幾億ものシンアイ
桜人
第1話
ガラス扉を開けると、膨らんだ風船の口から空気が押し出されるように、とたんに音が店の中から飛び出してきて橋田智花の体を叩いた。一瞬の後にそれが客の話し声や料理の作られる音だと分かる。店内はたいそう賑わっていた。オレンジ色の照明が若干まぶしい。
――何も変わっていない。
その事実に橋田はそっと安心しつつも、どこか取り残されたような感じを受けた。取り残されて置いて行かれたのは、十年以上前から変わらずに営業し続けているこの「シマダ食堂」という大衆食堂に普通はなるはずだ。だが、橋田はそれと真逆の感慨しか抱けなかった。それは橋田がこの十数年を「後退してしまった」と、どこかで捉えているからかもしれない。
カウンターの最奥の席が空いているのを見つけて、そこへ座ろうと歩を進める。食事を終えて会計をしようとする数人の客とすれ違う。通路が狭いので、かなり身をよじらなければならなかった。
「麻婆豆腐ひとつ~」
席に座るなりメニューも見ずに注文をする。「あいよ~」と応える二代目シマダ食堂店主は覚えてくれているだろうか、ずっと昔に、ここへ来るたびに飽きもせず麻婆豆腐を頼んでいた十数年前の私のことを。
先ほども述べたように、ここシマダ食堂は大衆食堂である。しかしなぜか、この店のメニューで、麻婆豆腐だけはとても辛い。大衆食堂という言葉の意味を疑ってしまうレベルで、本当に辛い。そして橋田はこの辛い麻婆豆腐が学生のころから大の好物だった。「シマダ食堂が麻婆豆腐をいまだにメニューの端にちょこんと載せているのは智花のせい」とよく言われたものだったと、昔のことを思い出す。橋田の記憶では、彼女以外にこのメニューを完食する者も、ましてや頼む者すらいなかったはずである。
「麻婆あがりー」
記憶の中の店主よりも若干角が取れ、丸みを帯びた声と共に麻婆豆腐が橋田の目の前へ運ばれてくる。たいてい「激辛!」と宣伝される食べ物は赤唐辛子のせいか赤々としているものだが、シマダ食堂の麻婆豆腐は普通の見た目をしている。では一体何で辛味を調えているのだろうと橋田はいつも不思議だった。
湯気の立つアツアツの豆腐を口に運ぶ。懐かしい味と香りがした。そしてまた一瞬の後に、懐かしい辛味が口内全体――特に舌先を強く刺激する。寸分たがわずに、あの頃のシマダ食堂の麻婆豆腐だった。
「――」
不意に、目の周りが熱くなって視界がにじんだ。
「――あれ、あれれ?」
麻婆豆腐が辛かったからなのか、それとも麻婆豆腐が懐かしかったのか。
どちらにしろ、今にも目の端から雫がこぼれ落ちそうなほどに橋田が涙目になっているのは、この麻婆豆腐のせいだった。
だから、
「よ」
「……あ?」
橋田の隣、その空いた席に座ろうとした同窓生、鈴木海斗の存在に、橋田は数瞬、反応することができなかった。
***
鈴木海斗というやつを一言で表すなら、それは「一緒にいて安心する、大樹のような存在」だろうと橋田は思う。容姿が柔和でとっつきやすいとか、声が低くてハキハキとつっかえずに話すさまが聞いていて心地よいとか、特段そのような理由があるわけではない。ただ、学生だった頃の橋田にとって、不思議と鈴木の隣は居心地がよかったのだ。自然、鈴木は学生時代に最も仲の良い相手だった。
「よぉ」
「……ん」
「久しぶりだな。ここでいいか?」
「……ん」
昔よりも薄い声音で話しかける鈴木に、橋田はただ一音だけで返す。極力ぶっきらぼうに、あくまで今まで泣いていた事実なんて存在していなかったかのように。
「懐かしいな、なんだか」
鈴木はそんな橋田のぞんざいな態度に橋田との昔を思い出したのか、破顔する。声音も昔の調子に戻った。
「呼び出されたから来たけど、お前東京にいるはずだろ、智花? まさか夢破れて逃げてきたのか? え?」
そしてその鈴木の態度に橋田が懐かしさを覚えたとたん、間を置かずに鈴木は橋田をからかい、挑発してきた。熱した鉄の棒で貫かれたような痛みが橋田の胸のあたりに広がる。
「……うるさい」
視線は鈴木ではなく、あくまで麻婆豆腐に向けながら、橋田は短く言い返した。
――。
橋田は女優になることを夢見て、高校卒業と同時に地元を離れて上京した。そんな簡単に女優として仕事がもらえるわけでも、ましてや女優一本で食べていけるわけでもないということは重々承知していた。自分がどこまでやれるのか試してみたいという甚だ無責任な言葉に乗って挑戦しようと思ったのでもなければ、十年経っても芽すら出ないのであれば地元へ戻ってそこで就職しようという逃げの選択肢を用意していたのでもない。
ただ、少しだけ、注がれた水が限界を超えてコップからあふれ出してしまうように、我慢が限界を超えて、どうにかなってしまいそうだったから。
「これはアレ……そう、ちょっとした帰省。それだけ」
単語をつなぎ合わせて、なんとか意味の通りそうな、それでいて図星を突かれて苦し紛れにした、言い訳だとまるわかりの言い訳をする。
「だからたまには顔でも見せてやろうって……」
橋田は激辛の麻婆豆腐を食べたのとは別の理由で顔とその周辺が熱くなるのを感じた。それは誰が聞いても負け惜しみにしか聞こえないセリフを吐いた自分への恥ずかしさと、そして、今、橋田の隣に座る男へ弱音を吐き出せる最大のチャンスを逃してしまった、自分への情けなさに対して。
そのまま意地を張らずに言ってしまえばよかったのだ。「つらい」と。そうすれば、そうしていれば、きっと鈴木は……
「そうか」
鈴木は端的にそう返すと、橋田と同じようにメニューを見ることもなく、そのまま
「親子丼ひとつ~」
と、十数年前と変わらぬ口調で注文をした。
***
「お前、まだそのネックレスつけてるのな」
「誰かさんがくれた、唯一の贈り物だもんね。大切に使わせてもらってますよ」
「実はそれ五百円くらいの安物なんだけどな」
「……言わぬが花という言葉を知れ」
橋田が麻婆豆腐を食べ終えてから鈴木の頼んだ親子丼が運ばれてくるまでの間、二人は共通の知人の「今」や、そしてお互いがこの十数年間それぞれ何をしていたのか、今どうしているのかなどについて語り合った。
「へえ……郁仁、自動車整備士になったんだ」
「郁仁の父さんの後を継いだんだ。忙しいって愚痴をよく聞かされるよ」
鈴木は、おかげで最近は付き合いが悪くってしょうがない、と苦笑いをした。橋田は、初めて聞く高校時代の友人たちの「今」にとても新鮮な思いがした。
「尚輝はあの後、普通の会社に就職した。その会社がブラックなのかは知らんが、働き方改革について、やり方が分かってないって文句ばっかり言ってる」
「それは……尚輝らしいなあ」
「ちっとも変わってないよ、アイツは」
……。
共通の知人の話題が終わって、少しの間が空く。店の中はかなり騒がしいというのに、お冷に入れられた氷の山の崩れるとても澄んだ音が、やけに大きく響いたように二人には感じられた。
「……それで、海斗は公務員か」
「ああ……安定だからな」
「そうだね……安定だ」
いざ二人の話題になって、二人とも言葉につまる。つまって、だけれどもそうやって時間をかけてようやく出した言葉はひどく当たり障りのないもので、なかなか話が膨らまない。
「親子丼、お待ち~」
店主の声が契機となっていったん会話が打ち切られる。橋田も鈴木も、ほっと一息ついた。
***
鈴木が親子丼をかきこむ。
橋田はそれを横目に見、そして十数年という歳月が今橋田の隣に座って親子丼を食べている男にどんな変化をもたらしたのか、それを観察していた。
細かいシワが目立つようになった。肌が白くなった。体全体が少し太くなった。他にも色々あるが、有り体に言えばそう、年を取った。
橋田は、今度は彼女自身を見ようとする。しかし橋田の顔は唯一彼女にだけは見ることができず、そして十数年前の自身の体がどんなものであったかも彼女はもはや覚えてはいない。だが、きっと鈴木と同じような変化をたどっているのだろうという予想はついた。
静かだと、橋田は思った。それは単純に橋田と鈴木の間に会話がないからかもしれない。それとも、橋田の頭の中が妙にスッキリとしていて、周りの雑音が耳に入らないからかもしれない。
だからなのか、それとも全く別の理由なのか、橋田は一つの決心をした。恥ずかしげもなく、自身の弱い部分を鈴木へさらけ出してしまおうと決心をした。決心ができた。元はといえばそれが目的で今日は鈴木を呼び出したのだ。決心などできていて当たり前だが、橋田は今、本当の意味で決心ができたのだと思った。
「あのさ、海斗……」
「女優になる夢を、諦めたいって?」
鈴木は橋田の方を見ることもなく、親子丼に視線を向けながら、まるですべてを分かっているかのような口調で、橋田の言葉を先取りした。
とたん、周りの雑音が再び聞こえ出したのを橋田は感じた。食堂の入り口にある扉を開けた時とはまた違う、ゆっくりと音が体の中へ侵入してくるような、そんな聞こえ方だった。
予想外の反応に虚を突かれて二の句が継げない橋田をよそに、鈴木は続ける。
「別にいいんじゃねえの、それで。おめおめと地元に帰ってきたって、誰も智花のことは責めないしからかわない」
橋田は困惑した。きっと鈴木なら、そう、鈴木ならば、たとえ今の自分が弱音を吐いたとしても、それに流されずに「もう少しだけ頑張ってみようぜ」と、そう慰めてくれるだろうと、鼓舞してくれるだろうと勝手に期待していたのだ。しかし、鈴木は橋田を励ましてくれることも、ましてや橋田の弱音を聞くこともなく、話を進めていく。
「実は智花から今日会わないかって連絡が来たときから、こういう話になるんだろうなとは思ってた。ちょっとした軽い想像だったけど、実際に会って確信したよ。だって、智花お前、泣いてんだもん。もういいだろ? 我慢なんてしなくていいから、こっちに戻って来いよ」
「待ってよ、私そんなこと言ってないじゃん! 泣いてたのも、麻婆豆腐が辛かっただけで……」
つい、橋田は反論してしまった。鈴木の言ったことはすなわち橋田の言ってほしかったことそのもので、だけれども橋田は鈴木の言葉に感情的になってしまった。
「……この十数年で智花は何ができたんだ? もう諦めろよ」
鈴木はその視線を親子丼からようやく橋田に向けた。どんぶりはもうすでに空になっていた。鈴木の口調はまるで諭すようだった。
「奇跡は起きないから奇跡っていうんだ。夢だってそうだ。みんないつの間にか叶えたい夢を諦めて、大人になっていくんだ」
「! ……でも」
「郁仁はサッカー選手になる夢を諦めて、自動車整備士になった」
「それは、郁仁が勝手な思い込みで突っ走るだけのやつだったから……」
「尚輝はミュージシャンになる夢を諦めて、会社員になった」
「それは、尚輝が後先考えないやつから後先を考えるやつになったってだけで……」
「じゃあ思い込みで突っ走ったわけでも、後先を考えてなかったわけでもないお前は、どうしてこんな所で麻婆豆腐なんか食ってるんだよ」
「それは……」
夢を諦めようかと、弱気になってたから――とは、言えなかった。
橋田はただ単純に愚痴を聞いてほしかったのだ。たまには弱音を吐いて、しかし鈴木はそんなもの突っぱねて夢を追い続けるようにと応援してくれる……今、それとは真逆な展開が進んでいた。鈴木が夢を諦めろと促して、橋田が夢を追い続けるのだと鈴木の言葉を突っぱねようとする。橋田は鈴木の心をまったく読めなかった。
一体どうしたというのだろう。果たして鈴木はこんな男だっただろうか。
かつて最も近くにいた相手を、橋田は今とても遠くに感じた。
***
結局、その後も鈴木は地元で就職口を探してみようといった旨についていくつか話し、二人は店を出た。扉を閉めた瞬間、店内のざわめきは風船が一瞬でしぼんでしまったかのように小さくなった。都会と違って地元の夜道は明るくもないしうるさくもない。かといって橋田は夜に星を見るような習慣もなければ、鈴木は虫の音に耳を傾けるような趣味もない。都会や地元といった考えも、人が多いか少ないかというだけで、本質的な違いはないのかもしれないと橋田は思った。
「この後の予定は?」
と、鈴木が橋田に訊く。
「別に何も。家に帰って寝る。いつ東京に戻るのかは、ちょっと分かんない」
本当は鈴木に愚痴を聞いてもらって、明日にでも東京へ帰ろうかと考えていた橋田だったが、鈴木に夢を追う気概を吸い取られてしまったかのように、どうにも気合が入らなかった。
「じゃあ駅まで送るよ」
鈴木はそう言って最寄りの桐生駅へと道を進んでいく。鈴木の家はこのあたりだが、橋田の家は岩宿駅の近く、桐生駅から一駅のところだった。高校時代は自転車で済ませていた距離だが、二人とも長らく自転車には載っていないどころか、もはや自転車を乗れるのかさえ怪しかった。
「……」
「……」
駅に着く。二人の間に会話はなかった。
桐生駅はこのあたりでは最も大きな駅で、そして東京へと繋がる唯一の駅だった。橋田は十数年前、この駅から一人上京していったのだった。今日地元へ帰ってきたときにも利用したが、駅は何一つ変わっていなかった。……電子マネーを使えるようになったという点を除いて。
駅に着いてから十分程度が経っただろうか、電車のやってくるゴウッという音がした。
「……じゃあ、いつかまた会えるなら」
「……ん」
橋田の返事はまたもやそっけないものとなった。鈴木はシマダ食堂で橋田に見せたような苦笑いをする。
よく映画で見るような、ホームで電車の窓を挟んでのお別れなんていうそんなロマンチックなことは、悲しくも現実は許してくれない。改札前でのお別れだった。それでもこうして改札前を占拠することができるのは人の少ない地元ならではの利点かもしれないと、橋田はほおを緩ませた。
そして、橋田は鈴木に背を向けて改札を通り、ホームへと一歩を踏み出した――
「智花」
――その瞬間、
「ゴメン、さっきまでの話、あれウソ」
「……は?」
「早く麻婆豆腐嫌いになれよ」
脈絡もなければ意味も分からない、別れの言葉にしてはいささか不適切な鈴木の言葉。
しかしそれは、衝撃となって橋田を襲った。
「!」
鈴木がどんな意図でその言葉を放ったのかを問い詰めようとしたのか、はたまた条件反射的に振り向いてしまったのか。橋田は数瞬と間を置かずに改札へと振り返るが、そこにはもう、鈴木の姿はなかった。
***
「ハハハ……」
車両の中には、橋田以外には舟をこいでいる中年サラリーマンと塾帰りだろう高校生の二人くらいしかいない。そんな人の少なさもあってか、彼女は声を抑えようともせずに笑う。目じりには涙を浮かべて。
「ハハッ……あの野郎、約束覚えてるじゃん。ならさっさと言えっつーの」
橋田にとって、一体どうして鈴木は一緒にいて安心できる存在だったのか、その理由を橋田は初めて理解した。
鈴木は――海斗は、どうしようもなく優しいやつだったのだ。
橋田を心配して夢を諦めるように諭そうとしても、鈴木はやはり、約束を破れない男だった。
「もう十年くらい……頑張ってあげますかね」
橋田は明日、東京へ戻って、今度こそ夢半ばで故郷へなんて帰るまいと誓った。
***
橋田を桐生駅まで送り、鈴木は一人で帰路を行く。橋田を送る時も会話はほとんどなかったので、一人で歩こうが橋田と二人で歩こうが、そこに大して差はないように鈴木には思えた。
途中で缶ビールを一本買い、近くの小さな公園のベンチで一気にあおる。
鈴木はアルコール飲料が特別好きというわけではない。ただ、アルコールで「酔う」という、その感覚は好きだった。
「……」
だけれども、皮肉なことに鈴木はアルコールにはめっぽう強い。酔おうと思っても、簡単には酔えなかった。
「あと少しだったのになあ……」
そんなわけで缶ビール一本程度ではまず酔えず、鈴木は空になった缶を握りしめた。そして同じように握りつぶされてベンチの端に捨てられていた空の缶に、ちょうど凹凸がピッタリと噛み合うように重ねる。
それはまるで二つの缶が抱きあっているようだった。
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