第36話 あなたのおかげで

 卯崎の家の前に着いたのはすでに日は暮れ、夜の帳が降りた頃だった。

 前に来たときはまだ夕方で、日も落ちきっていない時間帯だったが、すっかり暗くなった今は何故か目の前の家に得体の知れない不気味さを感じた。


 得体の知れない不気味さ。それは、俺が卯崎を初めて見たときにも感じた感情だった。

 あの時、俺は卯崎の事をなにも知らなかった。何故彼女がいつも微笑みばかりを浮かべているのかも、何故彼女が『恋愛』が何かを知りたかったのかも、俺は知らなかった。

 知らない事は怖い事で、だけどそれが何かを知ろうとする事も恐ろしい事のように感じていた俺は結局、曖昧な言葉で片付けてそれから目を逸らしていたのだ。


 だが、いつまでも逸らし続けているわけにはいかないのだ。だって、俺はすでに卯崎の事を多少なりとも知ってしまっている。彼女がいつも微笑みばかり浮かべているわけではない事も、彼女が本当に知りたかった事は『恋愛』についてなんかじゃない事も。

 だから、俺は俺の信じたとおりに動く。それが、桃の言う『ヒーロー』なのだから。


 夜空を見上げながら、ふうと短く息を吐く。

 自分の正しさを信じ切れず、つぼみさんに発破をかけられたかと思えば、すぐに弱気になって今度は桃に背中を押してもらった。ほんと、どこの軟弱主人公だよ、俺は。

 つくづく、自分の弱さに嫌気がさす。だけど、今日が終わるまでは、この問題が解決するまでは、もう悩まないと決めた。

 

 もう一度息を吐いて視線を元に戻すと、遠くに卯崎の姿が見えた。

 彼女の方も俺に気づいたようで、早足で近づいてきた。


「あ、先輩……」


「すまんな、卯崎。急に呼び出したりして」


「いえ、それは別に良いんですが、その……」


 そのあとの言葉を口にしづらそうにして黙り込む卯崎。その顔にはかすかな不安が浮かんでいた。


「どうしてここに呼び出されたのか、か?」


「え、ええ……」


 ちらり、と自分の家を見ながら卯崎は呟く。


「……その、今私の家には両親がいますし」


「ああ、そうだな。だから今からお前にはこの家に入ってお前の両親と話をして貰う」


「えっ、いや、それはあの」


 俺がきっぱりと言い放った言葉に動揺を見せる卯崎。そんな彼女を無視して言葉を続ける。


「急な話で申し訳ないと思っている。だがこれはお前が両親としっかり話せる最後の機会になるかもしれないんだ」


「それは、どういう……」


「……つぼみさんと話をしたとき、あの人がお前を関わらせないままお前の両親の離婚に決着をつけるつもりだって聞いた。お前が親の話になると不安定な状態になるのをつぼみさんも知っているから、一番お前が傷つかない方法を選んだんだ。お前のために」


「……」


「だけど、俺はそれを受け入れられなかった。俺は、これは卯崎自身が解決すべき問題だと思った。たとえ傷ついてでも、お前自身がやらなきゃ前に進めないと思った」


 卯崎は黙って俺の話を聞いていた。その顔は、かすかに強ばっている気がした。


「……いつか見つければ良いと、そう言った。焦らなくてもいい、お前が自分で納得出来る答えを見つけるまで付き合ってやると言った。……そんな事も守れずに、俺は今お前を急かしている。結局、俺はお前の力になってやる事が出来なかった。これ以上の解決策が思いつかなかった。……すまん」


 約束の一つも守れず、今ここにこうして立ってしまっている。


「……それに、お前が俺の家に来たとき、俺はお前が無理に解決しなくてもいいといった。その時の言葉と矛盾しているのは分かってる。……あの時、俺が日和ったせいで、余計に卯崎を傷つけた。……すまん」


 あの時、俺ははっきり言うべきだったのだ。お前がお前自身で解決すべきだと。

 だがそれが出来なかった。それが正解だと思えなかった。そこで俺は間違えたのだ。


 結局、俺は今までその場しのぎの都合の良い事しか言ってこなかったのだ。だから間違え続けてきた。


「それに、俺が言ってる事は全部俺の憶測だ。最悪、お前を傷つけるだけになるかもしれない。矛盾ばかりで、間違えてばかりの俺の言葉だ。今度も失敗するかもしれない。……だから、お前が望まないなら、この話はここまでで良い。だが、少しでもそれを望んでいるのなら……頼む、俺の話に乗ってくれ」


 そう言って俺は頭を下げた。今度は間違えないと、そう誓って。


「先輩。顔を上げてください」


 そう、優しく声をかけられた。


 ゆっくりと顔を上げると、そこには、先ほどまでのかすかに不安げな表情はすでになく、何故か嬉しそうに笑う卯崎の姿があった。


「やっぱり、先輩は優しいですね」


「いや、そんなことは」


「ありますよ」


 卯崎の言葉が、優しく俺の言葉を否定するかのように遮った。


「これは元々、私の、私の家族の問題なんですよ。それなのに私よりも真剣に悩んでくれて、下げる必要も無い頭まで下げて。……本当にもう、なんなんですか」


「……すまん」


「あと、それもです。何ですか、『すまん』って。なんで先輩が謝るんですか」


「いや、それはやっぱり、俺の不用意な言葉で卯崎を傷つけたから……」


「なんで私を勝手に傷つけるんですか。そうやって勝手に決めつけないでください」


「……あれ、もしかして俺怒られてる?」


「別に怒ってないです。呆れてるだけです」


 恐る恐る卯崎の顔を見るとさっきまでの笑顔がすっかり不満顔に変わっていらっしゃる……。


「良いですか、先輩。先輩が遊園地でかけてくれた言葉も、先輩の家でかけてくれた言葉も、私は凄く嬉しかったんです。先輩の言葉はなにも間違っていません。矛盾もしていません。私は、先輩の言葉が全部私を気遣ってくれた言葉だって、分かっているつもりです。……だから、謝らないでください」


「お、おう。すま……じゃなくて、分かった」


 卯崎を説得するつもりが、何故か卯崎に説得されている……。


「……私は、もうずっと逃げていました。両親の事も、私自身の気持ちの事も。逃げて逃げて、見ない振りをして隠し続けてきました。……だけど、この前、先輩が私に言ってくれた言葉が、私を変えてくれたんです。どうしようもないくらい何も分からなくなってしまった私に、どうしたら良いのかを教えてくれたんです」


 卯崎は目の前に立つ、自分の家を見つめながら続けた。


「私にはまだ分からない事だらけです。自分が今、両親の事をどう思っているのかも分かりません。それでも今、ここで、両親と話をする事には、きっと意味があるんだと思うんです。ずっと逃げ続けてきた私が、逃げずに向き合う事ができたなら、私はそこから変われるんだと思うんです」


 だから、と小さく呟いてから、彼女は一歩踏み出した。


「私は行きます。私を変えるために。……でも、やっぱり少しだけ怖いので、先輩も着いてきてくださいね?」


 そう言って小さく笑った卯崎は、俺にはとても力強く映った。

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