第10話
ヒントの毛筆は毛が抜けている。まず、「け」という読みを持つ字を捜し、取り除く。
家 乙 大 国 分 寺 面 中
曜 特 東 沼 火 白 場 三
日 園 線 手 巣 木 金 小
屋 山 馬 朝 都 半 足 気
月 公 鴨 二 棒 田 駅 西
海 水 電 袈 目 袋 塚 池
川 華 時 高 四 仮 一
すると、残りは全部で五十文字となる。
次に、毛筆そのものに着目する。一本の毛筆――一筆書き。
暗号の五十文字に五十音を当てて、一筆書きができる平仮名の位置にある文字を抜き出す。
あ い う え お か き く け こ
乙 大 国 分 寺 面 中 曜 特 東
さ し す せ そ た ち つ て と
沼 火 白 場 三 日 園 線 手 巣
な に ぬ ね の は ひ ふ へ ほ
木 金 小 屋 山 馬 朝 都 駅 足
ま み む め も や い ゆ え よ
月 公 鴨 二 棒 田 半 西 海 水
ら り る れ ろ わ ゐ う ゑ を
電 目 袋 塚 池 川 時 高 四 一
そして、柄が折れていることを受けて、修復、すなわち並び替えを行う。
――火曜 朝四時 池袋駅山手線
始発電車が出発の時を待つ薄暗いホームの端に、一人の女が立っていた。足元に旅行鞄。駆け落ちの誘いを受けているのである。隆太郎はマスクと眼鏡で顔を隠し、彼女の様子を見守っている。時計の針は三時四十五分。
男が現れた。黒い背広に、黒い外套、黒のソフト帽という、黒ずくめのいでたちである。鳥の巣のようなもじゃもじゃの髪を掻きながら、女の前に立ち、男は言った。
「彼はここへは来ません」
女は男の顔を見て言った。
「彼というのはどなたのことかしら?」
「あなたが本当の意味でお待ちになっている方です」
「それが誰か、あなたはご存知なの?」
「ええ。私はその方に依頼されて参りました。申し遅れましたが、私、私立探偵の明智小五郎と申します」
「お噂はかねがね」
「光栄です」
空は瑠璃色。多くの人々は今頃まだ夢の世界にいる。
「さて、奥さん。間もなくあなたをここに呼び出した人間が現れ、あなたをさらっていくでしょう。そこに停まっている始発に乗って、どこか遠くの町へ。しかし私がそうはさせません。ただちにご帰宅いただきます」
「何故です?」
「依頼人よりそのように仰せつかっているからです」
「あなたの依頼人さんはどうしてあなたにそんなことをお願いしたのかしら?」
「それは私の与り知るところではございません。ご依頼いただいた任務の遂行にただ邁進するのみでございます」
「まるで軍人さんね」
「探偵はどうしても個人の事情に深入りしてしまうものです。そういう性質の仕事です。だからこそ秘密を守ることは大原則としております」
「その依頼人さんが私を遠くの町へ行かせたくない理由を、あなたは聞いていらっしゃる?」
「いえ、必要のない質問はしない主義でございます」
「お堅いのね」
「秘密の漏えいを防ぐためでもあります。知らなければ、漏らす心配もありません」
三時五十分。約束の四時まであと十分。だが女を呼び出した人間は現れない。現れるはずがないのだ。改札の前で岩井が止める算段になっている。この舞台にこれ以上の役者は登場しない。観客は隆太郎一人。
「さぁ、奥さん。参りましょう。車を用意してあります」
「お待ちください、明智さん」
「何か?」
「私、このままではご一緒には参れません」
「それは困ります。私はあなたをお連れすることが仕事なのですから」
「私にも約束がございます。ご存知の通り、私はここである方と待ち合わせをしております。その約束を破るからには、相応の理由が必要です」
「あなたをお連れしなければ私が叱られる。それを理由とは思っていただけないでしょうか?」
「いいえ、不十分です」
男は冷静さを保つよう努めているようだが、明らかに戸惑っている。これは見ものだ。明智小五郎の狼狽など、小説の中では決してお目にかかれない。
「いかがでしょう、明智さん。今度は私の依頼を受けていただけませんか?」
「あなたの?」
「よもやお客の選り好みはなさらないでしょう?」
「ええ。しかしこの通り、先にお受けした依頼がまだ進行中でございますし……」
「そちらの依頼を完了するのにも、私の依頼が役立つはずです」
「わかりました。お話は伺いましょう」
「では申し上げます。あなたの依頼人が私を連れ戻したがっている理由をお調べになってください」
「奥さん、それは……」
「できないとおっしゃるんですか?」
「先ほども申し上げました通り、依頼人の秘密は守らねばなりませんので」
「あなたが敢えてお訊きにならなかったというだけで、訊くなと言われたわけではないのでしょう」
「それはそうなのですが……」
「では訊いてきてくださいな」
「けれども、すんなり教えていただけるとはとても……」
「あなたは天下の名探偵明智小五郎先生ではありませんか。直接訪ねる以外にも、方法は色々とご存知でしょう?」
「私はこれまで、奪われた美術品を取り戻せとか、盗人を捕らえろといった依頼は何件もこなしてきました。けれど人の心を探る仕事などやったことがありません」
「やってみたらよいでしょう。何事も経験です」
「難しいと思います」
「そうおっしゃらずに。きっと後学のためにもなりますわ」
「ここだけの話ですが、奥さん、私が生涯の好敵手と認めている怪人二十面相は、極めて単純明快な奴なのです。盗みや逃走、潜伏にかけては天才的で、裏のかきあいはしょっちゅうですが、犯行の動機に複雑なところは何一つありません。美術品への欲望、それだけです。獣が餌を求めるように、二十面相は美術品を欲しがるのです。そんな奴を長年追いかけてきたせいか、私も人の心の機微については随分疎くなってしまいました」
「引き受けてくださらないのでしたら、私はここを動きません」
「奥さん!」
「理由もわからずに連れ回されるのはごめんです」
「後生です。私を助けると思って」
「あなたがお困りになっても、私はちっとも困りません」
「ひどいお方だ」
「私に言わせればあなたの方がひどいお方です」
「何故でしょう?」
「依頼を受けたのはいつです?」
「いつ、というのは大変申し上げにくい問題です」
「私を連れ戻したいなら、その機会は今日より以前にもあったのでは?」
「そうおっしゃるならば、あるいはそうかも知れません」
「それも、人の待ち合わせの時に限らず、暮らしの中に何度でも」
「その通りです。その点につきましては、ええ、私の怠慢でありました」
「お認めになるんですね?」
「はい」
「それでは」
「参りましょう」
「いいえ、まだ同行するとは申しておりません。依頼を変更致します」
男は縮れた髪を指でしきりにいじり回している。
「あなたの依頼人をここへ連れてきてください」
「何ですって?」
「私が直接訊いてみることにします。私に戻ってきてほしい理由を」
「奥さん、私の依頼人は、ご自分ではおいでになれない事情があるからこそ、私に依頼をくださったのです」
「その事情とは?」
「それもまた機密でございますから」
「急がせはしませんよ、明智さん。じきに始発の出る時刻ですが、私をここへ呼んだ方はどうやらおいでにならないようですし、のんびりと待つことにします。あなたの依頼人がここへ現れるのを」
「いつのことになりますやら」
「こちらが待つなら、呼んでこられないことはないでしょう」
「理屈の上ではそうですが」
「だいいち、あなたの依頼人は今、ここからそう遠くないところにいらっしゃるのではないでしょうか?」
「何故そうお思いになるんです?」
「私の想像です」
「奥さん、人間の想像ほどあてにならないものはありません」
「そうでしょうか? 人間の想像は当たるものだと聞いたことがありますよ」
「誰から?」
「あなたの依頼人から。実は私もその方をよく知っているんです。好物は卵焼き、特にだしのきいたものがお好み。趣味は映画鑑賞からレンズの研究まで色々と。性格はひねくれ者。職業は作家。そんな方ではございません?」
「その通りです。まさかお知り合いだったとは、奇遇ですね」
「その方のお書きになる作品の中では、探偵も犯人も変装の達人なんです。けれどその方ご自身は、あまり変装がお上手ではいらっしゃらないようですね」
発車のベルが鳴り、列車が動き出した。男が髪をいじる手を止めた。
「……我ながら悪くない出来だと思ったんだがな」
「足が短すぎます」
「好きこのんで短いわけじゃない」
「改めてお尋ねしますけど、どうして来てくださったんです?」
「愛しているからだ」
「ちょっと、いやだ、急に潔くならないでくださいな」
「原則としてお縄になった犯人は潔くあるべきなんだ。だらだらと引き伸ばしては読者が冷めてしまう」
「『犯人』なんですか、あなたは」
「悪いことをした。長い間、君に。あの手紙を受け取って、行かなければならないとは、ずっと思っていた」
「本当に?」
「隆太郎たちが懸命に声をかけてくれた、自分のことのように。それに、追伸も受け取った」
昨日の朝食。その品々の頭文字。
「あそこまではっきりと言われてはな。しかし僕は強引に君を連れ帰りたいわけじゃない。今までの謝罪と、礼が言いたかったのと、君の本音を聞きたくて来たんだ。正直に言ってくれ。次の列車に乗りたいんじゃないのか? 彼と共に」
父は母の目をまっすぐに見ていた。
「君は女性だ。好きな男と一緒になった方がいい。そして僕はこう見えても進歩的な人間だ。心変わりを悪いこととは思わない」
「ごめんなさい」
隆太郎は心臓が大きく鳴る音を聴いた。自分か、父か、あるいは両方の。
「……お芝居だったんです」
「え?」
と、思わず声が漏れそうになった。
「村山さんにお願いしてね。近頃あなたがあんまり冷たいものですから」
父はそれからかなり長い間、あんぐりと口を開けていたが、やがて安堵の色を浮かべた。自分か、村山か、どちらかが深く傷つくはずだった。それが「お芝居でした」で済んだのだ。
しかし、と隆太郎は思った。
「この暗号を作った方は、江戸川先生のことが大好きな方なのかも知れませんね」
そう言った村山の表情は、この一連の「芝居」が、彼にとっては決して単なる芝居ではなかったことを物語っていた。
ごめんなさい、ありがとう。両親に代わり、心の中で呟いた。
「これほど上手く騙せるとは思いませんでしたけれどね、こんなおばあちゃんの不貞なんて」
「君は今でも綺麗だ」
「よしてください」
「だから、まんまと騙された」
西の空が山吹色に輝き始めた。今夜あたり秋の虫が鳴き始めるだろうと、隆太郎は思った。
(了)
乱歩への暗号 森山智仁 @moriyama-tomohito
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