#2
独房のある魔術院の地下は薄暗く、地上の荘厳な大理石の廊下ではなく大きさの疎らな石が敷き詰められただけの陰湿な場所だった。装飾の類は殆どなく、すれ違う警備の兵士以外には目に留まるものはない。とても帝都の中心、元老院の膝元にある魔術院の中にある施設とはレヴィには思えなかった。
「ここだ」
等間隔に並ぶ壁の燭台だけが唯一の明かりとなっている地下通路の終点、目の前には――恐らく地上に続いていると思われる――上り階段があった。そして、その隣には黒い木製の大扉があった。彼を連れてきた兵士はその扉の前で足を止め、静かにドアノックを叩いた。鈍い音が静寂な地下通路に反響した。
「――入りたまえ」
部屋の中から、男の声が聞こえてきた。
「失礼いたします」
と兵士が扉を開け、そのままレヴィを睨みつけた。「入れ」と促しているらしい。
――言われるまでもない。
兵士からの視線を受けつつ、童話に出てくる化物のように大口を開けた部屋の中へ入った。背後で大きな軋み音を立てながら閉まった。
室内は学生時代に見たことのある上級魔術師の個室と比べて物が少なく、質素な雰囲気だが、置かれているテーブルや絨毯、装飾の類は見た所どれも高級品のようだった。
そして部屋の正面、黒樫の書斎机には金髪の男が座っていた。外見はブラッドよりも年老いているようで、頬の小ジワや異様に広い額が目立っている。服装は帝国魔術師が着る制服を基調としているが、所々に金属の意匠が施されており、壁の燭台や天井からの明かりが反射して輝いている。
「よく来てくれた。二日間も冷たく硬い部屋で過ごすのはさぞ疲れたことだろう。遠慮せず、楽にしたまえ」
そう言って立ち上がった彼は、正面の小さなソファに座るよう彼に促した。それに従い、レヴィは腰掛ける。先程まで硬いベンチや床の上で過ごしていた反動か、深く沈み込む感触がとても快適に思えた。
「自己紹介は必要かね? 恐らく私の顔は何度か見たことがあるとは思うが」
――言われるまでもない。この壮年の男の顔は――肖像画の絵姿ではあるが――学生時代に何度か見たことがあった。
エゼル・グラキオス。魔術院の最高幹部である十二人の『
「まずはおめでとう、と言っておくだな。この特別房から生きて出られたのは、私が知る限りでは君が初めてだ」
そう言ってエゼルは笑顔を浮かべた。頬の小皺がよりくっきりと顔に浮かび上がっていて気味が悪い。
「『禁域』から機密情報を盗み出そうとして捕まったブラッドが今日になって漸く口を割ったようでね。
つまらない、とでも言いたげにエゼルは肩を竦めた。
「――とは言え、君に関してはまだ重要な問題が残っている」
――来た。レヴィは固唾を飲んだ。こうなることは半ば予想していた。二日前のあの日、『禁域』の内部を直接見たわけではないものの、中にいた人間の会話を少しだけ耳にしていた。内容こそあまり覚えていないが、向こうからすれば彼が魔術院、ひいては帝国にとっての機密事項である『禁域』についての情報に触れてしまったことに変わりはない。例え自分の濡れ衣が晴れたところで、『禁域』の人間はみすみす彼を見逃すことは考えられなかった。
「不可抗力――今はそういうことにしておこう――ともかく偶然とは言え、あの事件が起きた時に君は『禁域』に触れてしまった。本来なら君のような凡才の魔術師ごときに温情を与える理由はないが、ある御方の希望で君にチャンスを与えることにしたわけだ。君が何処まで聞いたのか、見てしまったのかについてはさほど興味はない。私が君に聞きたいのは、この先君自身がどの道を選ぶのか、ということだ」
穏やかな口調で、エゼルは淡々と言った。
「今、君が取れる選択は二つ。一つ目は、帝国の機密を知った君も闇の中へ葬り去られるか。もう一つは、君も我々と同じ暗闇の住人となるか……選択は君に任せよう。好きなものを選ぶがいい」
クックック、とエゼルは掠れた笑い声を上げた。
――馬鹿馬鹿しい。内心レヴィは悪態を吐いた。「好きなものを選べ」と彼は言っているが、これは「機密を知った以上、殺されたくなければ我々に協力しろ」という事実上の脅迫だった。
「なに、日常生活そのものについては特に問題はないさ。我々の恩を仇で返すような真似さえしなければ、な」
――嫌な予感しかしない。ここで彼の思惑通りの回答をすれば、間違いなく後戻りのできない領域にまで落とされてしまう。それくらいのことは簡単に理解できた。――だが。
「……何を、すればいいんですか?」
数瞬の後、レヴィはゆっくりと言った。――仕方なかった。決して選んではいけない道であることは分かっていたが、彼にはそれに抗えるほど強い人間ではなかった。
「――懸命な選択だな」
したり顔で椅子から立ち上がりながらエゼルは言った。
「詳しいことはまた後日、向こうで説明する。今日の所は部屋に戻ってゆっくり疲れを取りたまえ――察しが付いているとは思うが、これから君の周囲に監視が付くことになる。君はまだ未熟な魔術師だが聡明な人間だ。そのようなことはないだろうと私も信頼しているが……もしもそれを裏切るような真似をした場合は――分かっているな?」
思わせぶりな口調でエゼルは言った。表情こそは変わらず気味の悪い笑顔だったが、その小さな両眼はこちらを突き刺すような鋭い視線を向けていた。――蛇に睨まれた蛙、とはこのことか。背中を駆け上る悪寒を感じながらレヴィは口を開けた。
「……心得ておきます」
「よろしい。これからの君の働きに期待しているよ」
取り繕ったような心無い労いの言葉を述べると、エゼルは「話は終わりだ」と言わんばかりにこちらに背を向けた。
「……失礼します」
レヴィもまた踵を返し、圧迫感のある扉の外へと足を進める。その足取りは、まるで底なし沼に嵌ったかのように重い。――彼は既に、後戻りのできない禁断の領域へと足を踏み入れていた。
***
地上に出ると、時刻は既に昼を回っていた。
――案の定、か……
二日ぶりに地上に戻ったレヴィを待ち受けていたのは、強盗が入ったのではないかと思える程に荒れ果てた様相の部屋だった。本棚に置かれていた書物は全て床に散らばっていて、小さなテーブルの上には学生時代の論文や走り書きが記された羊皮紙が散乱し、窓際で育てていた薬草の鉢植えは文字通り根こそぎ掘り返されて周囲の床やベッドのシーツの上が土で汚されていた。
――「多少」どころの話じゃなかったな……
地下でエゼルが言っていたことを思い出しながら、床に散らばった書物をかき集めていく。たった二日の監禁生活で身体中が重いものの、せめて足の踏む場所と寝床くらいは綺麗にしておきたかった。
「よう、災難だったな」
不意に、後ろから聞き慣れた声が飛んできた。振り向くと、部屋の入り口で金髪の青年が立っていた。エドモンド・ベルドムント。レヴィが魔術院の学生として帝都で暮らし始めた時に初めてできた同期の友人で、彼もまた帝国魔術師だった。
「何の用だよエド。片付けの手伝いにでも来たのか?」
「いや、お前がお前がようやく地下の窖から抜け出したって聞いて様子を見に来たのさ」
「もう知ってるのか」
「さっき兄上からこっそりな」
そう言ってエドモンドは散らかった部屋の中へズカズカと入っていった。彼の兄、ライナス・バスクは二十という若さで『剣の魔導士』の一席、バスク家の当主として選出された魔術師だった。帝国魔術師の世界において家柄の存続は血統よりも優先される
「――にしてもまさかブラッド先生が魔術院を裏切ってたとはなあ」
「それも兄上から聞いたのか?」
「いや、先生のことはとっくに魔術院中に知れ渡ってるさ。裏切り者のブラッド・アーネストが教え子だったレヴィ・クレスメントと共謀して『禁域』の情報を他所の国に売ろうとしていたってな」
「何だそれ。俺とブラッド先生はそこまで親密な関係じゃないぞ」
いつの間にか流されていた根も葉もないゴシップに呆れ果てながら、皺だらけになったローブをトランクに放り込んだ。
「まあな。でも、当分の間は大人しくしといた方が懸命だと思うぞ? 俺はともかく、他の貴族連中からは格好の標的にされるからな」
「分かってるって」
魔術院は非常に排他的な組織だった。外様に対する風当たりが強く、裏切りは一切許されない。
元々魔術院の内部は大きく分けて二つの派閥に分かれており、一つは支配階級である貴族出身の魔術師からなる集団と、もう一つはレヴィのような平民から帝国魔術師となった所謂『成上がり』と卑下されている者たちの集団だった。数で言えば『成上がり』の方が大多数だが、それを快く思わない支配階級が魔術院の上層の大部分を占めているという状況だった。近年はさほど大きな争いは起こっていないものの、互いに互いを遠巻きから監視し合う微妙な関係を維持していた。ところが、二年ほど前に起こった襲撃事件を契機にして、『成上がり』の魔術師が何人か捕まる事件が起こったことで、再び双方の間で緊張が走リ始めていた。その最中に起きたのが今回の事件だった。
――少なくとも支配階級の魔術師にとって、俺の存在は目の上のタンコブってわけだ。
「ところでお前、ここに戻る前に何か言われなかったか?」
エドモンドの一言を聞いて、羊皮紙を整理していた手が止まった。
「…………いや」
数瞬を置いてレヴィは答えた。ほんの一瞬だけエゼルのことを言いかけたが、喉まで出かかったその言葉を慌てて呑み込んだ。
「監視を付けている」。先程地下でエゼルはそう言っていた。今の所それらしきものは見受けられないが、
――以前まで当たり前のように享受していた自由は、もうとっくに失われている。改めて自分の置かれた立場を自覚した。
「何でそんなこと聞くんだ?」
「……少し、兄上の様子がおかしかったから気になってな」
そう尋ね返すと、彼もまた数瞬置いて答えた。
「ああ……なるほど」
――あの人も恐らく俺の処分について、話を聞いたんだろうな。兄からすれば、弟の友人が魔術院から要注意人物として扱われていることに複雑な心境を抱いているのかもしれない。エドモンドの実家であるベルドムント家はそこまで大きな家柄ではないが、王国時代から長い間続いている由緒正しき家柄だと以前聞いたことがあった。そのような有力貴族の子息に前科持ち――冤罪だったが――の人間が関わっているとなれば、周囲から白い目で見られるのは火を見るより明らかなことだった。
最も、レヴィの知る限りでは、当の本人はそのようなことを気にする性格ではなく、だからこそ平民出身であるレヴィも未だに彼と交友関係を持っているわけでもあった。
「別にお前のことだから大丈夫だとは思うけどさ。最近はこの帝都周辺も物騒になってきただろ? 帝都の街の中に至っては各国の密偵がわんさかいるって話もある」
彼の言う通りだった。現在、帝国は新皇帝として玉座についたジェラルド三世の体制作りで忙しい時期に入っていた。周辺諸国としては、大陸最大の版図を持つ国の指導者としての彼の手腕を確かめる必要があり、そのために密偵を帝都に送り込ませる状況が続いていた。帝国としては最低でも体制が整うまでの間は平穏を装う必要があった。
「そんな最中で魔術師の裏切りが相次いでるんだ。関係があるのかどうかは分からんが……もしそうだとすれば、今度は下手すると命を失うことになるかもしれんぞ」
「なんだよ、心配してくれてるのか?」
「当たり前だろ。お前のこと心配してくれる人間なんて
からかうような口調でエドモンドは言った。
「俺からすれば、仮にも貴族の出身であるお前が俺と付き合ってる、ていうのはどうかと思うけどな?」
「ベルドムント家の五男坊は祖父に似て変わり者だ、と社交界では評判だからな」
「自慢げに言うことでもないだろ、それ」
胸を張りながら言うエドモンドに対して呆れ顔で突っ込みを入れた。
「それよりも、俺の友人だっていうならせめてこの部屋片付けるの手伝ってくれても良いんじゃないか?」
散乱した部屋の中、我が物顔でたった一つの椅子に堂々と腰掛けているエドモンドを非難げに見つめた。
「…………今度奢りな」
「……分かった」
――周りから変わり者扱いされているの、そういう所が原因だと思うぞ。レヴィは胸の内で密かに呟いた。
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