幽世の九尾

黒井狐狐

禁域に秘められし銀髪の少女

#1

「……はあ」

 暗い独房の中、壁際に作られた簡素な木のベンチに腰掛けていたレヴィは溜息を吐いた。

 魔術院の地下に設けられたこの独房は、ここの魔術師の間では『特別な場所』として知られていた。本来であれば帝都で捕まった罪人などは、ここから遥か遠くにある収容所に送られるが、特殊な事情によって外の収容所に送ることができない魔術院の人間はこの地下の特殊房に送られる。簡単に言えば口封じの為に作られた独房だった。決して表に出してはならない禁忌に触れた者、帝国魔術師を装って他国から送り込まれた密偵、そして触れてはならない『』にその手を触れてしまった愚者――レヴィはその愚者の一人だった。


  ***


 事の切欠は二日前のこと。帝国魔術師として魔術院で住み込んでいたレヴィは図書室に向かうため、『禁域』の扉がある廊下に向かって走っていた。『禁域』とは若い帝国魔術師の間で呼ばれるようになった魔術院の裏の姿。魔術院に属する人間でもほんの一握りの人間しか入ることは許されていない。

 これまで何度か他国の密偵などが機密情報を得るために侵入を試みたらしいが、『禁域』に入れば最後、表の世界から存在が抹消されるという噂が立っている。

 そのためか『禁域』に近寄る魔術師は殆どおらず、この辺りの廊下はいつも閑散としていた。しかしレヴィはそのようなことはお構いなしと言わんばかりに、図書室へ向かう時は常にこの廊下を通っていた。複雑怪奇極まる程に多くの廊下や階段が交わる、『帝国最大の迷宮』と呼ばれたこの魔術院の構造上、自分の個室から図書棟へ迷わず行ける最短のルートがここだからという理由だった。

「――ん?」

 空中で交差している大階段を左に曲がり、例の『禁域』の入り口が存在する廊下に入ると、見慣れた人物が『禁域』の扉の前にいるのを見かけた。ブラッド・アーネスト。学生時代に教員として世話になったことのある中年の魔術師だった。

「――こんにちは」

 何故こんな所に彼がいるのかという疑問と共に不穏な予感が頭をよぎったが、無駄に詮索する必要もないだろうと、すれ違いざまに挨拶しようとする。

「な! お、お前!?」

 返ってきた反応は明らかに異常なものだった。どうやらレヴィのことには気付いていなかったらしく、声をかけられるとブラッドは大げさに跳び上がった。普段は温厚な人柄なはずだが、何故か口調も荒くなっている。

「……どうかしたんですか?」

 誰がどう見ても怪しい素振りを見せるブラッドに、不信感を募らせながらレヴィは尋ねた。

「ど、どけ!!」

 しかし質問に答えることなくブラッドはレヴィを突き飛ばして走り出した。勢い良く壁に頭をぶつけ、視界が白く瞬く。

「――つぅ……」

 気が付けば、既にブラッドは姿を消していた。一体何事なのか。激痛が走る後頭部を抑えながら、レヴィは先程までブラッドが立っていた『禁域』の扉に目をやる。

「――え」

 普段『禁域』の扉には何重もの鎖で厳重に封印されていたはずだったが、扉は大きく開かれており、扉の傍には大量の鎖が散らばっていた。よく見ると鎖の所々が切断されている。

 ――そう言えば。

 ブラッドが自分を突き飛ばした時、一瞬だけ彼が小脇に何かを抱えていたのを思い出す。

「――まさか――!」

 頭の中で一つの結論に到達した瞬間、突如『禁域』から警鐘が鳴り響く音が聞こえてきた。魔術院で緊急事態が発生した場合に鳴らされる音だった。

「――扉が開いてるぞ!」

「外の警備に連絡を取れ! 建物を封鎖させろ!」

「エゼル様にも至急ご報告を!」

「『女狐』は無事なのか!?」

「俺はこのまま中を探す!」

 続いて『禁域』から何者かの声が複数聞こえると、黒ずくめの服装を身に纏った屈強な男が『禁域』の扉から飛び出してきた。

「野郎、何処に――」

 血走った眼で周囲を見渡していた男の目線がこちらに向けられたところでピタリと止まる。その瞬間、レヴィの背中に悪寒が走った。――いやな予感がする。

「テメエだな! この帝国に仇なす不埒者!!」

 ――不幸にも予感は現実となった。男はこちらを捕まえようと飛びかかってきた。

「ち、違います! 俺はただ――」

「問答無用、覚悟!!」

 紙一重で男の突進を躱し、弁明しようと口を開けたが、男の方が早かった。こめかみに鋭い激痛が走ると同時に、身体がひとりでに横へ吹っ飛び、糸の切れた人形の如く崩れ落ちるように床に倒れる。何が起きたのか、理解するのに刹那の時間がかかったが、男に拳骨で殴り飛ばされたことを理解したときには、既に意識が遠のき始めていた。


  ***


 あの騒動の後、濡れ衣によって気が付けばこの特別房に収容されていたレヴィは、そのままほぼ二日間の監禁生活を余儀なくされていた。独房内に時計はなく、地下なので外の様子も伺えないが、食事は二回、昼と夜に出されるため、それで何とか時間を把握していた。重厚な独房の鉄扉の前には先程食べ終えた昼食の小さな皿が置いてある。二日前の昼間にここに入れられ、そのまま夕食が出されずに一夜を過ごし、昨日の昼間と夜、そして今日の昼に食事を入れられている。少なくとも一日と半日は経っているのは間違いないだろう。

 独房内にあるのは部屋の隅に排泄用に空けられた小さな穴と今座っている木のベンチと薄い毛布。娯楽の類は当然存在せず、監視役の人間は近くにいないため、冤罪だと訴えるどころか退屈しのぎの雑談すらできないような状態だった。できることと言えば、扉から入ってくる燭台の微かな明かりを元に、天井や壁に敷き詰められた石の数を数えることくらいしかない。当然と言えば当然。ここに送られた人間は皆、帝国の闇に葬られる運命に定められた者。そんな人間にチェスやポーカーを与える必要も無いのは自明の理ではある。

 ――にしても、つまらないことで人生終わっちゃったもんだな……

 二日前までは部屋の狭さに内心文句を垂れていた自分の個室を懐かしみながら、ベンチの上で横になる。確かにあの部屋はかなり狭かったが、少なくとも暖かい陽光が窓から差し込むし、詩集やカードも置いてあるので暇つぶしには事欠かない。そして何よりも――

「――ロマトのスープが飲みてぇ……」

 ――何よりも、食堂の食事がとても懐かしく感じられた。独房で渡されるのはカチカチに固まったパン一切れと水のみ。帝国元老院直属の組織ということもあって、魔術院の食堂で出される食事はとても豪華で美味しいものだった。

「――腹減ったな……」

 さっき申し訳程度の食事を取ったばかりだったが、地上のことを思い出すと自然と腹の虫が鳴き始めた。その時だった。

「――レヴィ・クレスメント、返事をしろ」

 重いノックの音と共に、外からこちらを呼ぶ男の声が耳に入った。

「――何ですか?」

 久しぶりの人の声に身体を起こし、扉に向かって歩きながらレヴィは答えた。

「――運が良かったな。お前の無実が証明された」

 声は静かに答えると、鉄扉が大きな軋み音を立てながらゆっくりと開いた。外から入ってくる二日ぶりの光に思わず両目を覆う。

 光に慣れてくると、独房の入り口に鎖帷子を纏った兵士がこちらを睨んでいた。

「さっさと付いて来い。エゼル様がお前をお呼びだ」

「エゼル様が?」

 エゼルとは魔術院の最高幹部である『魔導士』の一人。魔術院設立にも関わったとされるグラキオス家の姓を授かった魔術師だった。

「何でエゼル様が、俺を――」

「黙ってさっさと付いて来い。分かっているとは思うが、お前はまだ自由の身になったわけではないからな」

 そう言って兵士はレヴィの両腕を手枷に填める。鋭い眼光は相変わらず俺の顔を捉えたまま、兵士はこちらに背を向けて歩きだした。

 ――魔導士が俺のことを、ねえ……

 エゼルの名前はあの騒動の時に『禁域』にいた人たちの会話から出ていた。恐らく帝国の機密について何か話があるのだろう。

 ――せめて命だけは助かりますように、と

 どうせ禄なことにはならないだろうと気休め程度に祈りながら、レヴィは兵士の後を付いて行った。

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