犬が闊歩する街。
これはまだ私が幼かった頃、
山口県のとても小さな港町に
住んでいた頃の話だ。
今の時代ではとても考えられない事だが、
数十年前のその港町では
飼い犬がリードもつけずに
ましてや飼い主同伴ではなく
犬一匹だけで街中を歩いているというのは
ごく普通の光景であった。
だから、首輪だけをつけた犬が
ウチで飼っていた犬も
もちろん勝手に散歩に出掛けていたし、
街を歩く犬を見たら、だいたいその犬がどの辺のどの家に住んでいる犬だとかいう事は、その町に住むみんなが何となく把握出来ていた。
私の従兄弟の家で飼っていたオスのチワワの『タク』も自分の家から、近所にある我が家まで毎日通って、しかも勝手にウチの引き戸をあげて家の中まで入って来ていたもんだから、私は子供ながらに、「犬も親戚の家が分かるんだな」と勝手に解釈をしたりしていた。
そんなチワワの『タク』は、
私が物心ついた時から
すでにおじいちゃんで。
歯は抜け落ちて一本もなかったのに、
気持ちばかりは若かったようで
ウチで飼っていた中型犬のメスに向かって
全然届かない前足を駆使しながら
必死に発情したりしていた。
しばらくして、
近くのクリーニング屋さんのお
可愛い犬を飼い始めたと近所で話題になりはじめた。
犬種はその当時珍しかった
ロングコートチワワで目がクリクリとした
真っ白な毛並みがとても綺麗な可愛い子だった。
その犬はいつも新築の一階にある出窓から
外を眺めていて、決して散歩に出掛けるような事はなかった。
当時、『犬は外で飼うもの。』
『首輪だけつければ噛まない犬は放し飼いでもいい』なんていうその土地特有の独自ルールが染み付いていた私は、
「散歩しない犬なんて変なの。」っていつも
思っていたけれど、いつしか近所の中では
『タクはあのクリーニング屋さんで飼っている犬の事が好き』という噂が流れるようになっていた。
犬の恋愛事情まで噂になるくらいに密接すぎるご近所関係の深さに、今思えばビックリだけど当時の私はただただ、
『おじいちゃんのクセに若い犬に
恋をするなんてタクって変なの。』
と思うばかりだった。
それから数年後のある日の夜、
大雨の中を突然サンちゃんが尋ねてきた。
サンちゃんは従兄弟の家で住み込みで働いていた従業員のおじちゃんで、お互い従兄弟の家で合うことは会っても、サンちゃんがウチを一人で訪ねて来る事はまずなかった。
まずウチになど普段来ないサンちゃんが、ましてやこんな夜遅くにウチを訪れて来た時点でただ事ではない事がすでに分かった。
サンちゃんは私の家の玄関先でびしょ濡れになったカッパをはたきながら、こう言った。
「タクは来てないか?」
…と。
「今日は昼過ぎには帰ったけど、
…まだ戻っちょらんのかね?」
そうウチの小ばあちゃんが答えた。
「今までどんなに遊び歩いても、こんな時間まで帰って来ない事はなかったからな。
犬は死に場所を選ぶっちゅうし、もう帰って来んのんかもな。」
そう言って、サンちゃんはまた濡れたカッパのフードを被ると、大雨の中、原付に乗って再びタクを探しに行った。
『もう帰って来んのんかもな。』
この時、小ばあちゃんの後ろに隠れてサンちゃんとのやりとりを聞いていた小さな私にも、そのサンちゃんの言った言葉の意味が分かっていた。
『犬は飼い主に自分の最期を見せないように死に場所を探す。』
今まで飼っていたどの犬達も
みんなそうだった。
歳を取り、その日の朝まで普通だったのに
いつの間にかある日突然帰らなくなる。
調子が悪そうな素振りなど
一切こちらに感じさせずに…。
ただひたすらいつもと同じように家族と
生活をして、いつもと同じように散歩に出掛け…そして突然そのまま戻らなくなる。
別れの言葉なんて言おうとしない。
自分の弱っている所、
苦しんでいる所を絶対に飼い主達に見せないように必死に自分の体調をひた隠しにして、普通に生活をし、そして自分で死に場所を探しに行くのだ。
だから今までいなくなった犬達の遺体も
見つかる事なんて今まで一度もなかった。
「…山にでも入ったかもしれんの。」
ポツリとそう呟きながら、洗い物をしだした小ばあちゃんのその言葉に、私も自然とタクとの別れを覚悟するようになった。
それから数日経っても
やはりタクは戻る事はなくて…
近所のみんなも
『山でいい死に場所を見つけたんだろうね』とみんな口々に話したりしていた。
自分で家まで帰る能力がないから
放し飼いに出来ずにいつもリードで繋がれているウチの中型犬のメスも、いつも来るハズのタクが来ない事をとても寂しそうにしていた。
それから数年後、近所の魚屋さんが閉店する事になり、長年道端に置きっぱなしにしていたリヤカーを動かしてみた所、下から小さな動物の骨が出てきたとの連絡が入った。
そのリヤカーが置いてあったのは、
クリーニング屋さんの前。
多分その骨はタクの骨で、
せめてその大好きなロングコートチワワの近くで死にたいといつも置いてあるリヤカーの下を自分の死に場所に選んだんだろうという事だった。
同じ地域の人達を無条件に信頼し、
家の鍵も掛けずに犬も放し飼いにする
そんな時代の田舎町の話。
あの時、確かに犬は
町の中を誇らしげに闊歩していた。
優しかったのは、みんなでした。 むむ山むむスけ @mumuiro0222
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