エピローグ

 瞼の奥に暖かく、柔らかな日差しを感じて目を覚ました。梅雨の合間の晴れはどうやら一晩経ってもまだ踏ん張っていてくれたらしい。


 時計に目をやると少々早起きだったことが分かったが、かといって二度寝をする気にもなれなかったので欠伸を噛み殺しながら支度を始めた。


 そうして時間にゆとりを持てたのは良いが、むしろゆとりを持ちすぎてしまったようで、ゆっくり朝食をとっていたら結局いつもと同じくらいの時間に落ち着いてしまった。やはり人間、いつも通りの生活が一番って事ですかね。


 今日は一日中晴れだという天気予報の言葉を信じて、久しぶりに傘を持たずに駅までの道を歩いていると、見知った顔を二つ見つける。


「おはよ、新!」


 元気な声でいつも通りの挨拶をする桃と、


「おはようございます、先輩」


 これまた最近ではすっかり当たり前になっていた卯崎だ。


「ああ、おはよう」


 短く挨拶を返して二人の元へ合流する。


「ねえ、聞いてよ新!」


 開口一番、桃がぐいっと近づいてくる。


「桜ちゃん、今日で私の家から出て行っちゃうんだよ!」


「おう、そうか」


「えっ、反応薄っ! それだけ!?」


 いや、うん、まあ、そうだと思ってたからね。


「ねえ、桜ちゃん、昨日も聞いたけど、ほんとにいなくなっちゃうの?」


「ええ。いつまでも弥生先輩のお家に迷惑をかけるわけにも行きませんし……それに、先輩のお力添えもあって、無事に私の家の事も片付いたので」


 後半、ちらりと俺の方を見ながらそう言った卯崎。


「……別に、俺は何もしてないけどな」


 昨日の事を思い出しながら、俺は小さく呟いた。


 そう、結局、俺は何もしなかった。する必要が無かった。

 卯崎桜という少女は、俺が思っているよりずっと強い人間だったのだ。俺の助けなんか必要としないほどに。


 卯崎は己自身で両親と向き合い、自分の言葉で話し、区切りをつけた。

 それによって卯崎は「変わる事が出来た」と言うだろうが、あるいは本来卯崎桜とはこういう人間だったのかも知れない。寄る辺がなくともその足で立つ事が出来る人間。ならば、俺の心配は杞憂だったという事になるのだろう。


「私たちは全然迷惑じゃないよ! むしろこのままずっといて欲しいくらい!」


「そう言っていただけるのはありがたいですが、やっぱり私は今日でお暇させていただきます」


「むー、桜ちゃんもなかなか頑固だなあ……」


「俺はお前の方が頑固だと思うけどな」


「む、新まで……。じゃあ、たまには私の家に遊びに来てね? ママも喜ぶから」


「ええ、それでしたら、是非。また遊びに行かせてください」


「やったあ! じゃあ、今度はいつ来る? 明日?」


「ええっと、それはまた考えさせてください……」


 でも、まあ。

 こうやってくだらない会話で楽しそうに笑う卯崎を見ていると、俺のやった事も全くの無駄じゃなかったのかもな、なんて思えるのだ。


 ***


 放課後、久しぶりに部活に出られると張り切って教室を出て行った桃を見送ると、ちょうどポケットの中のスマホが震えた。


 画面には着信中の文字。相手はつぼみさんだ。


「……もしもし」


 電話に出ると、聞きなじみのある声が聞こえてくる。


『やあ、新君。調子はどうだい?』


「授業が全部終わったんで眠気が吹っ飛んだところです」


『あー、分かるなあ。授業中は眠いのに終わった途端に目が冴えてくるんだよね』


 ほんとそれな。不思議な事に休み時間や放課後に限って眠くならないのだ。世界七不思議の一つかと思っちゃうレベルで不思議。


『とまあ、冗談はさておき。君に電話したのは他でもない、お礼と簡単な事後報告をしようと思ってね』


「はあ、まあ、礼を言われるような事は何もしてませんけどね。むしろ、勝手な事をしてしまってすみませんでした」


 つぼみさんは俺を、あの件、つまり卯崎と彼女の両親との問題に関わらせないようにと忠告していた。そして俺はその忠告を聞かずに、卯崎を両親と関わらせにいくような行動をとった。結果として俺はほとんど何もすることがなかったとは言え、つぼみさんの配慮や考えをぶち壊しにしてしまったのは事実なのだ。きちんと謝罪をしておかなくてはいけない。


『いや、この件に関して考えが足りなかったのは私の方だ。私が完全に間違っていた。……桜は、私が思っているよりずっと成長していたよ。ちょっとやそっとじゃ傷つかないくらいに。君のおかげだ。本当にありがとう』


 電話の向こうでつぼみさんが頭を下げた気配がした。それに慣れないむず痒さを感じた俺は、矢継ぎ早に言葉を返した。


「いや、多分卯崎は元からああいう奴なんです。だから、俺がいてもいなくても、最終的には全部上手くいってたと思いますよ。だから礼なんてもったいないです」


『……まあ、君がそう言うなら、そういうことにしておこう。それじゃあ、この件に関しての事後報告なんだが』


「それこそ必要ないですよ。そもそも俺は部外者な訳ですし。色々聞いちゃまずい気がするんですが」


『関係者の私が話したいって言ってるんだから大丈夫だよ。それにあまりにプライベートな事は流石に黙ってるし、ね。それとも、君は聞きたいとは思わないのかい?』


「……そう言われると、少しは気になるというか」


『そうだろう? なら聞いておいた方が得というものだよ』


「それじゃあ、聞かせていただきます」


 そうして、つぼみさんに流されるようにして聞いた話は次のようなものだった。


 どうやら卯崎の両親は、卯崎にあんなにきっぱりとものを言われた事がずいぶんと堪えたらしく、俺たちが帰ったあと、親権についてはもう一度二人で考え直すという事で二人とも逃げるように卯崎邸から出て行ったそうだ。

 つぼみさんによると、法律の関係上、最終的に親権は両親のどちらかが持つ事になるが、卯崎の意思次第では必ずしも親と一緒に住む必要は無いそうだ。この辺の話は法律が絡んでくるのでややこしいのだが、要するに卯崎は今まで通りの生活を維持できる可能性が高いという事らしい。


 一通り説明し終えたつぼみさんは、『それにしても』と、話を変えるように切り出した。


『私も考えが凝り固まってきちゃったなー。昔はこんな大人になんてなりたくない! って思ってたのに。気づいたら自分の嫌いな大人になっちゃってたよ。もう若くないってことかな』


「そんな事無いと思いますけど」


『その言葉は嬉しいけどね、やっぱり純粋に正義とかに憧れてた時の方が良い意味で突っ走れてたんだよ。ちょうど今の新君みたいにね。……いつまでもそのままでいられるって思ってたんだけどなー』


 小さく呟くように放たれた言葉には、悔恨の響きが含まれているような気がした。

 たとえ、それが悔いなのだとしても、多分今の俺には分からない類のものなのだろう。きっと、それはつぼみさんが経験してきた道の果てにあるものなのだ。


『だから少年よ。いつまでも若さを忘れるのではないぞ!』


 ならば、俺がこれから経験するのであろう道の果てには、何があるのだろう。


 おどけたようなつぼみさんの声を聞きなら、ふとそんな事を思った。


 ***


 この扉を開くのも何日ぶりだろうか。前は毎日のように、というか毎日来ていたのに、数日訪れなかっただけでやけに緊張感を感じる。


 今日、校門で卯崎と別れる際に今日からお悩み相談を再開する旨を聞いたのでこうして旧写真部部室前で突っ立っているわけだが、まあいつまでもこうしているわけにも行かない。


 ひと思いにドアノブをひねってドアを開けると、ほんのりと香りを感じた。

 

 懐かしささえ感じるこの香りは、紅茶の香りだ。


「あ、先輩、こんにちは」


「おう」


 短く返事をして卯崎の方を見やると、ちょうど紅茶を入れているところだった。


「もう出来るので、ソファに座ってゆっくりしていてください」


 そう言われたので、遠慮無く座らせて貰う。おお、相変わらずふかふかだ……。

 俺が久しぶりのソファの感触に感動していると、横からすっとソーサーに乗せられたティーカップが差し出された。


「はい、先輩。どうぞお召し上がりください」


 そう言われて差し出された紅茶に目を向けると、いつものように湯気は立っておらず、代わりにカップの中に氷が浮いていた。

 一口飲むと、どこかで飲んだ事のあるような柑橘系の風味が口の中で広がった。……いや、これは『ような』じゃないな。俺はこれを飲んだ事がある。


「……アールグレイか?」


「そうです。よく分かりましたね」


 俺の答えが正解だった事に卯崎がわずかばかりの驚きを見せる。


「飲んだ事がある気がしたからな。あと、前に言ってただろ。アールグレイは本当はアイスの方が良い、みたいなこと」


「……よく覚えてましたね。そんな事」


「まあ、たまたまだ」


 あの時、卯崎から聞いたアールグレイという名前がかっこよかったから覚えていたというのもある。


「それで、実際ホットとアイス、どちらの方が美味しく感じますか?」


 興味津々といった風に訪ねてくる卯崎。

 それに対して俺はこう答えた。


「……うん、まあどっちも美味しいんじゃない?」


 ……いや、考えてもみて欲しい。通でもない普通の男子高校生にとってみれば紅茶の、しかも同じ種類のホットかアイスかなんて、温度以外で風味の違いなんて分かるわけがないのだ。基本的に美味しければそれでいいんじゃない? って思ってるからな。


 だが卯崎はその答えに満足しなかったようで、ジト目で俺を見つめてきた。


「どっちも良いって、まるでハーレム系主人公みたいな答えですね、先輩」


「え、いきなり辛辣すぎない?」


「冗談ですよ」


 そう言ってふっと小さく笑う卯崎。


 ころころと表情を変える卯崎は、初めて会ったとき――実際は二度目の出会いだったが――の彼女とはずいぶん印象が変わった。

 今の彼女は澄ましたところはあっても明るく、年相応の少女という印象を受ける。これなら友達も出来るんじゃないのか?


 まあ、それは置いておくとして。俺は一つ、彼女に確認する事がある。


「なあ、卯崎。結局、お悩み相談は続けていくって事で良いんだよな?」


「ええ。いくら変わると言っても今の私には『恋愛』を知るための他にいい方法が思いつきません。なので、当分の間はこれを続けていこうと思います。ただ……」


「ただ?」


 聞き返した俺の言葉に、卯崎は少しだけ不安げな表情で付け加えた。


「……もしかしたら、私はまた間違えてしまうかも知れません。何が正しいのか分からなくなるかも知れません」


「その時は俺も一緒に考えてやるさ。言っただろ? 困ったら頼れって」


「そう、ですよね。なら、安心です」


 そう言ってほっとした表情を見せた卯崎は、そのまま自分の手元にあった紅茶に軽く口をつけた。


「さて、そろそろ新しい依頼者が来ますよ」


「え、待って、今来るの? もう?」


「そうですよ。なに動揺してるんですか」


「いや、いきなりやるとは思わなくて」


「私、今朝言いましたよね? 『今日からお悩み相談を再開します』って」


「いや、確かに言ってたけどさ。普通の部活だって休み明けにいきなり試合はしないじゃん? トレーニングみたいなのから入るじゃん?」


「なに悠長な事言っているんですか。私たちが休んでる間にも相談はどんどん持ちかけられていたんですよ。すでにパンク寸前なんです」


 まじか。そんなに人気あったのか。このお悩み相談。


「というわけで今日からは毎日一件解決していこうと思います。そうすれば二週間で終わる予定なので」


「……期末テストって知ってる?」


「この活動は部活ではないのでテスト期間中も通常営業ですよ?」


 ……あれ、もしかして俺、こいつのこと手伝うって言ったの間違いだったのかな?


「……先輩、今何考えてたんですか?」


「ナニモカンガエテマセンヨ?」


 こいつ、性格変わりすぎだろ! 主に悪い方面で!


 どうやらすでに退路は断たれているらしい。こうなったらもう腹をくくってやるしかない。大丈夫。やるときはやる男、それが古木新なのだ。きっとこの局面も乗り越えられる。テストは約一週間後の俺が何とかしてくれる。


 俺が悲壮な覚悟を決めたと同時に、ドアが三回ノックされた。


「はい、どうぞ」


 それに答える卯崎の微笑みは、まるで四月に咲く桜のようだった。

                                      〈完〉

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後輩に脅されてお悩み相談の協力をすることになりました 如月呂久 @MUU_SOUGO

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