端にちょこんと載せているのは、智花がいるからとしか思えないわ」
橋田の上京を明日に控え、鈴木と橋田はシマダ食堂で夕飯を食べていた。最後の晩餐は何がいいかと聞かれ、橋田がシマダ食堂の麻婆豆腐と答えたためだ。見た目は全く辛そうではないが実際のところはのたうち回るほど辛い橋田の麻婆豆腐を横に、鈴木は親子丼をかきこんでいた。誰にも言ったことはないが、鈴木はシマダ食堂のメニューの中で一番親子丼が好きだった。さっぱりとしたタレに卵のまろやかさがとても合っている。
「この味ともお別れかあ……」
麻婆豆腐をたいらげ、お冷を一口飲んでから橋田が呟く。シマダ食堂はいつも賑わっていて今日も例にたがわず騒がしかったが、橋田の声はよく通った。役者として培われた肺活量ゆえなのかは分からないが、とても澄んでいてきれいな声だと鈴木は思った。
「寂しくなったか?」
「まさか」
橋田は好戦的な笑みを浮かべた。しかしそれは橋田の中だけの話で、実際の表情は笑みとは程遠いものだった。
「これから私は早く郁仁と尚輝を追い抜かなきゃいけないのに」
橋田は胸に片手を当ててやや芝居がかった風に話す。
「郁仁はサッカー選手になる夢を叶えるために、入団テストを受けまくってるし、尚輝はミュージシャンになる夢を叶えるために、もうとっくに上京した」
「……それは、郁仁が勝手な思い込みで突っ走るだけのヤツだからで、尚輝が後先考えないヤツだからだ」
「……何が言いたいの?」
「思い込みで突っ走るわけでも、後先を考えないというわけでもないお前が、今日一度もちゃんと笑えてないのを心配してるんだよ」
「……」
橋田自身もそのことに薄々気づいていたのか、押し黙った。周囲のざわめきが一層大きくなったように鈴木には感じられた。
「……そりゃ、寂しいよ。怖いよ」
橋田は小さな声でそうこぼした。おそらく橋田が女優を目指すと宣言して以来、鈴木が初めて聞いた橋田の弱音だった。
そして、初めて弱音を表に出した橋田に対して、鈴木は――
「智花……」
「……帰ろっか。明日、早いし」
――何も言うことができなかった。
三月十五日(日)
桐生駅の、東京行きホーム。
「忘れ物は?」
「未練を少々」
「やかましい」
鈴木は橋田の見送りに来ていた。都会の駅ではこうもいかないのだろうが、ここらの駅では一番大きくともしょせんは田舎の桐生駅、駅員に事情を話すと、すんなりと鈴木をホームまで通してくれた。二人以外に客はいない。
「似合う? ネックレス」
「大人っぽすぎたか」
「どういう意味じゃこら」
橋田の荷物は鈴木の想像よりも少なかった。旅行用の大きなバッグ一つしかない。
「……」
「……」
「……ゴメンね」
「何が」
「勝手にいなくなること」
「一年も前から予告してたじゃねえか」
「あと一年しかないってなって初めて、言う決心がついたってだけ」
橋田はそっぽを向いていた。
「ホントはもっと前から決めてた。ここにある大事なものの何もかもを捨てる決心をつけてた。そのうえで、海斗と一緒にいた」
「……セリフが臭いぞ」
「うっさい」
橋田の声が震えた。
「いい? 今日から海斗は私を嫌いになること。いや、なれ。そして私のことなんかさっぱり忘れて、公務員にでも何にでもなりやがれ」
近くの踏切が鳴った。
「んでさ、もしも私が夢を諦めようとしてここに帰ってきて、んでいつもみたいに麻婆豆腐なんか食べてたらさ、『女優目指してたくせにのこのこ地元に帰ってきたカッコ悪いことこの上ないヤツ』とかなんとか言って、私のこと笑ってよ。そしたら、たぶん未来の私もまだ頑張れる気になるだろうからさ。思いっきり私を突き放して、東京に帰らざるをえなくさせてほしい」
電車が来る。速度を徐々に落として、止まる。ドアが開いた。
「では……橋田智花、行ってまいります! 次に会う時は、辛すぎる麻婆豆腐をマズイと思えるほど舌の肥えた、そんな大女優になってるから!」
電車に乗り、反転。わざとらしい敬礼ポーズを鈴木へ向ける。大粒の涙が頬を伝っていた。
けれども、その顔は今までに鈴木が見たこともないほどの、満面の笑みをしていた。
あの顔を作るため、きっと橋田は一晩中練習したのだろう。
橋田の芝居魂を、鈴木はそこに見た気がした。
***
鈴木は悩んでいた。橋田を送りだしたことが、果たして本当に彼女のためになっているのか。橋田は全力で夢を追いかけている時が一番輝いているとか、好きを仕事にすることが幸せに繋がるのかとか、悶々としたまま、鈴木は答えを出せないでいた。
「……」
橋田を送った帰り道。
鈴木は公園のベンチに、まるで抱きしめあうようにして置き捨てられた、二つの古びた缶ビールを見つけた。
鈴木は、せめて橋田が弱音を吐こうと帰郷してきた時くらいは、夢を諦めるよう優しく諭そうと、そう心に決めた。
幾億ものシンアイ 桜人 @sakurairakusa
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