#3

 ブラッド・アーネストの事件から半月が経った。禁域の人間からの接触は一度もなく、もしやあの契約は何かの間違いだったのではないだろうか、などとあり得ない考えがやや現実味を帯び始めてきていた。当時はあの絶対不可侵の領域が遂に破られたことに、魔術院の人間全員が総毛だっていたが、今では誰もがその出来事を口にすることもなく、いつも通りの日常ルーチンをこなしていた。おそらくここにいる全員にブラッド・アーネストの事件のことについて尋ねたとしても、その大半が「そういう事件もあった」の一言で片付けてしまうだろう。ここの世界ではそれが普通のことだった。一々他人のことを気に掛けるようなまともな人間性を持っている魔術師はあまりいない。――そして、本来であれば自分もそのの一人であるはずだったが――如何せん自分自身がその当事者である以上、周囲の人間がこの事件を忘れ去っていく一方で未だにその渦中に取り残されているというこの状況に対して、これ以上悪い意味で話題の中心となることがないという安心感と共に、自分が周囲から置き去りにされているという虚しさを感じていた。

 自分はただ平凡な魔術師として生きていければそれで良かっただけなのに――時折そんな後悔が頭をよぎる。


 ――彼女と初めて出会ったのは、そんな疎外感を感じながら猶予期間モラトリアムを過ごしていたある日のことだった。


 ***


 魔術院の四隅にそびえる巨大な尖塔の一つである東のアトス塔は、魔術師達からは「図書塔」と呼ばれていた。その呼び名の通り、塔内の全域が図書区画となっており、天井までの高さがある本棚で埋め尽くされていた。ここには大陸各地から集められた書物や古文書の写し、口伝を活字で保存した巻物スクロールなどが厳重に保管されており、あまりにも膨大な蔵書量から「図書区画ここから生きて出られれば、大抵の問題は解決する」と魔術師たちの間では言われている場所だった。

 半月前の事件を切欠に元の研究室から離れ、禁域へ転属となったレヴィはいつか訪れるであろう自分の任務を待ちながら、独りこの図書塔で読書にふける日々を過ごしていた。元々彼は読書家というわけではなかったが、特に趣味らしいものを持っていなかった彼にとって、時間潰しに最適な場所がここだった。

「――ふう」

 ぱたん、と開いていた書物を閉じる。古めかしい革が表紙となっているそれは、別段面白い本というわけでもなく、ただ視界に入ったから取っただけのものだった。昔の思想家が古王国時代の生活様式や芸術に見られる文化や思想を延々分析しているだけの、その手の研究者なら誰でも考えつきそうな内容。

 ――そう言えば、この辺りは旧王国時代の書籍が保管されてるエリアだったか。

 既に半月もここに通いつめていたレヴィの脳内には、この図書塔の簡略な地図が既に出来上がっていた。「迷宮ラビリンスの中にある小迷宮ダンジョン」とは誰が言ったか、吹き抜けの部屋に身長の三倍近くはある本棚のせいで視界が効かず、そのおかげで現在も遭難者が続出するこの図書塔で、彼は殆ど迷うことなく散歩でもしているような足取りで目的の場所までたどり着くことができるようになっていた。

 ――さて。

 辿り着いたのは物語本が集められたエリア。魔術の研鑽を目的とした施設にこのような本が集められている事に当初は疑問を抱いていたものの、息が詰まりそうな理詰めの教本や古文書の類ばかり読み進めていると、こういった空想力を掻き立てられる文章が凝り固まった脳内を解すのにはちょうどいいものだった。

 ゆっくりと歩きながら周囲の本棚に詰められた数多の書籍をじっくりと眺め回す。現在でも写本が流通している有名な物語から土着の童話や口伝を元にしたと思しき、知らない題名の物語まで古今東西多種多様な物語が集められていた。

 ――ふと、ある背表紙が目に留まった。所々が風化で剥げている、見るからに古そうな銅板でできた表紙の本。背表紙に刻まれている文字は『我が――――物語』。この本のタイトルのようだったが、文字の大半が掠れていて読むことはできなかった。不思議とその本に興味を抱いたレヴィは、次の瞬間にはその古ぼけた表紙の本を手に取っていた。

 表紙を開けると、予想していたよりは比較的綺麗なページが達筆な古代文字で埋め尽くされていた。内容は筆者が出会ってきた友人たちと大陸中を巡った旅を記した冒険記だった。文面や単語の綴から考えて、時代は恐らく千年以上前。現在の帝国の起源である古王国ができる少し前の話のようだった。

 『――我が生涯の物語は、我が家族とも言える幾人かの仲間たちの物語でもあった。』

 物語の書き出しはこの文章から始まる。――ふと、レヴィはこの文言に既視感のようなものを覚えた。

 筆者の幼少期時代の話は冒頭の数ページ足らずで終わり、魔術使いとして大成するために諸国見聞の旅に出る所から本編が始まる。一人旅を続けていた彼は旅の途中で様々な人と出会い、時には旅の仲間となり、時には大きな困難にぶつかりながらもそれを乗り越えていく、ありきたりではあるが読む者を引きつける何かしらの魅力を感じさせる冒険譚だった。

 ――これって。

 読んでいる途中、レヴィはこの物語の内容に既視感を感じた。――この話を、自分はどこかで読んだことがある。こういった類の物語本は子供のころはよく夢中になって読んでいた。その中に一つ、これと似たような内容の物語があった気がする。どこかの国の学者が言っていた「デジャヴ」なるものだろうか。そんな不思議な懐かしさを覚えながら、レヴィはペラペラとページを捲っていく。

 ――ふと、ある単語が彼の目に留まった。それは今まで見たことのない綴のもの――恐らく人名だった。

「――エン、カ」

 何とかその綴を口にする。聞き慣れない発音。どこか別の地方の言葉だろうか。彼はこの奇妙な名前を持つ人物に不思議と興味が湧いた。彼女――どうやらこの人物は年若い少女らしい――は大陸の北部地方、獣の耳と尾を持つ『エルグ』の支配する大地で筆者と出会う。出会った当初は様々な悪戯を仕掛けて一行を惑わせるが、後に仲間となって共に旅に出る事になる。筆者曰く「とてもこの世の者とは思えない不思議な空気を纏った、例えるなら西方の呪われた大陸から伝わった伝承に現れる、『妖精ピクシー』のような少女だった」らしい。エルグの身体的特徴に漏れず髪と同じ銀色の耳と九本の大きな尾を持ち、魔術によるそれとは似て非なる秘術を用いて、旅の先々で一行を助けたとも書かれていた。

 自分も魔術師の端くれであった筆者自身、この少女に対しては強い興味を抱いていたらしく、この少女については他の登場人物よりも事細かく描写されていた。

「――そういうの、好きなんだ?」

 ――不意に凛とした少女の声が耳朶を打った。完全に意識が古書の中に入っていたレヴィは、その声に引っ張られるようにして現実の世界へと戻ってきた。夢中になって気が付かなかったが、どうやらだいぶ長いこと立ち読みしていたらしい。気がつくと、棒立ちの脚が若干悲鳴をあげていた。

 声が飛んできた方に視線を向けると、自分のすぐ隣にいつの間にか一人の少女がこちらを見上げながら立っていた。

 ――いつの間に。

 読書に集中していたとはいえ、肩が触れそうなほど近くにいるのに気配すら感じられなかった事に驚きを隠せなかったが、その驚きはすぐに疑念へと変わっていった。

 魔術院に所属する人間は必ず所属と階級を示すローブを身に着けることが義務付けられている。だが、目の前にいる少女はそれを身に着けておらず、レヴィの着ている黒のローブとは正反対の白い装束を身に纏っていた。

 ――この少女は一体何者なんだ。

 フードを目深に被っているせいで顔ははっきりと見ることはできなかったが、フードの奥では紅色の瞳が爛々と輝いている。僅かに見える肌は白く、フードはみ出た髪は銀色で、少なくともこの帝国で生まれた人間ではないのは確かだった。

「――なんだい、間抜けた顔して。そこまで驚く必要もないだろうに」

 少女はそう言うとレヴィが持っていた本を奪い取った。

「どれどれ…………」

「お、おい」

 突然の事に戸惑うレヴィをよそに、少女は銅板の表紙を捲って読み始めた。

「…………なんだ、ただのつまらない日記か」

 冒頭の一ページを読んだだけで、少女はそう吐き捨てて本を突き返した。

「……君は一体何者なんだ。ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ。どうやってここに来た」

 レヴィは何とか冷静になり、少女に対して問い詰めた。仮にも帝国の重要施設に子ども一人で入り込めるとは到底考えられない。誰か協力者がいるはず――視線は少女を捉えたまま、彼は周囲を警戒した。

「どうやっても何も、ボクは昔からずっとここに住んでるのさ。それこそ君が生まれるずっと前からね」

 高圧的に問いかけるレヴィに対して、少女は平然とそう答えた。

「……どういう意味だよ、それ。ふざけてるのか?」

 少女の言っていることの意味が分からず、レヴィは聞き返す。――ここに住んでる? 俺が生まれる前から? コイツは一体何を言っている?

「信じるかどうかは君次第だけど……まあ明日に慣れば嫌でも信じる事になるだろうね」

 そう言って少女はこちらに背を向けて歩き去ろうとした。

「お、おい待てよ。まだ聞きたいことが――」

「今回はちょっと非公式に顔見せしにきただけだから。詳しいことは次にあった時に幾らでも聞いてあげるよ」

 レヴィの制止を無視して彼女はそう告げると、その場から大きく飛び上がって、背丈の三倍くらいはあるだろう本棚の上に軽々と降り立った。

「じゃあ、またね」

「ちょ――」

 レヴィが声をあげるよりも先に、少女の身体は本棚の向こうへと落ちていった。慌てて反対側に回り込むが、既にあの奇妙な少女の姿は跡形もなく消えていた。

「……何なんだよ、アイツ」


 ***


「――聞いたことがねえな、それ」

 夕食時の食堂。今日の昼間出会った謎の少女の事をエドモンドに話すと、焼き立てで湯気の立つキッシュを頬張りながら彼は言った。

「……大体、ここは関係者以外立ち入り禁止、外はそれなりに厳重な警備が張られてるから子どもなんかが入れる隙なんざ一切ない。それくらいお前も知ってることだろ?」

「……それはそうだが、実際に俺は見たし会話もした。曰くどうやらここに住んでるってことだそうだが……」

「ここに住んでるのは俺たち魔術師と小飼の使いサーバント、後は実験に使う動物が幾つかだけだろ? 人体実験は禁じられてるからその線はまず無いとして……人型の使い魔を使役する奴なら何人かいるが、完全に人間の姿をした使い魔なんて見たことがないし、まずそんなのが存在すること自体がありえない。――となると、魔術師の誰かがソイツだった可能性があるわけだが……魔術院制服の黒ローブじゃなくて白の装束を身に纏った少女なんて、会談話でしか聞いたことねえな」

「会談?」

「ああ。ごく稀に白装束の小柄な人間を見かけたって話がチラホラと。ソイツらの間じゃあ、かつてこの魔術院で遭難して死んだ魔術師の幽霊じゃないかって噂になってるが」

 まあ、どこにでもある幽霊話の類さ。そう言ってエドモンドはエールを呷った。

「……そうか」

「やっぱりお前の幻覚か、それとも夢か何かじゃないか? ずっとあんな埃っぽい所に籠もってて、少しおかしくなっただけだろ」

「……まさかお前に『おかしくなった』って言われるとはな……」

「……どういう意味だよ、それ」

 確かにエドモンドの言う通り、環境が変わって気が滅入っているのかも知れない。だが、それでも彼女とは直接あの銅板の本のやり取りをしていた。事実その本は今も自室に置いてある。

「……まああれだな。お前もそろそろ都会でのちゃんとした息抜きの仕方ってのを知っておいた方がいい。いつまでもあんな息苦しい所にいるからそんな頓珍漢なものを見るようになるんだ。たまには外に出て劇場とか競技場に行ったり、暇してる町娘捕まえて時間を潰してた方がよっぽど健康的だぜ? お前顔は悪くないんだからさ、折角なら俺が付き合い方をレクチャーして――」

「――それはまた今度聞くことにする」

 またいつもの話に持ち込もうとしたエドモンドを、いつもの台詞で躱したレヴィは真っ赤なロマトのスープを口に運んだ。

「……相変わらずそれ食ってんのな。飽きないのか、それ?」

「いいだろ別に。好きで食ってるんだから」

 眉を潜めながら聞いてきたエドモンドに対して、レヴィはそう言い返した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幽世の九尾 黒井狐狐 @dual_fox_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ